ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2024-04-09(Tue)

 この夜はちょっと寒かったのか、ニェネントくんもわたしの寝ているベッドの上にやって来て、しばらく滞在していってくれた。
 「どうしたの? 昨日は来なかったじゃない?」とニェネントくんを抱き上げて、ニェネントくんの鼻にわたしの鼻先をくっつける。ニェネントくんの鼻先はちょびっと湿っている。「いいお湿りですね」と語りかけると、「にゃ~」と返事をくれる(「嫌がっているのだ」という説もあるが)。今年はいつまで、わたしの寝ているベッドの上に来てくれるだろうか。

 昨日「ふるさと公園」に行ったとき、陽射しが暖かだったせいか、池に棲むアカミミガメが岸に上がって甲羅干ししている姿が見られた。この池に棲息しているアカミミガメはけっこう数が多いみたいだ。

     

 コブハクチョウが営巣しているそばで、そのアカミミガメの子どもが岸辺を這っているのを見た。
 この池で誕生したのだろうか。それとも誰かが池に捨てたのだろうか(それは禁止されていることだ)。

     

 アカミミガメはアメリカザリガニと共に、去年から「条件付特定外来生物」に指定された。これは「飼育してもいいけれども、これを池などに逃がして飼育放棄することが禁止される」ということ。
 環境省の「外来種問題を考える」というサイトには「どうするかね」ということも書かれているけれども、基本「飼い始めたらさいごまで飼う」ということ(これはアカミミガメに限らず、どんなペット、どんな動物でも言えることだろうけれども)。
 それで現在、この「ふるさと公園」のように野生化して数を増やしたアカミミガメについては、「防除作業」という名の捕獲作業に頼ることになる。他のサイトには「アカミミガメを見つけたら、連れて帰って飼育することも可」と書いてあるところもあったけれども、寿命が40年はあるんじゃないかといわれるアカミミガメ、小学生の頃に飼い始めても、当人は年老いて孫の代に飼育を引き継いでもらうということにもなりそう。そりゃあ賃貸住宅に住む人間には「不可能」なことだろう。
 では「捕獲」したらそのあとどうするか?というと、つまりは「駆除」するわけで、今は「冷凍」して殺処分することが一般的らしい(他の方法として「首を切断する」な~んて書いてあるサイトもあったが、そんなこと出来んがな!)。

 つまり何が言いたいかというと、こうやって外でアカミミガメの子どもとかを見つけても、連れて帰って飼育する以外に、一般人には「ただ見ている」だけで、何の方策もないということだ(まあ誰もがアカミミガメがいたからと「駆除」するわけにはいかんだろうが)。当たり前のことではあるが、こうやってアカミミガメの子どもとかをすぐ近くで目にすると、「このまま放置していいのか」などと思ってしまうのだった。

 それから昨日は、いつも「ノラ・ミャオ」か「サビーネ」と出会う公園の近くで、わたしのずっと前方で「サビーネ」が道路を横断して行くのが見えた。「サビーネ」が消えたあたりに行ってみたが、もう「サビーネ」の姿はどこにも見えなかった。
 そして「野良ネコ通り」を歩いていてもやはり、わたしの前方でサビネコっぽい色の濃いネコが道路を横断して行くのだった。このネコもすぐに姿を消してしまったけれども、この「野良ネコ通り」でネコの姿を見るのは、ずいぶんと久しぶりのことだった。

 今日は首都圏は激しい風雨らしく、テレビで傘を吹き飛ばされそうになりながら歩く人とかの姿が放映されていた。もう満開を過ぎた桜の花は、これで一気に散ってしまうのだろう。
 このあたりは、部屋の中からの感じではそんなに風雨は強くなかったようだけれども、わざわざ外に出かけたりはしない。

 午後からまたヴェンダース作品、今日は『ベルリン・天使の詩』を観た。この映画は、さいしょに観たときのことをちょっと記憶していた。この映画、わたしはちょっと前半をぼんやりと観てしまっていたので、明日もういちど観てみようと思っている。

 夜はハイスミスの『リプリーをまねた少年』を読む。『ベルリン・天使の詩』と同じく、まだ「壁」のあった時代のベルリンが舞台だということが共通している。この日はそんな、『ベルリン・天使の詩』の風景を思い浮かべながら読んだ。
 前に観たドキュメント『パトリシア・ハイスミスに恋して』の中でたしか、この『リプリーをまねた少年』にはハイスミスの実生活が生かされて書かれていたようなことが語られていた記憶があるけれども、読んでいると、「ハイスミスはこの作品を書くのを楽しみながら書いているなあ」という印象を受けるし、中に出てくるベルリンのゲイ・バーなど、ハイスミスがじっさいに足を運んだスポットをモデルにしているのだろうな、などと想像される。それでこの作品では、リプリーに協力してくれる「気のおけない」仲間ができたという感じもあり、今のところ読書感には明るいものがある。
 

『セバスチャン・サルガド/地球へのラブレター』(2014) ジュリアーノ・リベイロ・サルガド、ヴィム・ヴェンダース:監督

 原タイトルは『Salt of the Earth』。映画はブラジルの巨大な金鉱「セラ・ペラーダ」を撮影した写真群から始まる。「巨大な穴にうごめく5万人の人」。そこにあって、いつまでも鉱山の土を掘る男たちは、まさに「一攫千金」の狂気に捕らえられているようだ。「金」を得たものは鉱山を出て行き、もちろん二度と戻ることはない。5万人の人々は「いつか自分も金塊を」という欲望を原理として動いている。この写真群に、若き日に「経済学」を学び、それから写真家になることを選んだ、セバスチャン・サルガドという人の「表現」の本質があるのかもしれない。
 セバスチャン・サルガドは「世界のありよう」をカメラで捉えて発表してきたが、その「世界のありよう」の背後には、実は世界を支配する「大きな<経済>の動き」というものがあるのだ。肥大化した<世界経済>こそが、人々を押しつぶそうとしている。

 この映画はセバスチャン・サルガドのキャリアをたどる「伝記映画」であり、セバスチャン・サルガドの子息のジュリアーノ・リベイロ・サルガド、そしてヴィム・ヴェンダースセバスチャン・サルガドに同行し、その演出によってセバスチャン・サルガドという「人間」、彼と彼の作品との関係が浮かび上がってくるような作品だ。
 基本モノクロシーンの多い作品だけれども、サルガドの作品に「二重映像」としてサルガドの顔が重なり、彼自身が作品について語るシーンが何度も出てくることが印象的だ。
 これはギャラリーに掛けられた作品の前で、作者本人がその自作について語っているということがイメージされるが、「ヴェンダースの作品だ」ということで観てみると、昨日観た『パリ、テキサス』の終盤で、マジックミラーの部屋でハリー・ディーン・スタントンナスターシャ・キンスキーとのイメージが重なるシーンのことが思い出されるのだった。

 そのキャリアの初期に「人物ポートレート」を撮っていたサルガドが、「ポートレートは私一人で撮るのでなく 相手からもらうのだ」と語るシーンがあったが、わたしにはこの言葉こそ、サルガドの作品みなに共通して語り得ることではないかと思った。
 わたしは知らなかったが、サルガドは「<神の眼>を持つ写真家」とも語られているそうなのだが、彼の作品が<神の眼>と言われるとしたら、それはサルガドの写真が「相手からもらった」ものだからであり、その「相手」とはまさにこの「Earth」なのではないだろうか、などとは思うのだった。

 シベリアから南米、そしてアフリカへと取材を続けられたサルガドは「労働者」の問題、「難民」の問題に向き合っていたが「ユーゴスラビア戦争」「ルワンダの虐殺」を取材していて心が折れ、帰国する。ブラジルの故郷に帰ってからは夫人の提案で、父の農園跡地に植林プロジェクトを開始、そこを「INSTITUTO TERRA」と名付ける。植林は成功し、その土地はブラジルの国立公園に指定される。
 自信を得たサルガドは視点を変え、ガラパゴスの動物やクジラら野生の動物らを撮影し、ブラジル奥地で「現代世界」との接触を持たずに来た原始的原住民部族の記録写真も撮り始めるのだった。

 サルガドの作品群は、ある意味現代の人類が抱える「根源的な問題」を捉えたものだとも思うし、自室に引きこもってテレビを見ているわたしに突きつけられることは「やっかい」なのだけれども、改めて「現代世界の悪の根源は?」などという大きな(?)ことを考えさせられる。そういう、「認識」を問う映画ではなかったか、などとは思うのだった。
 

2024-04-08(Mon)

 「ふるさと公園」へと歩いた。「公園周辺の桜、どのくらい花咲いているだろうか」という興味もあったけれども、やはり先週の木曜日に訪れたときに比べ、もう一気に咲いてしまったようだ。木曜日から4日経つけれども、桜の花は咲き始めると早いな、という印象。まだ「満開」にはあと一歩というところではあるけれども、この週末にはけっこう散ってしまっていることだろうと思う。写真は公園の中の桜。

     

     

 公園に入ると、さいしょの池のほとりに三脚で一眼レフカメラを構えた方が2人ほどいらっしゃって、その横に双眼鏡を持って池の対岸を眺めてらっしゃる方もいた。「こういうのはきっと、カワセミがいたのかな」と思ったが、わたしも皆が見ている方角を見ていると一瞬、青い羽根の鳥が水面近くを飛ぶ姿が見えた。やはりカワセミだったか。

 コブハクチョウが巣ごもりをしているところへ行ってみると、この日はもう一羽のコブハクチョウも巣の近くで泳いでいた。抱卵しているのはメス鳥で、そばを泳いでいるオス鳥が巣の周辺をパトロールしているのだ。ときどき交代してオスが卵を抱き、そのあいだにメスは食事に出かけるらしい。

     

 このコブハクチョウの営巣場所では毎年抱卵、子育てする姿が見られるけれども、同じカップルが営巣しているのかどうかは確かではない。2年前までは毎年5~6羽の雛、幼鳥が誕生していたけれども、去年孵化した雛はわずか1羽だった。これは自然のなした偶然の結果なのかもしれないけれども、近年この手賀沼コブハクチョウの数が増加して、周囲の水田で苗を食べてしまうという被害が拡がっているということから、役所の方で数を調整しているせいかもしれない。卵を取り上げて、代わりにニセの卵を抱かせるのだという。去年そういう処置を行った可能性はあるだろう。

 しかしコブハクチョウの数が増加しているのは、「ふるさと公園」に接している手賀沼のずっと東の方、手賀川とつながるあたりのことらしく、「ふるさと公園」周辺のコブハクチョウの数など問題にならない増え方らしい。じっさい、今の「ふるさと公園」周辺で目にするコブハクチョウは、この営巣したカップルと去年産まれた幼鳥ぐらいしかいない。その前の年までは4~5羽のコブハクチョウが見られる時期もあったが。

 そういう意味では、この「ふるさと公園」のコブハクチョウの産卵数を調整しなくってもいいように思ったりするが、どうも「ふるさと公園」で産まれたコブハクチョウも、成長すると東の方に移動してしまい、大きな群れの一員になってしまうようだ(去年産まれた幼鳥も今は姿を見せなくなったので、東に移動した可能性がある)。

 去年のコブハクチョウの営巣中には、近くに「コブハクチョウが抱卵していますので、周辺で釣りをしたり騒がしくしたりしないで下さい」という掲示が出ていたけれども、一方で「卵をいっぱい産んで、数が増えると困るなあ」としながら、それでも「抱卵~孵化のジャマはしないでね」とやるのは、「矛盾」といえば「矛盾」ではないかとも思ったりする。

 「ふるさと公園」を出ると、そこにも川沿いに桜並木があるのだけれども、そちらの桜は咲くのがちょっと遅れていて、まだ「七分咲き」ぐらいだろうと思えた。

     

 この日は陽も陰っていて、そこまでに気温も高くはないだろうと思っていたが、薄手のセーター一枚でもちょっと暑くなり、帰宅すると汗がふき出してしまった。

 昨日ヴェンダースの『パリ、テキサス』を観て、良かったもので、「しばらくはヴェンダースの作品を観ようか」と、今日は『ベルリン・天使の詩』にしようかと思ったのだけど、「ちょっと今日の気分ではないか」と、ドキュメンタリーの『セバスチャン・サルガド/地球へのラブレター』を観た。考えさせられることの多いドキュメンタリーだった。

 夜はハイスミスの『リプリーをまねた少年』を読み継いでから寝た。この夜はニェネントくんはベッドに上がってくることはなかった。
 

『パリ、テキサス』(1984) ロビー・ミューラー:撮影 ヴィム・ヴェンダース:監督

 ヴィム・ヴェンダースは昔からの友人サム・シェパードと共に「アメリカについての作品を撮りたい」と考え、サム・シェパードの「Motel Chronicles」を2人でアレンジすることを検討する。さいしょは「どこからともなく現れ、行くあてもない奇妙な男」というアイディアからスタートしたそうで、主演はサム・シェパードの予定だったという(映画会社がサム・シェパードを「俳優」と認識していなかったため、叶わなかった。また、サム・シェパードも「身近すぎて演じられない」と言っていたらしい)。
 シェパードが脚本を書き、まだ脚本の全体が完成しないうちに「順撮り」で撮影が始まるが、その後シェパードが『カントリー』という作品に出演するために脚本を書けなくなり、L・М・キット・カーソンが以後の脚本に協力するが、当初から撮影をしながら先の脚本を考えていく方策を取り、その途中ではいろいろなストーリー案があったらしい。
 撮影監督のロビー・ミューラーヴェンダースは翌日の撮影の構想を徹夜で話し合い、共に車で撮影地(ロサンゼルスからテキサスへの道)をドライヴし、そのときに撮影することもあったらしい。

 主な出演者はトラヴィスハリー・ディーン・スタントン、トラヴィスの弟のウォルトのディーン・ストックウェル、その妻のアンのオーロール・クレマン、そしてトラヴィスの妻のジェーンのナスターシャ・キンスキー、トラヴィスとジェーンの子、ハンター役のハンター・カーソンの5人だけれども、ハンター・カーソンは脚本で参加したL・М・キット・カーソンの息子さんなのだ。
 そしてわたしは、アン役のオーロール・クレマンという女優さんの顔に見覚えがあったもので調べてみたら、なんと先日観たヴィクトル・エリセの『エル・スール』で、劇中の映画の中で「イレーネ・リオス」を演じていた女優さんなのだった。この偶然にはちょっとおどろいた。

 作品として、ストーリーがジョン・フォードの『捜索者』に似ているという意見もあるようだが、わたしは『捜索者』の記憶がないのでそのあたりはわからない。でもわたしは、同じヴェンダース監督の『都会のアリス』には似ていると思った。

 わたしが観た感じではこの作品は3部にわかれていて、さいしょはテキサスの荒涼とした地で発見されたトラヴィスをウォルトが迎えに行き、ロサンゼルスに連れ帰るまで。
 次のパートはトラヴィスがウォルト家の空気に馴れ、そこにいた自分の息子のハンターと親子の情を通わせるまで。
 そしてさいごは、トラヴィスとハンターとがハンターのお母さんのジェーンを探しにヒューストンへ行き、トラヴィスがジェーンと再会する。

 ロビー・ミューラーの印象に残る美しい撮影と、ライ・クーダーによる余韻たっぷりのスライドギターの音色とで、映画はアメリカ西部の荒涼とした風景を詩的に描き出している。「ロード・ムーヴィー」として評価の高い所以(ゆえん)だろうと思う。冒頭、ハリー・ディーン・スタントンの被っている赤い帽子、そしてヒューストンへ旅立つときのハリー・ディーン・スタントンとハンターの着ている赤いシャツ、二人が泊まったホテルの部屋の赤いラジオ、「Coca Cola」の赤い看板、そしてナスターシャ・キンスキーの乗る赤い車と、全編にわたって赤い色が印象的に使われていたことも記憶に残る。

 この映画、わたしはもっとアーティスティックな、観ていて疲れる作品かとの先入観もあったのだけれども、前半のハリー・ディーン・スタントンの「コミカル」でもある演技、そしてウォルト夫妻とハンターとの「家族愛」の展開、それからハンターを演じるハンター・カーソンの、生き生きとした愛らしいふるまいに観て飽きることもなく、そのあとのハリー・ディーン・スタントンナスターシャ・キンスキーとの切なく哀しい「対話」へと引っ張られてしまうのだった。ラストのナスターシャ・キンスキーとハンター・カーソンとの再会シーン(長回し)はもう、わたしは泣くしかなかった。さいごのハンターのセリフ、「ママ、髪が濡れてる」、というのがたまらない。
 

2024-04-07(Sun)

 午前中はまだ少し寒い気がしたけれども、午後からはけっこう暖かくなったみたいだ。天気もいいので、東京とかはまさに「お花見びより」になったことだろう。
 昼まではリヴィングのわたしのそばで丸くなっていたニェネントくんは、午後から姿が見えなくなったので「どうしたのかな?」と和室をのぞいてみたら、キャットタワーの上で「ひなたぼっこ」をしていた。写真は逆光で顔がまっ黒になってしまったが。

     

 今日は午後から、ヴィム・ヴェンダース監督の『パリ、テキサス』を観た。この映画もむかし観てるんじゃないかと思っていたけれども、昨日観た『ノマドランド』のようにまるで記憶していなかった。
 いや、『ノマドランド』は主演のフランシス・マクドーマンドが「Amazon」の配送センターで働くところとか、多少なりとも記憶が残っていたのだけれども、この『パリ、テキサス』はこれっぽっちも記憶していなくって、「ひょっとしたら、観たような気になっているだけで、本当はいちども観たことがなかったのではないか?」とか思ってしまった。
 それで古い日記で検索してみると、なんとまさにこの日からちょうど10年前、2014年の4月7日に観ているのだった。そしてそのときの日記には「この映画、久しぶりに観た」などと書いてあったので、その前にも観ていたことがわかる。
 その10年前の前後の日記を読んでみると、どうやらその時期はわたしの記憶がいちばん失せてしまった時期ではあるようで、その頃観た映画、読んだ本のこと、自分の行動など、どれもまったく、なにひとつ記憶していないのだった。

 まあ自分の「記憶障害」「記憶喪失」については、それはもう「こぼれたミルク」のようなもので、嘆いてもしょうがないとは思っているのだけれども、あらためてそんな事実を突きつけられると、やっぱりうんざりしてしまうのだった(「突きつけられた」といっても、自分で自分に突きつけているわけだけれども)。

 観終わって、わたしはこれは「素晴らしい映画だ」と思ったのだけれども、10年前の日記はめっちゃ素っ気なくって、そのときのわたしは感銘を受けたりもしていないような書き方だった。

 この日の夕食は、先日北のスーパーで珍しく買った、出来合いの「お惣菜」の串カツにキャベツの千切りを添えて、串カツにはソースとマヨネーズ、キャベツにはドレッシングとマヨネーズをあえるという「超お手軽」夕食にしたのだが、北のスーパーで売っている「お惣菜」は、ほっんとうに美味しくない。ガッカリだった。これが東のスーパーだったなら、売られている「お惣菜」はけっこう美味しいのだけれども。

 寝る前に、テレビの「ダーウィンが来た!」を見た。この日は視聴者から寄せられた疑問に答えるという特集だったが、まずは鎌倉あたりに出現するという「白いカワセミ」。このカワセミのことは前にネットの記事で読んだことがあるが、意外と住宅地の中、コンクリートの濠ぞいに棲息しているようだ。そのカワセミの周囲にはカメラをかまえたウォッチャーの数も多いようだったけれども、カワセミはまるで人間のことを気にせずにエサを取り続けているように見えた。しかし「なぜ白いのか?」という疑問には答えず、そのカワセミの背中に見える「青い羽根」が実は「青」ではなく、その羽根だけ「構造色」によって青く見えるのだ、という説明だけだった。
 次は新潟の方から、「自宅周辺に謎の動物の鳴き声が聞こえる」ということで、「その正体は何か?」という質問。録音されたその「鳴き声」を聞いたけれども、「じ~、じ~」という鳴き声。な~んだ、そりゃあ「オケラ」じゃないかと、わたしはすぐにわかってしまった。
 こういうのは、小さい頃に「泥遊び」とか「土遊び」をしていれば目にする機会はあるだろう。東京周辺でもまだまだ棲息しているらしいし。
 この「おけら」を捕まえて、指ではさんで持ち上げて「お前の〇〇〇〇、どのくらい?」と聞くと、「おけら」は前足を思いっきり拡げて「これくらい!」と答えてくれるのだ。
 ‥‥観た映画のことはすっかり忘れてしまっていても、こういうことはしっかり覚えているのだ。
 

『ノマドランド』(2021) クロエ・ジャオ:監督

 この作品は、2017年にジェシカ・ブルーダーという人が発表したノンフィクション「ノマド: 漂流する高齢労働者たち(Nomadland: Surviving America in the Twenty-First Century)」の映画化。
 まず、この映画のプロデューサーであり主役を演じたフランシス・マクドーマンドがこのノンフィクションを読み、すぐに映画化権を獲得し、監督に中国出身のクロエ・ジャオを抜擢した。
 出演したプロの俳優はフランシス・マクドーマンドデヴィッド・ストラザーンだけで、他の出演者は主に原作の「ノマド: 漂流する高齢労働者たち」に登場した人たちが、そのままの名前で出演しているそうだ。
 作品はヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞を獲得したほか、アカデミー賞の作品賞、監督賞、主演女優賞を得るなど、世界の映画祭で非常な高評価をもって迎えられた。しかし中国では、過去にクロエ・ジャオ監督が中国政府を批判する発言をしていたためなのか、この映画が上映されることはなかったという。

 この本をAmazonで検索すると、同じページに「ノマドワーカー 自由な生き方と働き方 人生を旅する準備は出来てるかい?好きな時に好きな場所で仕事をしよう」という本とか「好きな国で働いて生きていく!海外ノマドワーカーになるための攻略本」などというお喜楽極楽な本がいっしょに表示されてくるけれども、映画はそういう「自由を謳歌しようとする人たち」を描いたものではない。

 リーマン・ショック以後、アメリカでも年配の人たちに働き口を失う人が増加し、そういう人たちはキャンピング・カーなどで短期の仕事を求めて、アメリカ中を車上生活をしながら旅してまわるようになるのだ。
 主人公のファーン(フランシス・マクドーマンド)も、夫の働いていた町でずっと暮らし、その夫の死後も町に留まって代用教員などをやって来たらしいのだが、不況で町を支えていた企業が倒産、すべての住民は町を出て行くという事態になったらしい。その町の郵便番号も消えてしまったというから、「完全消滅」だ。
 それでファーンはヴァン(キャンピングカーではない)に乗って、アメリカ中を季節ごとの仕事を求めて移動して行くのだ。さいしょはAmazonの物量倉庫での発送作業に従事し、その仕事も年間のある時期しかないらしく、別の仕事を求めて移動して行く。移動先では同じような年配の労働者と知り合い、「次の仕事」などの情報を得たりするし、そんなヴァン生活者のコミュニティの集会に参加したりもする。ファーンは自分のことを「ホームレス」ではなく「ハウスレス」よ、とは語っている。

 自分が思うがままに車を走らせ、渓谷で裸で泳いだりするファーンの姿からは、「何にも規制されず解放されて幸福そうだ」と思うかもしれないが、駐車場でヴァンの中で夜明かしすると「車中泊は禁止だ」と注意されるし、「自分の家」でもあるヴァンがひとたび故障でもしようものなら、一苦労しなければならない。貯金もないらしいファーンはバスで妹の家を訪ね、金を借りることになる(金があればヴァンやキャンピング・カーの上にソーラーパネルを設置して、ガソリン代を浮かせることも出来るのだが)。
 ファーンが出会う高齢者たちも皆、「年金では生活できないから、こうやって死ぬまで仕事をしなければならない」と語り、それは日本の高齢者の労働事情と同じではないかとも思う。「ノマドワーカー」などといっても、ちっとも「自由で気まま」な存在などではない。気難しいところもあるファーンは、他人との深いかかわりを求めているわけでもないようなので、今の生き方が合っているようではあるけれどっも。

 ノマドたちの集会で皆の支えになるボブという男性は、実はしばらく前に息子が自殺していて、「自分も死のう」と思ったが、「皆の支えになることが自分の存在理由だ」と思い直したという。
 また、「もう余命が数ヶ月しかない」とわかっているスワンキーという女性はファーンに、かつて自分が体験したもっとも素晴らしい体験、海岸の断崖の空一面に無数のツバメが飛び、その断崖にはツバメの巣がぎっしり並んでいて、自分はそこでカヤックに乗る。自分は「もういう死んでもいい」と思ったという話をする。
 時が過ぎて、ファーンは、無数のツバメとツバメの巣にあふれ、海にカヤックが浮かぶ映像を受け取るのだった。

 もうひとり、デイヴという男(デヴィッド・ストラザーン)。彼は荒れ地でテーブルに石を並べて売っているという、つげ義春のマンガの登場人物のような男だが、ファーンとは仲が良くなる。そんなデイヴを訪ねて彼の息子がやって来る。息子はデイヴに「ウチに来ていっしょに暮らそう」と言う。デイヴはファーンに、自分は息子が小さい頃家に寄り付かなくなっていて、「どうやって息子に接したらいいかわからなくなってしまっていた」と話す。デイヴは息子の家に行くことにして、ファーンに「いつでも訪ねて来てくれ」と言う。
 ファーンも孤独が身に沁みたのか、あるときデイヴを訪ねて行く。息子夫婦と共に幸せな家族を築いているようだったが、デイヴはファーンに「ここでいっしょに住まないか?」と持ちかける。それはまるで結婚の申し込みのようだった。
 それはファーンの選ぶ生き方ではないので、デイヴと別れてまた「路上の人」となるのだった。季節はまた一巡して、Amazonでの仕事の季節になっていたのだった。

 映画はまさにドキュメンタリー・タッチで撮られていて、説明的な演出もなされない。ただ土地から土地へと移動して行くさまは、「アメリカ」という広大な国を舞台にしたロード・ムーヴィーのようではある。その「ノマドランド」では、いろいろな人々の人生も交差する。
 その移動する土地それぞれで何度も映し出される「夕焼け」の景色と、その手前を歩くフランシス・マクドーマンドのシルエット、そして静かな音楽とが記憶に残る映画だった。
 

2024-04-06(Sat)

 下の写真は、一昨日自宅駅のそばで撮ったものだけれども、この植物はわたしはこれまでに見たことのない植物だった。密生していたわけではなく、他の雑草にまじって間隔を置いて生えていたもの。茎の先端の細長い黒い房が気になる。
 今日になって調べてみたら、「ヘラオオバコ」という外来植物で、けっこう日本中に分布しているらしい。もう江戸時代から日本に渡っているものだというけれども、葉っぱは「薬草」扱いされるという。しかし他の農作物などと競合してしまうし、「花粉症」の原因となるらしい。「外来生物法」で「要注意外来生物」に指定されていて、さっさと引っこ抜いて下さい、ということであった。

     

 今日もあまり気温も上がらず、夜はニェネントくんがベッドにあがってきて、しばらくいっしょに寝たのだった。
 読んでいるパトリシア・ハイスミスの『リプリーをまねた少年』が、ようやっとページ数で半分に達した。なんてのんびりした読書だろうと思うが、半分まで来てようやく大きな事件が起こり、「こうでなくっちゃ!」って感じになった。これからは読むいきおいも加速できればいいのだけれども。

 暴走を加速させてるのはイスラエルのネタニヤフ首相だが、アメリカのバイデン大統領がいくらガザへの人道支援拡大や民間人保護を働きかけても要請が聞き入れられず、ついに民間NGO職員7人が死亡したことでバイデン大統領の怒りも爆発したようで、ネタニヤフとの電話会談を行い、これまでのアメリカのイスラエル支援のあり方を全面的に見なおす意向を伝えたという。
 今はアメリカ国内でもアメリカの「イスラエル支援」に抗議する声も大きくなっているし、イスラエル国内でも「反・ネタニヤフ」の動きが活発になってきているという。

 世界的にも各地で「Free Palestine Free Gaza」の運動が拡がっているし、日本でも文部科学省掲示板に「FREE GAZA」と書き込んだ人が「器物破損」の疑いで逮捕されたばかりだ。もうほとんど、1970年代の世界に拡がった「ヴェトナムに平和を!」という反戦運動に匹敵しそうな勢いではないかと思う。

 この日は午後からテレビで、「地球最後の秘境マダガスカル」とかいうスペシャル番組をやっているのを見た。マダガスカルは世界の他とまるで違う動物相を持っているので、珍しい動物の宝庫である(生き物に「宝庫」という言い方は良くないと思ったが)。
 「ワオキツネザル」はマダガスカルの動物でも有名だけれども、キツネザル類はまだまだいっぱいいるのだ。そして木の幹に擬態する「ヤモリ」の珍しい映像、さらにマダガスカルにはカメレオン類があふれている。カラフルなカメレオンから、爪の先ほどの大きさの「世界最小の爬虫類」のカメレオンなど。午後のひととき、珍しい動物たちの映像を堪能した。

 そのあと夕方からは、フランシス・マクドーマンドの主演した『ノマドランド』という映画を観た。
 この映画もわたしは昔観ているはずだと思って調べたが、3年前の5月にとなり駅の映画館で観ていたのだった。この映画のこともまるっきし記憶していなくって、ただフランシス・マクドーマンドアメリカの「Amazon」の配送所で発送業務の仕事をしていたことだけ、わずかに記憶していた。
 わたしはある種「ひきこもり生活」をつづけていて、この映画の「現代のノマドたち」の対極のような生き方なのだが、実はメンタルな面では同じ問題も共有していると思った。
 最近、デヴィッド・ストラザーンの出演する映画をけっこうつづけて観ていて、「気になる存在」の役者さんなのだが、この映画のデヴィッド・ストラザーンはとってもよかった。