原タイトルは『Salt of the Earth』。映画はブラジルの巨大な金鉱「セラ・ペラーダ」を撮影した写真群から始まる。「巨大な穴にうごめく5万人の人」。そこにあって、いつまでも鉱山の土を掘る男たちは、まさに「一攫千金」の狂気に捕らえられているようだ。「金」を得たものは鉱山を出て行き、もちろん二度と戻ることはない。5万人の人々は「いつか自分も金塊を」という欲望を原理として動いている。この写真群に、若き日に「経済学」を学び、それから写真家になることを選んだ、セバスチャン・サルガドという人の「表現」の本質があるのかもしれない。
セバスチャン・サルガドは「世界のありよう」をカメラで捉えて発表してきたが、その「世界のありよう」の背後には、実は世界を支配する「大きな<経済>の動き」というものがあるのだ。肥大化した<世界経済>こそが、人々を押しつぶそうとしている。
この映画はセバスチャン・サルガドのキャリアをたどる「伝記映画」であり、セバスチャン・サルガドの子息のジュリアーノ・リベイロ・サルガド、そしてヴィム・ヴェンダースがセバスチャン・サルガドに同行し、その演出によってセバスチャン・サルガドという「人間」、彼と彼の作品との関係が浮かび上がってくるような作品だ。
基本モノクロシーンの多い作品だけれども、サルガドの作品に「二重映像」としてサルガドの顔が重なり、彼自身が作品について語るシーンが何度も出てくることが印象的だ。
これはギャラリーに掛けられた作品の前で、作者本人がその自作について語っているということがイメージされるが、「ヴェンダースの作品だ」ということで観てみると、昨日観た『パリ、テキサス』の終盤で、マジックミラーの部屋でハリー・ディーン・スタントンとナスターシャ・キンスキーとのイメージが重なるシーンのことが思い出されるのだった。
そのキャリアの初期に「人物ポートレート」を撮っていたサルガドが、「ポートレートは私一人で撮るのでなく 相手からもらうのだ」と語るシーンがあったが、わたしにはこの言葉こそ、サルガドの作品みなに共通して語り得ることではないかと思った。
わたしは知らなかったが、サルガドは「<神の眼>を持つ写真家」とも語られているそうなのだが、彼の作品が<神の眼>と言われるとしたら、それはサルガドの写真が「相手からもらった」ものだからであり、その「相手」とはまさにこの「Earth」なのではないだろうか、などとは思うのだった。
シベリアから南米、そしてアフリカへと取材を続けられたサルガドは「労働者」の問題、「難民」の問題に向き合っていたが「ユーゴスラビア戦争」「ルワンダの虐殺」を取材していて心が折れ、帰国する。ブラジルの故郷に帰ってからは夫人の提案で、父の農園跡地に植林プロジェクトを開始、そこを「INSTITUTO TERRA」と名付ける。植林は成功し、その土地はブラジルの国立公園に指定される。
自信を得たサルガドは視点を変え、ガラパゴスの動物やクジラら野生の動物らを撮影し、ブラジル奥地で「現代世界」との接触を持たずに来た原始的原住民部族の記録写真も撮り始めるのだった。
サルガドの作品群は、ある意味現代の人類が抱える「根源的な問題」を捉えたものだとも思うし、自室に引きこもってテレビを見ているわたしに突きつけられることは「やっかい」なのだけれども、改めて「現代世界の悪の根源は?」などという大きな(?)ことを考えさせられる。そういう、「認識」を問う映画ではなかったか、などとは思うのだった。