ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2026-01-12(Mon)

 今日は月曜日だが、世間的には「成人の日」の祝日でもあった。この日も空は晴天で、外を歩くにはそこまでに寒くはない感じ。わたしは毎週の月曜日のように「ふるさと公園」へと歩くのだった。
 そしてこの日の「ふるさと公園」で、わたしはずいぶんと久しぶりにカワセミに出会ったのだった。この公園でカワセミの姿を見るのは24年の4月以来のことになり、もう「ふるさと公園」にカワセミが来ることもなくなるのかと思い込みそうになっていたところだ。そのあいだに毎週のように三脚を立ててカワセミを狙っていたカメラマンの方々(約2名)も公園に来なくなってしまっていた。そんなとき東京の都心でカワセミの姿が見られるようになったというニュースも流れ、この公園のカワセミが東京都心へ引っ越してしまったのか、な~んて考えたりもしたのだったが。
 ただ、「鳥の博物館」が半年ごとに発行している「鳥だより」をみると、手賀沼の観測でカワセミは毎月3~4羽は見られていたようなので、偶然わたしの目にとまっていないだけのことだろうとは思っていたが。
 それでこの日は、池のほとりの遊歩道沿いの手すりにとまっているユリカモメを見ていたら、その同じ手すりにカワセミもとまっていたのだった。

     

     

 このあとは偶然にわたしの行く方向にカワセミも飛んで来て、さいごに見失ったと思ったら、池沿いの木の枝からカワセミが池へダイヴするところを見ることができた。一瞬で水面からまた飛び上がってしまったが、果たしてカワセミくんにハンティングの成果があったのかどうかはわからなかった。
 この日は実はコブハクチョウの姿もみられなかったのだけれども、カワセミに出逢えただけで満足ではあった。
 「ふるさと公園」から出るところで、すっごい望遠レンズ付きのカメラを抱えられた方が公園に入って行かれたので、「カワセミがいましたよ」な~んて教えてあげようかとも思ったが、それはまさに「余計なお世話」だ。もうカワセミに逢えなかったら余計な期待だけ抱かせてしまうことになる。
 しかし、カワセミくんがこれからもこの公園にやって来てくれるといい。やはりカワセミの美しさは「別格」なのだから。

 公園を出て、すぐそばのドラッグストアに立ち寄ってみた。わたしは先週ここで「コシヒカリ」を2割引きで買ったわけだが、この日おコメ売り場をみてみると、銘柄米はすっかり売れてしまっていた。みんな、わたしと同じように割引券を使っておコメを買ったわけだなあ。

 この頃は「ふるさと公園」の外でも、スズメの姿をよく見かけるようになっていて、スズメの写真を撮るのも楽しみになっている。この日も、われながらなかなかいいスズメの写真が撮れたと思う。

     

     

 夕方からは「大相撲中継」を見るが、この日はゲストに大相撲ファン松重豊氏と市川紗椰氏が出演され、解説は元貴景勝湊川親方だった。湊川親方はまた細身になられて若返られたようで、この日の「成人式」に参加するやんちゃな男の子、みたいではあった。それでも湊川親方の解説は理にかなって「なるほど」と思わせられるし、適度なユーモアも盛り込まれて面白く、これからは相撲中継の大きな「売り」のポイントになるのだろうと思う。
 この日も関脇以上の上位陣は関脇の高安に土がついた以外は安泰で、まだ二日目ではあるけれども、先の展開が楽しみではある。

 ニュースでは、高市首相が解散総選挙に打って出るという話で持ちきりになっているみたいだ。しかし皆が言っていることだが、この物価高だかの問題山積の今げんざいに政治的空白をつくっていいのか、ということだ。どうも、韓国で旧統一教会の文書内に高市氏の名前が32回も出てきたことが問題にされそうな気配、そんな疑惑をごまかしちゃうための解散総選挙ではないかとも思えてしまう。こういうところは「エプスタイン疑惑」をごまかすためにベネズエラを攻撃したとも言われるトランプ大統領のやり方を模倣するわけだろうか。
 ところで、もし今総選挙が行われるとしたら、いくら高市首相の応援団が多いとはいっても、自民党がそれなりに勝てるかどうかは怪しいところだと言われている。まずはこれまでの公明党との選挙協力がなくなるというのがどれだけ影響があるのか。「日本維新の会」がその代わりを果たしてくれるのか。意外と、公明党の影響力というのは大きかったのではないだろうか。
 

2026-01-11(Sun)

 早朝、目が覚めてみると、いつもと何か違う気がした。何が違うのかしばらくはわからなかったが、ふとんの中でハッと気がついた。寒くないのである。特にわたしは今は「しもやけ」になりかかっているわけで、寒さはまずは指先に沁みてくるのである。それがこの朝は、「しもやけ」の症状の出かけている指先が、痛くないのであった。とにかくはふとんがいつもより温かいという感じもあるし、つまり、寒くないのだった。
 起き出して、ケータイでそのときの気温を確かめてみると、なんと15℃もあるというのだった。しかも昨夜12時からずっと、気温は15℃より下がっていないのだ。こんなことがあるのだろうか。このところは昼間の一日の最高気温も15℃には届かないことが多いというのに。現におとといの朝は-3.4℃まで気温が下がっていたのだから、今日よりもほとんど20度ぐらい気温がひくかった。驚きである。
 ちなみに、ケータイの天気予報では、今日は昼の12時までずっと15℃ぐらいの気温がつづき、そのあとはグングン気温は下がり、夜中には3℃ぐらいになるだろうという予報。
 ニュースでは今日の日本は強烈寒波に襲われ、各地で大雪になるといっている。それがこのあたりだけ、こんな春のような陽気になるものだろうか。おっと、このあたりだけでなく、東京や千葉など南関東一帯でも、この日の最高気温は16℃ぐらいになったようだ。

 わたしはこういった気象現象を面白く感じ、「ちょっと調べてみよう」と、ChatGPTに次のように質問してみた。

「今朝のこのあたりは異様に暖かかった。夜中の12時から昼の12時まで、ずっと15℃ほどの気温がつづいていた(Yahoo!の『天気』で確認済み)。天候はずっと曇りで、5メートルぐらいの南風だったようだ。きのうは平常通り最高気温10℃ぐらい、最低気温2~3℃だった。また、今は気温5℃台に下がっている。『放射冷却』が起きなかったためと考えて良いのだろうか?」

 この質問に対するChatGPTの回答が面白くって、なかなか勉強になった。まず結論からいうと、「放射冷却が起きなかった」だけでは説明しきれず、主因は「南風による『暖気移流』が起きたため」で、つまり曇り空プラス5メートルの南風で「冷える条件が完全に潰された」ということ。これは冬の時期の典型的な暖気流入の例なのだという。普通は夜のあいだに地面が冷えて、つまり「放射冷却」で気温も下がるのだが、雲が放射をさえぎり(これは「放射冷却」が起きなかったということだろう)、南風がガンガン暖気を供給しつづけたのだ。ChatGPTに言わせれば「昼でも夜でもない、均質な空気の塊の中に入っていた」ということなのだ。なるほど。
 たんじゅんに「今日は冬らしくなく妙に暖かだったね」ですませるのでなく、調べてみると気象の専門的なことを知らなくてもいろいろと面白いことを知ることができるわけだった。「ChatGPT」の楽しい使い方だった、ともいえる。
 下の天気図は今朝の9時のもので、北海道の北にある低気圧に向けて南風が吹き込んだであろうことが読み取れる。

       

 この日はほとんど外に出なかったのだが、ウチのすぐそばでスズメたちの集まっている姿を見た。この頃はスズメの姿を多く目にするような気がする。

     

 さてこの日から、「大相撲初場所」が始まってしまった。やはり今場所から安青錦関が大関に昇進したので、そのあたり新鮮な興味はあるし、これから十五日間、やはり見てしまうことになるだろう。
 最近は、序盤戦から上位陣に負けが連続する展開が毎場所のことになっている感じだけれども、今日の初日は横綱大関陣、それに関脇の高安と霧島も危なげなく勝って「安泰」という、新年らしい結果となった。目出度し目出度し。

 それでネットのニュースを閲覧していたら、ちょっと悲しいニュースに出くわしてしまった。
 グレイトフル・デッドの創設メンバーだったボブ・ウィアー氏が亡くなられた、という報だった。あの「Truckin'」のリード・ヴォーカルが彼だった。
 2年前に、やはり創設メンバーであられたベーシストのフィル・レッシュ氏も亡くなられているし、バンド結成時からのメンバーで残るのは、ミッキー・ハートとビル・クロイツマンのパーカッション2人だけになられてしまわれた。グレイトフル・デッドのファンの一人として、悲しい知らせではあった。これから「Workingman's Dead」、「American Beauty」を聴こうか。
 

『AKIRA』(1988) 大友克洋:原作・監督

 作品の中の、朱色に近い「赤」の色、そしてシアンに近い「青」の色とが、画面のなかで蛍光色のような発色をしていて、まずはそのことが記憶に焼き付くような作品だった。

 1988年に第三次世界大戦が勃発し、壊滅的被害を負った東京の街はその後「ネオ東京」として復興し、この作品では戦後31年の2019年が舞台となっている。そのときの東京は、60年代~70年代の新左翼風な「反政府ゲリラ」と「政府軍」との衝突がつづいているようで、荒廃した空気である。そんな中で物語はオートバイ・グループを率いる金田、その配下にあった鉄雄との2人をメインに進行していく。
 鉄雄はある事故をきっかけに自らの異能力(超能力?)を自覚することとなり、「政府軍(アーミー)」はそんな鉄雄の能力を支配下に置こうとする。ここに「アーミー」が隠す「アキラ」という謎の人物(?)に鉄雄が急接近していく。一方、金田と鉄雄とは対立関係になっていて、最終的には「アーミー」を巻き込み、その存在をあらわにした「アキラ」との新しい闘争となる。
 このほかに「ナンバーズ」と呼ばれる、老人のような容姿をした子どもたちらの存在もあり、いわゆる一種の「陰謀論」的な面白さもある。
 観ていておぼろげながら原作コミックのことを思い出したところもあり、原作では新興宗教の教祖的人物ももっと絡んで来たと思うのだが、この映画版では「姿を見せた」ぐらいの登場でしかなかった。わからないけれども、原作コミックとの相違というのはいろいろとあるのだろう。

 ただやはり、描画のリアリズムというのは今観ても圧倒的で、登場人物もいわゆるマンガ的な眼の大きな5頭身描写ではなく、あくまでもリアルな表現を目指しているところも新鮮。そのせいか自然とストーリーの上でも人物表現に誇張がないわけで、つまりこの作品で金田や鉄雄が主人公とはいっても、キャラクターとしての彼らにそこまで注目するような作品でもないと思った。
 それよりも、「何をどのように描くか」ということにこそ力点を置いた作品のようで、そういうところでもエンターテインメント性よりもアート性にこそ優位に置いたような演出だろうと思えた。
 作品のストーリーとして、いちど観ただけでは不明な部分も多いのだけれども、つまりもっと「ドラマトゥルギー」にこそ重きを置いていると思えた。
 例えば作品全体のコンセプトとしてはぜったいにデヴィッド・クローネンバーグ監督の作品の影響を強く受けているだろうとは思える。それはSFとして「均衡を失った人間」を描く、という要素が大きいのではないのか。そのポイントで「アニメーション」であるということを最大限に生かし、「実写では不可能な描写」にこだわったのだろう。

 しかし作品公開から38年が経過し、今では映画においてもAI技術の導入が自然なものとなり、(それが「映画の未来」かどうかは別問題として)このような作品でも「実写撮影」が可能な時代にはなって来ているとは思う。
 では、この『AKIRA』が時代遅れな作品になるのかといえばそのようなことはなく、先に書いたようにこの作品の「ドラマトゥルギー」において、いつまでも評価されつづける作品ではあるだろう、とは思う。
 

2026-01-10(Sat)

 年末に古いクレジットカードを廃棄・失効させたのだけれども、それでついにAmazonのPrime会員からはじき出されてしまった。今は「Amazon Prime Video」を観ることも出来ないし、Amazonで何か注文しても「無料配送」はやってくれないのだ。いつ頃新しいカードが届くのか、あと1週間はかかることだろうなあ。

 昨夜は寝ようと思ってベッドにもぐりこんだあと、「グラッ」と揺れた。わたしなどが揺れに気づくよりもちょっと早く、わたしの足元で寝ていたニェネントくんが頭をもたげたのだった。さすがに人間などより敏感だ。
 地震は千葉の東海岸沿いで震度4になったらしいが、このあたりでも震度3だったということ。

 牛乳がなくなるので、午前中に北のスーパーへ買い物に出かけた。「牛乳だけを買えばいい」つもりで行ったのだけれども、けっきょく思いのほかにいろいろなものを買ってしまうのだった。
 スーパーの入り口の自転車置き場のところに、リードをつながれた柴犬くんが、飼い主の買い物が終わるのを待っているのだった。こういう景色は初めて目にするけれども、買い物の時間はみじかくしてあげてちょうだい。

     

 帰宅して、昼食は「いかの塩辛」と「キムチ」で質素にすませ、そのあと録画してあった日本のアニメ映画、『AKIRA』を観るのだった。録画してから一週間、この正月は2日に宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』が放映され、翌3日にはこの大友克洋監督の『AKIRA』が放映されるという、かなり豪華ラインアップのお正月だった。
 実はわたし、この『AKIRA』の原作コミック全6巻を持っているのだ。しかし残念なことに例によって、そのコミックの内容はほとんど記憶していない。そして「アニメ」としての『AKIRA』は、おそらく今まで観たことがないんじゃないかと思うのだ。

 ‥‥観終わってみると、やはりわたしは「アニメ版」は初めて観たようで、その内容(ストーリー)が、わずかに残っていた「コミック版」の記憶と合致しないことに気づいたのだった。

 夕食には、冷蔵庫に残っていたダイコンの葉っぱを使ってチャーハンをつくったが、これはなかなかにいい味であった。ダイコンの葉というのはそもそもが捨てられてしまう食材、しかしこうやって美味しく食べられるというのは「フードロス」の削減ではあるし、まさに「食材を無駄にしない」ということなのだと思う。わたしはそういうポイントではずいぶんと世の中に貢献しているという自負がある。表彰されてもいいぐらいだとも思っているのだが。

 夕食を終えたあと、例の「J:COM」の営業マンがウチを訪ねてきた。けっきょくやはり、「J:COM」の専用機器を設置してほしいという話なのだが、わたしは先日のFAXではっきりと「専用機器の設置を希望しない」と伝えてあり、その考えが変わることはない。そうしたらその営業マンは「家主さんからお金をもらっていますので何とか‥‥」などと、わけのわからないことを言い出した。「J:COM」と家主とが何らかの契約をしているのだったら、家主の側から店子であるわたしに何か言ってくる話だろうと思う。その件に「J:COM」は関係ないだろう。だいたい「J:COM」が家主からお金をもらっていようが、わたしには何ら関係のないことではないか。営業マンとしてそういうトークはすべきではないだろうにとは思うし、「家主からお金をもらっているのなら話を聞きましょう」となるはずもないではないか。サッサとお引き取り願うのではあった。

 さて、今はドナルド・トランプがトチ狂って、世界はとんでもないことになってしまっているが、どっこい日本の高市首相だって、しばらく前に「戦闘員は国家を守るため最後まで戦って頂くことになる」な~んて物騒なことを語られていたようだし、例の「国旗損壊罪」や「スパイ防止法」にも本格的に取り組むつもりのようだ。とりわけ「スパイ防止法案」というヤツ、以前から旧統一教会がしきりにがなり立てていた案件であり、「な~んだ、やっぱり高市首相は旧統一教会の代弁人であったか」というところ。今回この「スパイ防止法案」に乗り気になっているのはまずは参政党があり、参政党もまた旧統一教会との関係が取り沙汰されているわけではある。このあたり、しっかりはっきりと解明しなければ、また日本は暗黒の時代に踏みこんでしまう。
 前にも書いたことだが、韓国で報じられた旧統一教会の内部文書には、高市早苗氏の名前が32回も登場しているという。この件の報道はすっかり消えてしまっているみたいだが、それでいいのだろうか?
 

2026-01-09(Fri)

 今朝はめっちゃ寒かった。スマホで見ると、このあたりの今朝の最低気温は-3.4℃だったと出ていた。その最低気温を記録したのも早朝の5時半ぐらいのことで、わたしが起きぬけた6時半ぐらい、まだ外も暗い時間であれば、氷点下であることには変わりはないだろう。-2℃ぐらいだろうか。

 この日は月曜日ではないけれども予定外に「ふるさと公園」へと歩き、その「ふるさと公園」近くのドラッグストアに立ち寄って、銘柄米を2割引きで買おうという計画でいる。皆がそのドラッグストアで今日から使える「2割引」の割引券を使い、おコメが売り切れてしまっていれば、それはそれで仕方がないこと。無理して早く出かけようとかせず、いつも「ふるさと公園」へ行くときと同じぐらいの時間に出かけた。
 それで出かけるとき、ニェネントくんがリヴィングの電気ストーヴのそばに張り付いているように見え、「やはり今朝はニェネントくんにも寒いのだろう」と、ストーヴはつけっぱなしにして、ストーヴの前にニェネントくんがすわれるようにクッションを置いてから出かけるのだった。

 時間は9時半ぐらいのこと。外は晴天だったけれども、やはり空気はヒヤリと冷たいのだった。
 「ふるさと公園」に到着してみると、池にはびっしりと氷が張りつめていて、カモやオオバンの泳ぐ姿も見られなかった。この写真で、池一面に氷が張っていることがわかるだろうか(アイススケートは出来ませんよ!)。

     

 池に鳥たちの姿が見られないから、どうしても木の枝にとまっている鳥たちに目が行ってしまう。まずは寒くってモフモフに丸くなっているスズメの姿があって、そしてこの日はあちこちでその姿を見たヒヨドリと。

     

     

 氷の張っていない池ではこの日もユリカモメたちが群れていて、こっちではオオバンもいっしょに泳いでいた。そして公園を出たところではいつものようにコブハクチョウがまどろんでいたが、この日は一羽だけの姿しか見えなかった。

     

     

 さて、「ふるさと公園」を出て、この日の目的地でもある近くのドラッグストアに行ったわけだが、その目的である「おコメ」は、そっくり売れ残っていたのだった。なんだか、自分だけが「おコメを安く買うぞ」といきんでいたみたいで、「あらあら」とは思ってしまった。皆さん、今はそんなに「おコメの価格」で心配されてはいないということだろうか。
 けっきょくわたしは「コシヒカリ」5キロ4280円(税抜き)を2割引きで買い、つまり支払額は3697円、とはなったのであった。税抜きなら3424円。もしもこれからコメの価格が急落して、3~4ヶ月のうちに銘柄米5キロで3400円とかになれば、わたしの「負け」をいさぎよく認めよう。ニュースで「これからコメの価格は下落する」ということをマジメに聞いておけばよかったと、反省することだろう。ま、多分そんなにコメが安くなることはないだろう。

 コメを買って帰路に着き、ウチのドアを開けるときには、つけっぱなしにしたストーヴの前でニェネントくんが暖をとっているだろうかと想像したのだが、ニェネントくんはそんなことはしてなくて、和室のベッドの上でくつろいでいるのだった。むむむ、やはりニェネントくんはそこまでに「寒い!」と感じてはいないのだろうか。「こたつで丸くなる」タイプのネコではないようである。

 って、この日の夕方、ニュースで「コメの価格が過去最高値を更新し、5キロで4331円になったという報道ではあった。「これから安くなる」という報道を本気にしてると、けっきょくいつまでも安くはならない、ということになるんじゃないのかな。

 ドナルド・トランプアメリカ国内でも「分断」を図りはじめたようで、ミネソタ州ミネアポリスで不法移民の取り締まりを行う移民税関捜査局(ICE)の職員が女性を射殺するという事件が起きたのだが、国土安全保障長官は「国内テロの行為」と述べ、「彼女はICE職員を轢こうとし、車で突進した。職員が素早く防御的に対応し、周囲と自らの身を守るために発砲した」と主張した。そのときの動画がアップされているのだが、わたしには車を運転する人物が外の人物に突進したとは思えない。
 この事件に関してトランプは「彼女(死亡した女性)は扇動者だった。おそらく雇われた扇動者だろう。私の考えでは非常に高レベルの扇動者で、プロフェッショナルだった」と何の根拠もなく被害者を中傷したし、ヴァンス副大統領は彼女のことを「狂った左派」だと語ったのだった。やれやれ。ただ亡くなられた方に哀悼の意を捧げるのみである。
 

2026-01-08(Thu)

 わたしが和室へ行くときには必ず、和室に転がしてある「ネコトンネル」にニェネントくんが頭を突っ込んで中に入るというのは、今やわたしとニェネントくんとの「固いお約束」となってしまっている。そして和室に足を踏み入れたわたしは、「ネコトンネル」の中のニェネントくんを、必ずなでてあげるのだ。
 ニェネントくんはこのとき以外は「ネコトンネル」の中にもぐり込もうとは決してしないので、わたしが和室へ行くとき、「『ネコトンネル』に入ってアイツが来るのを待ってなくっちゃ!」と考えていることはまちがいない。
 それで今日はそのヴァリエーションをやってくれて、わたしが和室に足を踏み入れると、陰に隠れていたニェネントくんがぴゃっとわたしの後ろから跳び出してきて、わたしの足を両前足で後ろから抱え込んでから、すぐに逃げて行くのだった。
 そんな、まるでペット猫みたいなことを普段やるコではないので、いささかびっくりしてしまった。
 思い出してみればおおむかし、まだニェネントくんが1歳か2歳ぐらいの頃、机に向かっていたわたしの背中を前足でタッチして、ちゃっと逃げて行ったことが一度だけあった。あのときは「ニェネントくんもこれからは人なつっこいネコに変身するのかな?」とは思ったものだったが、そ~んな遊びをやってくれたのはそのとき一度っきりのことだった。

 この日もこのところ最近と同じく、いい天気で寒い日だった。この日はまた、月に一度の内科クリニック詣での日。「あまり待たされるのはイヤだな」とは思っていたのだけれども、けっきょく一時間ぐらいかかってしまった。
 クリニックからの帰り道、ハクセキレイがちょん、ちょんと跳ねているのを見た。やっぱりハクセキレイも寒さで冬毛になるのだろうか。モフモフの丸い体形になっているみたいだ。

     

 先日、北のドラッグストアで「あきたこまち」を15パーセント引きで買ったわけだが、今わたしの財布には「ふるさと公園」の近くのドラッグストアの割引券が入っていて、それがちょうど明日から「20パーセント引き」の券が使えるようになる。っそれで考えてしまうのは、また銘柄米を20パーセント引きで買ってしまあおうか、ということ。たしかそのドラッグストアでは「コシヒカリ」が5キロ4300円ぐらいで売られていた記憶があり、20パーセント引きなら税込みで3700円ぐらいで買えるのだ。
 しかし、この日の夕方のテレビのニュースでは、「これからはコメの価格は下落するであろう」などとのたまっている。むむむ、去年はこういう発言にだまされたのではなかっただろうか? そもそも農水省がもう何も手を下さないという現状。で、コメというのは「高くなったからもう買わない」というようなものではなく、(パスタとか麺類にする比率は高くなるかもしれないけれども)「高くっても売れる」モノなのだ。だったら誰だって高くしておくわけだろう。今の価格はずっと変わらないだろうとわたしは予測する。そういう次第で、やはり明日、20パーセント引きでまたコメを買ってしまおうと思うのだった(売り切れていなければね)。
 それでこの日から、わが家ではまた「備蓄米」での食事になったのだけれども、この久しぶりの備蓄米、きのうまでの「コシヒカリ」とあんまり変わらない味だと感じてしまった。
 「おでん」での食事も今日で3日目になるが、夕食にがんばって残っていたおでんを全部平らげ、これで無事に「おでん」も終了したのだった。

 今日のドナルド・トランプは、なんと66もの国際組織からアメリカが脱退するようにと指示したのだった。アメリ国務省は7日の発表で「DEI(多様性・公平性・包摂性)からジェンダー、気候まで、多くの国際機関は今や、グローバリストに仕える存在となり、米国の主権をあからさまに制限しようとしている」と主張。改めて「米国第一」を掲げて国際協調には背を向ける姿勢を示したということであった。
 もう「動き始めたら止まらない」というところだろうか。アメリカを含む世界情勢をマジメに考えるのがバカバカしくなってきた。「世界はトランプと共に滅んで行く」ならばそれでいいよ、もう。サッサと終わりにすればいい。わたしもいっしょに滅びるよ。
 

『千と千尋の神隠し』(2001) 宮崎駿:脚本・監督

 作品の舞台は「この世ならざるところ」にある大きな「油屋」という遊郭を中心とする街であり、そこに集うのは「八百万(やおよろず)の神々」。その「遊郭」を経営しているのは西欧的な魔女(湯婆婆)で、そこで働いているのは蛙など、妖怪っぽい連中なのだ(ヒロインのセンと仲良くなるリンはほとんど人間に見えるが、それでもやはり人間ではないらしい)。

 そもそもヒロインの千尋(~セン)は家族の引っ越しのため、父の運転する車(四駆)に母といっしょに乗っていたのだけれども、父親が道を間違えてテーマパークの廃墟のようなところに入り込んでしまうのだった。トンネルを抜けたところに無人の食堂街が軒を連ね、その店先に料理が山のように積まれているのを見つけた両親は、千尋のことそっちのけで料理にほうばりつき、そのまま(魔女によって)ブタに姿を変えられてしまうのだ。
 残された千尋はひとりでその不思議な地で迷ってしまうが、赤い橋を越えたところに巨大な「油屋(=湯屋)」という建物があり、その地で生き残るためには、その「油屋」で働かなくてはならなくなるのだ。

 千尋(セン)はこれまでの宮崎駿作品で登場する少女とはかなり異なるタイプで、ひとつには「美少女」というタイプではないし、当初の印象では「ドンくさい」女の子ではある(リンはセンをはっきりと「ドンくさい」と言ったりする)。
 しかし彼女はブタになってしまった両親を人間に戻そうとするし(当たり前だが、そうしないと引っ越し先へ行けないだろう)、あとには彼女を助けてくれたハクという少年を助けるために、大きな大きな冒険をすることになる。
 さいしょはドンくさかったセンだけれども、まず「油屋」にゴジラ映画に登場した怪獣の「ヘドラ」みたいな、異臭をまき散らすドロドロの姿の「オクサレさま」という神が訪れたとき、率先してセンがその世話をして、そのからだに刺さっていた大きな棘を引き抜いたとき、「オクサレさま」の体内の汚れ、ゴミはぜんぶ流れ出され、実はその「オクサレさま」は「河の神」であったことがわかり、「河の神」は「よきかな」との言葉を残して飛び去って行く。そのあとには砂金が残され、「油屋」に富をもたらすことになるのだ。センの大手柄ではあった。

 そしてもう一人(?)のサブストーリー登場人物として、「カオナシ」が登場するわけだが、この「カオナシ」のキャラクター設定がとっても興味深くって、この作品の魅力の一つにはなっていると思う。彼は資本主義の「退廃」を体現したようなところがあり、自分自身は何物でもないのだが相手が欲しがるものを察知して、その「ニセモノ」を差し出すのだ。そしてそれを欲しがった存在を呑み込んでしまい、その存在の声でしゃべれるようになるのだ。彼はただ「セン」のことが好きなのか、彼女のあとをつきまとうだけなのだが、その周囲には大きな混乱をもたらすことになる。

 そしてストーリーの上では「ハク」が重要な存在で、彼は竜の化身でもあって湯婆婆の手伝いをしているのだが、自分のほんとうの名まえを忘れてしまっている。さいごにセンのおかげで名まえを思い出すことになるのだが、それだけでなく、過去にセン(千尋)とは重要な出会いをしていたのだった。
 この物語では、「自分の名前」というのはとっても重要なものであって、忘れてはいけないものとされている。ではわたしのように、親が付けた名まえを捨てて自分で自分に名まえを付けたような人間は、それでいいのだろうか。親に付けられた名まえこそが、その人にとって重要な名まえなのだろうか(たとえ「キラキラネーム」であっても?)。

 やはりこの作品の面白さとは、まさに日本的な、神話的・民話的な精神世界の物語の面白さが、西欧的な、もしくは中国的な物語、ヴィジュアル的な要素とのハイブリッドで描かれているということ、それがバブル以降の現代日本の抱える諸問題とともに描かれているということだろうか。わたし的には、すっごく面白い映画ではあった。