ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2024-04-23(Tue)

 夜、ベッドで本を読んでいて、ふとニェネントくんのいるキャットタワーの方を見ると、そのキャットタワーのてっぺんにすわっているニェネントくんが、じぃっとわたしのことを見つめているのだった。
 わたしはニェネントくんに「なあに?」と声をかけるけれども、彼女はただ黙ってわたしを見ているだけだ。それでわたしも、ニェネントくんの顔をじぃっと見つめてみる。

 改めて思うのだけれども、ニェネントくんの顔はいわゆる「ネコらしい」可愛らしさとはちょっと違う。目がキリッとつり上がっていて、頬袋のしゃくれが大きい。皆がネット上に「ウチのネコはかわいいでしょ?」と写真をアップしていて、それらのネコはたしかにみ~んなかわいい。でも、そんな中にニェネントくんの写真をアップして「ど~う、かわいいでしょ?」ってやっても、まったく同意は得られないんじゃないかと思う。そういう考え方をすると、つまりはニェネントくんは「かわいいネコ」ではないだろう、とか思ってしまう。
 まだ子ネコだった頃は、お父さんネコの「ラグドール」にも似ていて、いわゆる一般的に言う「かわいいネコ」ではあったと思うのだけれども、もうすっかり成長して「おばさん」になってしまった今、とても「ラグドール」に似てなどいないし、わたしがみると「世界中のどんなネコにも似ていない」気がしてしまう。

     

 夜見るとニェネントくんの眼はオレンジ色しているし、見ているとやはり「ネコじゃない、別の動物なんじゃないかな?」とも思ってしまう。地球上では知られていない動物。そんな、宇宙のどこかから遺伝子が飛来してきた謎の生物がなぜかわたしの家にきて、わたしといっしょに暮しているのだ。
 そんなことを思っていると、こうやってつまらない生き方をしているわたしが、この「ニェネント」という生き物と出会って、いっしょに生きているというのは、「とんでもない奇跡」のようにも思えてしまう。

 しばらくするとニェネントくんはまた、いつものキャットタワーの下のボックスの中に入り込んでいて、目を閉じて寝ているようだった。その寝顔を眺めると、「なんだ、やっぱりニェネントくんも<かわいいネコ>じゃないか」とも思ってしまう。寝顔はかわいい。

     

 ニェネントくんの「全世界」は、つまりわたしの住んでいる家の中だけ(たま~にちょっとだけ、窓から外に脱走するけれども、せいぜい50メートルぐらい外に行くだけだ)。
 彼女はその外の世界を知らないのだから、「外の世界を想像してみる」ということもないだろう。こ~んな狭い、つまらない世界に閉じ込めてしまって、「ホントに申し訳ない」って思っている。いつも「ごめんね」って思っているよ。

 わたしはいつもは2合炊いたご飯で3食分まかなっているのだけれども、昨日いつものように2合炊いたご飯を、4食分にしてやった。
 やはり2合のご飯を4食分にするのは「ちょっときびしい」という感じだけれども、今日の夕食は鶏肉やタマネギやニンジンをいっぱい使ってチキンライスにして、その上にたまご2個を使ったプレーンオムレツをのっけて「オムライス」にしたのだが、これはご飯の量は少なかったのだけれどもボリュームがあって、満腹になったのだった(だから毎食「オムライス」にしようとは思わないが)。

 今日は、昨日観たクローネンバーグ監督の『危険なメソッド』をもういちど観た。けっこうこの作品、やはりわたしの中では「傑作」ということになると思う。
 続けて2回観ると「そうだったか」と思うことも多いし、それでわたしのおぼつかない記憶に焼き付くということもあると思う。ほんとうはわたしは、どんな映画でも2回は観るべきなのだろう(読書でも同じだろうが)。

 読んでいるパトリシア・ハイスミスの『死者と踊るリプリー』、ようやく残り百ページを切った。ま、明日中にはムリとしても、あさってには読み終えるだろう。
 しかし、何という展開だろう。う~ん、これは「リプリー・シリーズ」としても、ハイスミスの作品としても、イマイチなのではないかという気がする。まだ百ページ残っているのだけれども。
 

『危険なメソッド』(2011) デヴィッド・クローネンバーグ:監督

 この作品のことはまるで知らなかったが、ジークムント・フロイトカール・グスタフユングとのドラマ、そこにわたしの知らなかった人物だが、ザビ―ナ・シュピールラインという実在の女性が絡むのである。ザビーナはやはりのちに精神分析医になるのだが、映画の冒頭では彼女自身が精神病院へ収容される患者であり、担当医はユングなのだ。ザビーナはのちにユングと関係を持ち、自身が精神分析医となり、フロイトと文通もする(じっさいにフロイトと会ったこともある)。そりゃあまさに「危険なメソッド」であろう。人物関係を聞いただけでおそろしい。
 映画を観ると、この3人にプラスしてユングの妻のエマ、そして関りは短いあいだだったとはいえ、けっこう強烈なパーソナリティーの持ち主だったらしいオットー・グロース(この人も精神分析医であった)という人物も絡み、もうた~いへんなのである。

 そしてこの映画の監督はデヴィッド・クローネンバーグで、プロデューサーはジェレミー・トーマス。ユングを演じるのはマイケル・ファスベンダーフロイトヴィゴ・モーテンセン、ザビ―ナ・シュピールラインを演じているのはキーラ・ナイトレイなのだった。オットー・グロースはヴァンサン・カッセルが演っている。

 そもそもはこの話、1977年にザビーナ・シュピールラインの日記と書簡が発表され、それこそ「スキャンダル」というか、それまで知られていなかった新事実が明るみになったことから始まっているわけで、書簡にはザビーナからユングへのもの、さらにフロイトへのもの、そしてフロイトからザビーナ宛てのものが含まれていたらしい。
 じっさいにはユングからザビーナに宛てた手紙もあるらしいのだけれども、ユングの遺族が発表をストップさせたらしい(そういう内容だったようだ)。
 そのザビーネの日記・書簡をもとに、1993年にジョン・カーという人が「A Most Dangerous Method: The Story of Jung, Freud, and Sabina Spielrein」というノンフィクションを書き、さらにそのノンフィクションをもとに、クリストファー・ハンプトンが「The Talking Cure」という戯曲を書いたのだった。
 この『危険なメソッド』という映画は、その「The Talking Cure」を、クリストファー・ハンプトン自身が映画のために脚色したものである。

 映画を観ていると、フロイトユングとの対話というのは記録に残っているわけではないから、お互いの著作から、また一般のフロイト評、ユング評から抽出して「二人の会話」に仕上げているようではある。ユングフロイトの理論を「何でもセックスに結び付けすぎる」と批判し、フロイトユングに「神秘思想に接近しすぎているのでは?」と疑念を語る。ただ、互いに「自分のみた夢」のことを語り、その夢を互いに「夢分析」するという場面など、お互いに相手の中にどんな人物像をみているのか、ということが露わになるようで、けっこう面白かったし、ユングとザビーネの「あらあら」という関係、ユングの分析治療のやり方の一端が見られたりもした。

 しかし、ザビーネとフロイトとの手紙のやりとりはまさに「現物」から書き下ろしたものだろうから、かなり生々しいというか、「ナマの声」という感じはする。

 映画としてはユングとザビーネ、そしてユングの妻との関係、ユングフロイトとの関係を追っていくわけだけれども、ザビーネに惹かれているユングは、フロイトによって彼の療養所に送られてきたグロースの「ただ自由であれ」という助言(?)に従ってザビーネと関係を持つ。しかしユングの療養所を訪れたフロイトに、「ザビーネは色情狂」とも言われ、「これからはただ患者としての関係であろう」とザビーネに伝える。しかし関係は続く。
 フロイトは「ユングこそ自分の後継者」と思っていたが、彼のザビーネとの関係、彼の「神秘主義」への傾倒から、ついにはユングと絶縁する。ユング自身も自分のことを「卑俗なブルジョワ」と分析するように、そこには「精神分析理論」の導き出す回答ではなく、「世俗的一夫一婦主義」を捨てられない男の姿があるようだ。ザビーネとの関係を絶ってもまた、自分の患者と交際するユング。彼はザビーネにさいごに、「許しがたいことをしつつ、人は生きていく」と語るのだった。
 
 わたしはザビ―ナ・シュピールラインという人をこれまで知らなかったから、彼女がどのような精神分析理論を唱えていたのかは知らないけれども、映画終盤でのフロイトとの対話で語る「性」と「死」の相克の理論は、むかしちょっと読んだジョルジュ・バタイユの「エロスとタナトス」のことを思い出させられた。
 いろいろと「濃い」対話のつづく映画で、「これはある程度フロイトユングのことは知っていないと厳しい映画だろうな」とは思うのだった。

 途中、フロイトユングとが共にアメリカへと向かい、その船のデッキで二人が夢の話をするとき、フロイトのうしろには夜の暗い海が拡がっていたのが、とっても心に残った。
 

2024-04-22(Mon)

 「物価高騰対応生活支援給付金」について、市役所に電話して聞いてみた。給付金支給対象者はつまり、去年(令和5年度)に「住民税」5000円を払っていない人(住民税を払う対象ではない収入の人)が対象らしいのだが、つまり令和5年度の住民税は、令和4年の収入に対して課されるものなのだ。
 わたしは令和4年の10月までは働いていたから、それまでの収入が計算されるのだろう。実のところ、去年まで「住民税」を払っていたかどうか、しかとした記憶はない(去年は、年間を4期に分けて1期あたり1万円ぐらいの税金を払っていた記憶はあるけれども、あれが「住民税」だったのか?)。
 しかし、わたしの場合は去年からの収入はまるでないわけなのだが、「2年前まではあなたは収入が一定以上あったから、今回の給付金給付の対象ではありません」ということなのだろうか。
 そもそも、「住民税」を払っていたかどうかの記憶もはっきりしないし、上に書いたように「去年から収入はゼロだ」というケースは考慮されないのか、とか疑問もある。
 やっぱりいちど市役所に行ってしっかりと問い合わせしたいという気もあるが、市役所へ行くのは面倒だなあ(どうもどれだけ窓口で自分の情況を語っても、今回の給付金給付からは排除されることには変わりはないような気もするし)。

 今日は天気はあまりよくなく、気温も20℃に届かなかったらしい。天気予報ではこのあたりも雨になる時間が多いといっていて(けっきょく、このあたりでは雨は降らなかったようだが)、それでこの日はいつもの月曜日のように「ふるさと公園」へ行くのはやめ、午前中に北のスーパーへ買い物に行った。
 スーパーへの道を歩きながら道沿いに目をやると、このあたりは思っていたよりもずっと、「ナガミヒナゲシ」がいっぱい咲いているのだった。場所によっては「群生」というか、一面に「ナガミヒナゲシ」のオレンジ色の花が咲いてしまっている。花はどんな花でもきれいなのだけれども、やはり「生態系に大きな影響を与える外来植物」ですからね。「きれいだね」と賛美するわけにはいかない。しかしこれだけ咲いていると、一般の人には「摘花」も簡単には出来ないだろうな。
 そんな中、道ばたに咲いていた「スミレ」の花のことは、「愛らしいな」とは思うのだった。

     

 昼食のあと、朝ドラ「ちゅらさん」の再放送を見ていたが、出てきたライヴハウスのオーナーだかの役で、ふいに鮎川誠が顔を出してきたので、びっくりしてしまった。こういうドラマにも出演されていたのか。この日いちばんの「ビックリ」、だった。

 そのあと、午後からは、デヴィッド・クローネンバーグ監督の『危険なメソッド』という作品を観た。まったく知らない作品だったけれども、ユングフロイト、そしてザビーナ・シュピールライン(この人のことは知らなかった)という実在の精神科医精神分析家を中心に、3人の愛憎、対立を描いたシリアスなドラマだった。もともとわたしの中でも「フロイト」と「ユング」とは大きな対立項であり、そういうところからも実に刺激的な、面白い作品だった。

 夕食には定番の「肉野菜炒め」をつくろうかと野菜室に放り込んであるニンジンを取り出したら、しっかりと傷みかけていた。店で買ったときのビニール袋に入れたままにしておいたのがいけなかったのだ。
 前に買ったニンジンは一本一本キッチンタオルに包んでジップロックに入れて保存し、すっごい長持ちしたもので、ついつい「ニンジンは長持ちする」と油断してしまったのだ。ニンジンはジャガイモやタマネギではないのだ。今ごろこんなことを学習するなんて、情けないことだった。
 まだ傷んでないところもけっこう残っていたので料理に使ったけれども、あやうく<全滅>するところではあった。
 

『アメリカ、家族のいる風景』(2005) サム・シェパード:脚本・主演 ヴィム・ヴェンダース:監督

 原題は「Don't Come Knocking」で、「ノックしに来ないで!」って感じ。主人公の行動へ向けてのタイトルなのだろうか。
 主人公のハワード・スペンス(サム・シェパード)はかつて(1970年代?)西部劇で名を成したスターで、今もしがない西部劇の撮影をしているところ。しかし彼はユタ州の撮影セットからふいに逃亡し、30年ぶりに母親(エヴァ・マリー・セイント)のもと(ネバダ州エルコ)を訪れるのだった。主演俳優がとつぜん失踪して混乱した撮影現場では、警備会社のサター(ティム・ロス)がハワードの捜索にあたることになる。
 ハワードは母から、かつて交際して置き去りにしたドリーン(ジェシカ・ラング)という女性から、彼の子を身ごもったという連絡を受けていたことを聞かされ、事実なら自分の子どもに会うために、ドリーンの住むモンタナ州ビュートへ向かう。
 ビュートの町のレストラン/ラウンジで、ハワードはウェイトレスをやっていたドリーンと再会し、「オレの子どもは?」と聞くと、そのときパブで歌っていた男のアール(ゲイブリエル・マン)がそうだ、という。

 一方、町の火葬場で、火葬を終えたばかりの母の遺骨の骨壺を受け取ったスカイ(サラ・ポーリー)という若い女性が、ハワードの姿を見て以降、ハワードのあとをつけまわすのだった。スカイもハワードの子どもらしい。
 アールに会って「父親だ」と名乗り出たハワードに、アールは強い拒否感をあらわす。荒れたアールは、自分のアパートの窓からソファーやベッド、椅子、ギターやレコードなど、あらゆるものを道路に投げ捨てるのだった。一方、ハワードに接触しようとしたスカイはアールとも出会うのだった。アールの元にはガールフレンドのアンバー(フェアルザ・バルク)もやって来て、「お父さん、いい人なのかもしれないじゃないの」などと語っている。スカイはハワードに「この町で暮らせばいいじゃないの」と語る。
 そしてハワードはドリーンと会い、ドリーンに「やり直そう」とか語りかけるのだけれども、強烈に拒絶される。
 ついにはサターがハワードを見つけ出し、ロケ地に連れ戻すことになり、その前にハワードはアールとスカイに別れを告げに行く。アールにとって「父親」は「絶望」に結びつくものだったが、スカイは、ずっと父親のことを想いつづけていたことをハワードに語るのだった。

 う~ん、かつての西部劇スターがまた西部劇に出ていて、っていう設定の映画だったらば、クリント・イーストウッドの主演で観たかった気もするなあ(サム・シェパードがダメというわけではないけれども)。

 ちょっと終わりまで見て、ハワードがビュートの町にやって来て、「かつての彼女」だったドリーンに20年以上の時をおいて再会したとき、そのときにはドリーンが彼を拒絶するわけでもなく、「会えてよかったわ」と語ることで、「なんだ、ずいぶんとすんなりと受け入れられるんだな」とは思ったけれども、そのあとにはこっぴどく拒絶される。「ま、それが当然だろう」とか思うわけだが。
 一方、彼の子であるらしいスカイは彼と出会うことを夢見ていて、すっかり彼の存在を受け入れているし、「家族」として暮らすことも夢見ているみたいだ(ちょうど母親は亡くなったばかりだ)。しかしアールはハワードを受け入れず、「今になって何しに来た」という感じだ。
 この、ドリーンとアール、そしてスカイとのハワードへの気もちは類型的というか、観ていてさほど引き込まれるような展開ではないのは確か。そういうところに、この作品の評価が低い要因もあるようには思うが。

 でも、アールのガールフレンドのアンバーがアールへの緩衝材のような役を果たすというか、さいごにはスカイとアール、そしてアンバーとが3人いっしょに(ハワードにもらった)車でドライヴしているシーンには微笑んでしまうし、「この人、アメリカ人には見えないね?」というサターという人物が、映画の中で実にいい味付けになっていたと思う。さいごにハワードとの車の中でクロスワードをやりながら、「世界はイヤなところだ」などとひとりごちるなんて最高だ。
 ラストには撮影に復帰したハワードの撮影シーンがあるけれども、「あなた、そのセリフのせいでバックレようと思ったのかいな?」という相手女優とのセリフのやり取りもあるし、その別れのシーンでの馬上の「決めポーズ」にも、にっこりしてしまう。

 だいたい、あの『パリ、テキサス』で脚本をやったサム・シェパードとしては「おだやか」で、丸くなったなあとも思うのだけれども、それもこのときのパートナーだったジェシカ・ラングと共演していたせいかもしれない。
 

2024-04-21(Sun)

 以前、政府が「物価高騰対策」として「生活支援金」をこの4月から給付し始めるという報道が記憶にあり、「あれはどうなったのかな?」と思って、住んでいる地域の市役所とかを検索してみたのだが、どうも対象世帯には先月末に「申請書類」を送付しているらしい。「あれ? ウチには来ていないなあ」とは思ったが、わたしが前の仕事を辞めたのは2年前の10月のことだから、それまでの収入でみれば今回の給付対象にはならない、ということかもしれない。こういう場合どうなるのだろうか? 今のわたしはまさに「困窮世帯」だろうと思うのだが。
 とりあえず、市役所に問い合わせてみるしかない。今日は日曜日で役所もやってないから、明日になったら電話して聞いてみようと思う。ウチももちろん、「給付対象世帯」にはなると思うのだがなあ。

 ニェネントくんの猫草、リヴィングの出窓の上に置きっぱなしにしてあるのだけれども、ニェネントくんはちょくちょく出窓の上に跳び上がり、猫草をかじっているのだった。
 ニェネントくんが猫草をかじると猫草のケースごと動いて、「カタンカタン」という音が聞こえる。一日に何度も猫草をかじっている。こんなに「好物」というか欲しがるのだったら、もっと前から「猫草」を食べられるようにしてあげていればよかったな、と反省するのだった。

     

 この日も暖かい一日。わたしは外出しなかったが、一日半袖Tシャツで過ごした。電気ストーブも先週片付けてしまって、リヴィングが広くなった感じだけれども、もうすぐに扇風機の出番になるのだろうな。
 わたしには(最近の毎日のように)覇気のないダラダラとした一日になった。昼からも何もせず、ベッドに寝転んで本を読んでいたらばそのまま眠ってしまい、「予定外の昼寝」になってしまった。まあ一時間ぐらいの昼寝だったが。
 考えてみたら、昨日からとなり駅の映画館で『ストップ・メイキング・センス』も『落下の解剖学』も公開が始まっていて、どちらもわたしに好都合な早い時間からの上映だったので、どっちかを観に行けばよかったとは思うのだった。

 先日、黒沢清監督の新作『Chime』をどうやって観たらいいのかわからない、などと書いたのだが、今日検索すると、すでに「Roadstead」というプラットフォームのサイトができていて、そこを見ると作品の観方もわかったのだった。近いうちに観てみようと思う。
 今日はヴィム・ヴェンダース監督の『アメリカ、家族のいる風景』を観た。主演と脚本はサム・シェパードで、ヴェンダースとは『パリ、テキサス』以来30年ぶりのタッグ。
 う~ん、サム・シェパードも(ヴェンダースも)丸くなったなあ~、というところだけれども、わたしはこの作品けっこう好き(それは、わたしも丸くなったからだろうか)。

 さて、来週の日曜日は衆議院補欠選3ヶ所の投票日になるのだけれども、自民党は島根1区のみの立候補となり、これも立憲民主党に敗れそうで、3ヶ所すべての議席を失うことになりそう。一方、立憲民主党はすべてで議席を得ることになりそうで、そうなると党の勢いもつくことだろう。
 ただ、なんだか東京15区の選挙戦がいろいろと荒れているようで、これは候補者の政策がどうのこうのという問題でもない、ただ「応援演説の妨害」があちこちで起きているらしく、「なんやねん」という感じ。
 だいたいこの東京15区には9人が立候補してるんだけれども、「そんな党知らないよ」というような党(み~んな保守)からの立候補も多く、まさに「有象無象の衆」らがピョコピョコ頭を持ち上げている感じ。
 わたしが投票する選挙区ではないから「勝手にやってくれ」って気もするけれども、とにかく最近はわけのわからない保守政党が「ウンカが湧いて出る」ように大量発生してきている。当選する見込みもない連中が互いにケンカするというのも、外から見ていると面白いモノかもしれない。ま、どんどん互いに潰し合えばいいのではないか、とは思うが。
 

2024-04-20(Sat)

 今朝の「ウィークエンドサンシャイン」は、けっこう古い音源のオンエアーが多く、聴いていて楽しかった。しかしつまり、「わたしも歳をとったものだ」という感慨も生む。

 今日は「ふるさと公園」のそばのドラッグストアで買い物をしようと思って、「ふるさと公園」へと行った。また駅の方からの逆コースで。
 まずは駅前のスーパーへ立ち寄り、値引きされていた「冷やし中華」の生麺とか、インスタントコーヒーの瓶(このスーパーが他よりも圧倒的に安い!)とかバナナなどを買うが、レジの近くの特価コーナーに、ハインツの「スイートチリソース」なるものが「賞味期限が5月いっぱいなので」と、ひとつ68円(税抜き)で売られていて、「これはいろいろと使いでがありそうだ(とにかく安いからね)」と、いっしょに買った。
 この「スイートチリソース」、帰宅して検索してみたら、普通千円近い価格で売られている「高級品(?)」だった。これは「お買い得」だったな。次回(多分月曜日)に行ってまだ売られていたら、買い占めてしまおうか。

 このところよくネコに会う児童公園のそばの祠に、また先日出会ったネコに出会った。このコも美猫だけれども、まだ名まえをつけてはいなかった。う~ん、「美猫」なんだから、「ビビ」という名まえにしようか。うん、いい名まえだ。そうしよう。

     

     

 「ビビ」の写真を撮って通り過ぎようとしたら、そのすぐそばには「サビーネ」もいたのだった。また古い石碑の「お立ち台」の上にすわっていたのだった。

       

 この日の「ふるさと公園」は、またいつものコブハクチョウが巣ごもりしていて、そのそばではもう1羽のコブハクチョウがあたりを警戒していた。
 いっしゅん、その1羽も巣の上にあがって、2羽が巣の上でいっしょに並ぶ瞬間もあったのだけれども、写真は撮り損ねてしまった。

     

 帰宅して、買って帰った「冷やし中華」で昼食にした。もう「冷やし中華」でも違和感のない季節になったし、わたしもやはり、しばらくは「ダイエット生活」をしようかと思う。夕食は食パン1枚をトーストし、ゆで卵とマヨネーズをまぜたソースとハムを1枚トッピングしただけですませた。「マヨラー」のニェネントくんが寄ってきたが、あげないよ~!
 いちど、毎日「もやし炒め」だけのおかずとかでしばらく生活してみようか、などとも思った。おっと、今日「スイートチリソース」を買ったから、それを活かしたメニューをつくるべきか。

 ニュースで、「有名人なりすまし」の「投資勧誘広告」のことが問題になっているということだけれども、わたしも前からFacebookでそういう「広告」を目にしている。だいたい以前からFacebookには、「普通の投稿」と見せかけながら実は企業による投稿で、特定の商品を宣伝するようなモノがいっぱいある。
 こんなのは、その記事の下に書かれている「投稿者」のところに「広告」と書かれていたら、つまりは「広告」なのであって、それ以外の投稿とはぜんぜん違うのだ。そういう「なりすまし投稿」なんかも、ホンモノだったら、その投稿者欄にはその「有名人」の名前があってもよさそうなものだけれども、み~んな「広告」になっている。その時点でその投稿は「アウト」なのである。
 わたしは以前、興味があってそういう「有名人なりすまし投稿」に寄せられたコメントを読んでみたことがあるけれども、コメントを寄せていた人のほぼ全員が、元の投稿はその有名人当人によるものだと思い込んでいるようだった。「そりゃあいくらでもだまされるよな」と思ったものだったが、おそらくそういう、コメントを寄せたりじっさいに出資してだまされてしまう人って、たいていは「高齢者」なのではないかと思う(もちろん、もっと若い人でもだまされちゃう人はいるだろうけれども)。
 言っちゃ悪いが、年金とかもらって働く必要もなく、ウチでゴロゴロしている年配の人たち(わたしもか?)は、どうもいちにちじゅうネット・サーフィンやられているようで、それでそういう人たちははっきり言って「基礎知識・判断力」に問題があられるようだ。そういう人たちは一方で「ネトウヨ」になられ、一方で「ネット詐欺の被害者」になられるのではないのか。そして今のネット空間は、そんな高齢者が席捲してしまっておられる雰囲気がある。わたしはそう思う(このことはあらためて書きたいが)。
 

『左利きの女』(1978) ロビー・ミューラー:撮影 ペーター・ハントケ:脚本・監督

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 映画冒頭の、この作品レストア時に付加されたらしいテキストによると、この作品は1976年に発表されたぺーター・ハントケ自身の小説をもとにしており、1977年の3月から4月にかけ、フランスのパリ近郊のクラマールのハントケ自身の家を中心に撮影されたという。ペーター・ハントケにとっては1971年の「The Chronicle of Current Events」に続いて、彼2本目の長編映画だったということ。

 映画は郊外を走る列車→車窓風景→駅のホームを通り過ぎる列車→クラマールの街の風景→マリアンネ(エディット・クレヴァー)の家の外観→マリアンネと十歳ぐらいの息子のシュテファンのいる家の中、と移動していき、外から来た観客がマリアンネの家を訪れるような感覚になる。
 時は3月。マリアンネは、長く北欧に仕事で行っていて帰ってくる夫のブルーノ(ブルーノ・ガンツ)を迎えに空港へ行き、いっしょに車で帰ってくる。車内でブルーノは「長く一人でいて、かえって家族のきずなを強く感じた」と言い、「すると逆に、君なしでも生きられることを試したくなった」と言う。
 その夜、夫婦は街のホテルに宿泊し、翌朝帰宅するとき、そこで初めてマリアンネは口を開く。「啓示を受けたの。あなたがわたしをおいて行く。行ってちょうだい。わたしを一人にして」と。
 ブルーノはそこで「コーヒーを飲みに行く」と別れ、マリアンネとシュテファンだけの生活が始まる。マリアンネがシュテファンを学校に送って行くと、教師のフランチェスカはすでにブルーノからの電話で、マリアンネがブルーノと別れることを知っているのだった。フランチェスカとマリアンネは仲がいいようだ。シュテファンには仲がいいフィリップというクラスメートがいて、いつもマリアンネの前で悪ふざけをしている。
 マリアンネはむかしの仕事の縁で翻訳の仕事をやることになり、当時の上司(ベルンハルト・ヴィッキ)が家を訪ねてきたりする。ブルーノもまた、ちょくちょくマリアンネの家を訪ねてくる。フランチェスカはマリアンネにブルーノとの復縁をすすめるが、彼女自身も教師という仕事での悩みも抱えているようだ。フランチェスカはマリアンネの父に連絡を取り、マリアンネの父(ベルンハルト・ミネッティ)がマリアンネに会いに来る。マリアンネの服の破れを目にして、自分で繕ってあげるというユニーク(?)な人物。マリアンネは父と散歩に出かける。帰りに2人でスーパーマーケットに立ち寄り、そこで仕事がないという俳優(リュディガー・フォーグラー)と出会う。

 いつも、マリアンネがクラマールの街を徘徊する姿が印象に残る。そしていつも、列車が通り抜ける音が映画に響く。
 もちろん、ロビー・ミューラーの撮影がすばらしく、おそらくは監督のペーター・ハントケと場面ごとに綿密なディスカッションをしながら、撮影ロケーションを決定したのだろうと思う。風景を映しただけのショットがいっぱいある(もちろん、こういったことはどんな映画でもディスカッションされることだろうけれども)。

 シリアスといえばシリアスな作品だけれども、シュテファンとフィリップとの「おふざけ」もあるし、決して重たい作品ではないと思った。ネットではこの作品をシャンタル・アケルマンの作品と比する意見も見られたが、なるほど、わたしも「思いっきり女性(フェミニズム)映画」だとして、その意見に賛成する。というかわたしはこの作品が好きで、「心に残る作品」としてときどき観返してみたいものだと思っている。こうやってヴィム・ヴェンダース作品を観続けたおかげでこの作品にめぐり合い、とてもラッキーだったという気もちだ(こういっちゃなんだが、ヴィム・ヴェンダースの映画よりずっといいんじゃないか、と思ったのだった。わたしの琴線に触れた、というところだろうか)。

 さいしょの方で、マリアンネとブルーノが共に行ったホテルのレストランの給仕が「見たことのある人だな」と思ったら、いろんな名作に出演しているマイケル・ロンズデールだった。それからさいしょのクレジットで「友情出演:ジェラール・ドパルデュー」とあったが、彼は駅のホームの場面でベンチに座っているだけで、セリフもない、とても短い出演なのだった。