ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『テオレマ』(1968)ピエル・パオロ・パゾリーニ:脚本・監督

 この映画、わたしはもう何十年も前に映画館で観ていたのだが、それ以来観ていないし、もちろん内容はほとんど記憶していない。それがこの日この映画を観始めると、「あれ? この音楽、記憶している!」となったし(音楽はエンニオ・モリコーネだ)、本編が始まってまずは家政婦のエミーリアが登場すると、そのあと彼女がどのような役割を演じていたかも思い出したのだった。それからも要所要所で、娘(アンヌ・ヴィアゼムスキー)が硬直症におちいること、息子が絵を描き始め、そのカンヴァスに放尿することなど、決してストーリーの流れをぜんぶ思い出したわけではないけれども、そのようにけっこう記憶がよみがえって来ることに自分でも驚いてしまった。
 映画とは関係のない自分のことになるけれども、記憶に障害を起こして、この2~30年に観た映画のことはこれっぽっちも思い出せないというのに、その前、20歳前後に観た映画のことは、その断片であってもけっこう記憶が残っていたりするのだ。医師にも「現在に近い記憶から消えて行きますからね」と言われていた通り、古い記憶こそ消えずに残っていたりするのだ。そのことに改めておどろく体験ではあった。

 それで映画のことに戻るけれども、ある触媒の役目を果たす若い男(テレンス・スタンプ)の登場によって、彼と接触したブルジョワジー一家の面々にそれぞれの変化が訪れるというストーリーで、その展開自体は「難解」でもない。もしもこの映画が「難解」だと言われているならば、それはブルジョワ家族のひとりひとり、そして家政婦に、「男」はどのような影響を与えたか、ということの中にあるのだろう。それはそれぞれの人物が「男」の中に何を見たのか、ということでもあるのだろう。

 家政婦以外の家族は、「ブルジョワジー」であるがゆえの一種の「断罪」がなされる。
 いちばんわかりやすいのは「妻」(シルヴァーナ・マンガーノ)で、まさに「男」の中に性=セックスを見ていたわけだ。そして息子は表現衝動に駆られるというか画家を目指すのだが、彼が絵を描くのは「自分の中身がからっぽで、そのことを隠すための作品だ」というようなことを語っているのが面白い。実はこの中には、彼がまさにブルジョワジーの家庭に育ったゆえなのだ、というパゾリーニの視線があるだろう。
 娘が硬直症に陥るのは、その前に彼女が自分のアルバムのさいしょのページに父の肖像写真を挿んでいたこと、そのあと「男」と出会ってからは、そのアルバムのあとのページが「男の写真」にあふれるところに「病源(?)」を見て取れるだろう。彼女の場合は「ブルジョワジーゆえ」ということでもないのだろうが、「父親以外の男性を知らない」ファーザー・コンプレックスだったとはいえる。それが魅惑的な「男」との出会いで、彼女の中で「分裂」が起きるのだろう。
 父親はそれでも、「男」との触れ合いで宗教的な「啓示」とも言える体験をする「ブルジョワジー」として自分を規定するものをすべて捨て去り、裸で荒野を彷徨う父親は、映画のラストで絶叫する。その「絶叫」は、同じパゾリーニ監督の『奇跡の丘』での、ラストのキリストの絶叫に結びつくものだろうか。

 終盤に「聖化」されたと言ってもいい家政婦は、そもそも「ブルジョワジー」ではないから、その罪からは免れている。しかしひとりの「女」として「男」に惹かれたことを恥じ、自殺しようともするが「男」に救われる。
 「男」の出発と同時にブルジョワ家を出た彼女は、おそらくはその故郷だろう田舎の村へと戻り、そこで病人を治癒し、空に浮かぶ「奇跡」を起こす。彼女は老婆と共に村を出て、老婆と共に自らを土に埋める。「怖がらないで わたしはここに泣くために来たの その涙は苦痛の源ではない泉になるのよ」と語る。
 この、観客にも「宗教的な啓示」を与えるような場面こそが、この映画の「キモ」ではあろうか。この家政婦を演じた女優さんは美しい!

 「男」を演じたテレンス・スタンプは、フェリーニの『悪魔の首飾り』につづいての「ハマり役」だろうが、この映画にキャスティングされたとき、その前からあこがれていたシルヴァーナ・マンガーノと共演できることを喜んだという。また、彼はこの映画の中で「ランボー詩集」を読んでいるのだが、彼はこの3年後に同じくイタリア映画の『ランボー/地獄の季節』で、そのアルチュール・ランボーを演じてはいる。これもまた、「ハマり役」ではあっただろう(ふふ、わたし、この映画のDVDを持ってるよ)。