ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『牡丹燈籠』(1968) 山本薩夫:監督

 この『牡丹燈籠』というのは、浅井了意の『御伽婢子』の中の話や江戸時代の実話などをもとにして三遊亭圓朝が創作した物語で、『御伽婢子』にあった「女の幽霊が男にとりつく」という話にその前後譚を加えて、足掛け20年にもなる長い複雑な物語にしたもの。一般に「牡丹燈籠」というとメインの新三郎という浪人と、死せる遊女お露との物語、ということになっていて、この映画もそのような内容になっている。
 脚本は溝口健二の作品でおなじみの依田義賢。まあ彼が脚本を書いた溝口の『雨月物語』も「怪談」なわけではあるから、そんなに意外なことでもないだろう。そして監督は「社会派」の山本薩夫で、まあ依田義賢の協力もあって、そういう江戸時代の社会問題的な視点も盛り込んでいるわけだ。

 旗本の息子新三郎(本郷功次郎)は家筋のために親が勝手に決めた嫁との結婚を嫌い、家を出て長屋で貧しい家の子供たちに読み書きを教えているのだが、お盆の燈籠流しに子供たちと出かけた際、川岸に引っかかっている二つの燈籠を岸から離してやる。すると美しい若い女性を連れた年配の女性が「ありがとうございます。あれはわたしたちの燈籠だったのです」と語る。それはお露(赤座美代子)と下女のお米(大塚道子)。新三郎が家に帰るとしばらくして、その二人の女性が家まで訪ねてくるのだが、お米が語るにはお露は武士の娘でありながら吉原に売られた不幸な女性だという。そして盆のあいだだけでもお露と祝言のまねごとをして契りを結んではくれないかと言うのだ。新三郎は自分の境遇を考えてもお露に同情し(お露は美人なわけだし)、その夜はお露と結ばれるのであった(!)。
 ここに、同じ長屋に住む伴蔵(西村晃)という男がいて、この様をのぞき見していたわけだが、お露にもお米にも足が見えないことに仰天。翌朝近くの易者(志村喬)にそのことを話す。易者が新三郎に会いに行くと、その顔には死相があらわれていた。伴蔵はそのお露という女郎は最近自害して果てたのだということを聞き込み、新三郎に「あれは幽霊だ」と話す。信じない新三郎を二人の墓まで連れて行き、新三郎もついには信じるのだ。
 その夜に新三郎のところにふたたび二人の亡霊があらわれ、新三郎は刀をふるって追い払おうとするのだがお露は嘆き悲しみ、お米はお露の哀れな運命をまたも語る。ついほだされてしまった新三郎は、またもお露をしっかと抱きしめるのであった(意思が弱い!)。
 さらに死相の濃くなった新三郎を見て、易者は新三郎に盆の明ける明朝まで御堂にこもってもらい、御堂の戸や窓に悪霊が入れぬように護符を貼りめぐらすことにする。その夜もやって来た亡霊は、護符のせいで御堂に入れない。
 ‥‥これで新三郎も救われることだろうというところだが、ここに出かけていた伴蔵の女房のお峰(小川真由美)が帰ってきて話を聞き、「その幽霊から金をせしめることはできないものか」と考える。「百両いただければ護符をはがしてやる」と言うのだ。そのように亡霊に持ちかけると、「自分たちの墓の二つとなりの墓を掘れば百両隠されている」と教えるのだ。伴蔵とお峰が墓場に行ってさぐると、まさに百両が見つかるのだった。
 二人は百両を持ってそのままとんずらしようとするが、亡霊に阻まれて、ついに御堂の護符をはがしてしまうのだった。
 翌朝、易者らが御堂を開けてみると、そこには息絶えた新三郎の姿があり、その胸には骸骨が覆いかぶさり、脇にはもう一体の骸骨が横たわっていたのだった。
 普通は「これで一巻の終わり」なのだが、欲深い伴蔵とお峰は「まだ墓地には金子が埋まっているのではないか」と、さらに掘り返しに行くのだ。そこに盗賊らの一団がやってきて、「オレたちの隠した百両を奪ったのはおまえらだな!」と、二人を斬殺するのであった。おしまい。

 もっと長い三遊亭圓朝の原作では、伴蔵とお峰はそのまま百両を持って逃亡し、荒物屋を開いて繁盛するのだったが、羽振りの良くなった伴蔵は浮気をし、じゃまになったお峰を殺してしまう。さらに悪事の発覚を恐れた伴蔵は殺人を重ねるのだが、ついには取り押さえられてしまう。これらの出来事は、もっと大きな「復讐物語」の、その一部ではあるのだった。

 ブルジョワの出の新三郎がブルジョワ世界の腐敗を嫌い、最下層の人たちのための寺子屋で教える、というのはまさに「社会派」監督の面目躍如というところ。幽霊になったお露にしても階級の腐敗の犠牲者ではあった。
 それでこの映画の面白いのは、お峰(小川真由美)の登場してからのその「女悪党」ぶりで、それまで「静的」な展開だった映画が、一気ににぎやかしくなる。小悪党でしかない伴蔵(西村晃)はしっかり小川真由美の言いなりというところで、このあたり、一方では進三郎の命が危ないというのにちとばかりコミカルな展開。場の空気を一気にかっさらってしまう小川真由美、見事である。

 幽霊らは足がないので空間をフワリと横移動するわけで、この動きが「さすが幽霊」というところ。
 しかし新三郎との「濡れ場」は意外とハードで、「ああ、お露のおっぱいが見えてしまう‥‥」みたいな感じ。そして下女のお米が新三郎をお露にくっつけようとする口上は、まるっきし遊郭の「遣り手ばばあ」である。
 そういうエロっぽいところ、この映画が撮られた1968年頃の時代、普通の映画でもけっこう女性の露出度は高めな時代ではあったと思う。「映画というのはそういうものだ」と思われてもいた時代だったか。
 しかし、この作品でもやはりセットの造形はみごとなもので、寺子屋周辺の住まいのつくりなど一枚一枚の瓦もおろそかにせず、壁の古びた感じの再現も見事なものであった。