ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『見るレッスン 映画史特別講義』蓮實重彦:著

 ‥‥蓮實重彦氏の映画に関する著作には、わたしも昔はそれなりの抵抗はあった。それはまさに「ハスミン」流のシネフィルでないと読解できない、映画マニア向けの著作でないかという思いだった。もちろん蓮實氏は今の日本では得難いすばらしい「映画批評家」ではあると思うのだが。
 しかし、しばらく前に彼の『ハリウッド映画史講義 翳りの歴史のために』という、あまり分厚くもない本を読んで、わたしの眼からウロコが落ちる思いがした。
 それはまさに「アメリカ」なるものに対抗する「ハリウッド」の歴史の叙述であり、わたしらが普段たやすく「B級映画」などと語ってしまう「B級映画」もまた、普通に考える「B級」とは異なった意味合いがあるのだ、などということが書かれ、わたしの「ハリウッド映画」を含むさまざまな「映画」の見方を一変させられるような、同時に「蓮實重彦」という人への見方も一変させられる、ステキな本ではあった。
 そういう蓮實氏が「新書」という手軽な書物で、また「映画史」について書かれるという。これは読まずにはいられなかった。

 ‥‥どうやらこの本、「新書」というかたちを忌み嫌われる蓮實氏が、一種妥協策として「インタビュー」形式での対話からの文字起こしで本にされたものらしい。そのあたり、口語体的な、軽妙洒脱な蓮實氏の語り口を楽しめるだろうか。そしてそういう語り口だからこその、蓮實氏流の「トラップ(罠)」に満ちた本ではなかったか、というのがわたしのまずの感想ではあった。
 全七章(七講)のこの本の目次は以下の通り。

第一講:現代ハリウッドの希望
第二講:日本映画 第三の黄金期
第三講:映画の誕生
第四講:映画はドキュメンタリーから始まった
第五講:ヌーベル・バーグとは何だったのか?
第六講:映画の裏方たち
第七講:映画とは何か

 
 これは著者の蓮實氏のいつものことだけれども、この本でいえば特に「第一講」と「第二講」で、「あの監督はいい」「あの監督はダメだ」という論議が頻出する。
 もしも「映画史」それ自体が問題であるならば、そういう「現代の作家」とはすべて「可能性」の問題であり、この本では保留すべき事項ではあると思う。そういうところで、この本で読みごたえがあるのは「第三講」以降ではないかと思う。ただ、ここで著名な監督について「この作品を観るべきだ」と、蓮實氏流のアジテーションをぶちまけるのだが、「ふうん」と思ってその作品のDVDを検索してみるととんでもない高値になっていたりする(それはひょっとしたらこの本でその作品が推薦されたせいのことなのかもしれない)。

 映画とはまず監督の作品なのだ。そしてその監督を支えるのが撮影監督だという正論。短かいけれども美術、脚本、そしてプロデューサーのことにも触れられ、まさに映画を観るために何を了解しなければならないかということが通して書かれていて、「映画」、「映画史」を理解するうえでの基本事項が語られていると思う。
 そんな中で、「さすがは蓮實重彦氏」というような断章も散見され、そのことがこの薄い書物の魅力にもなっている。例えばそういうサイレント作品など「映画史的に重要な過去の作品」についてなど、それが「昔の映画」だから良いのではなく、「現在」として観るようにとのアドヴァイスがある。

一本の作品と実際に向かい合う瞬間はあくまで「現在」でしかなくて、その「現在」をどれほど揺るがしてくれるかというのが映画の素晴らしさであり、映画の面白さであり、同時に映画の醍醐味でもあるのです。

 ひとつ、わたしは今までどうして蓮實氏が「キャメラ」「キャメラマン」という表記をするのかわからずにいて、「映画業界ではじっさいにそのような呼称を取っているのだろうか?」とも思っていたのだけれども、この本でそのあたりの疑問がようやく解けた。それはつまり小津安二郎監督の撮影を担当した、蓮實氏と親しかった厚田雄春氏の言によるものだったのだ。つまりそれは蓮實重彦氏だけがとる呼称だった。
 だから誰かが映画についてとか作品について書いているとき、そこに「キャメラ」とか「キャメラマン」とかの呼び方をとっているなら、「ああ、この人はきっと蓮實氏の強い影響で書いているのだな」と思ってしまっていいのだろう。