ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『アステロイド・シティ』(2023) ウェス・アンダーソン:脚本・監督

   

 映画の冒頭はスタンダードサイズ、モノクロの画面でちょっと驚かされるのだが、「司会者」とおぼしき人物が、「これから演劇製作の舞台裏のドキュメントをお見せします」と語り、そのうしろでタイプライターに向かった劇作家(エドワード・ノートン)が執筆に励んでいるところから始まる(あと、このモノクロのパートにはディレクターのエイドリアン・ブロディ、演技指導のウィレム・デフォーらが登場するが)。
 その製作中の劇こそが、つまりはこの『アステロイド・シティ』で、さいしょっからこの映画は「メタ構造」ですよ、と宣言されているわけだ。

 時は1955年(この映画内「演劇」の外の世界も、やはり「演劇」と同時制の1955年らしい)。アメリカの砂漠地帯の真ん中にある「アステロイド・シティ」という小さな小さな町で劇は進行する。「アステロイド・シティ」の人口は87人(!)。ここの砂漠の真ん中に大昔(紀元前?)に落下した隕石と、そのクレーターが「観光名所」で、モーテルとかの宿泊施設だけ、みたいな町。
 その町で「ジュニア宇宙科学大会」が開かれ、その業績で選ばれた5人のティーンエイジャーと、その保護者らが大会に参加するために町にやって来る。

 その保護者の一人がカメラマンのオーギー・スティーンベック(ジェイソン・シュワルツマン)で、大会に選ばれた息子のウッドロウと、ずっと年下の三姉妹(うるさい)と共にやって来ているが、実は彼の妻、子供らの母は来る直前に亡くなっていて、そのことを子供らに言い伝えそびれているという設定(このことは子供らは感づいてはいるのだが)。
 さらに保護者の一人が女優のミッジ・キャンベル(スカーレット・ヨハンソン)。彼女は「女優」としての自分とプライヴェートな自分とのギャップに悩んでいるのか?

 実のところ、映画にはオーギーの父のスタンリー(トム・ハンクス)だとか近くの天文台の科学者(ティルダ・スウィントン)、「ジュニア宇宙科学大会」の主催者(ジェフリー・ライト)など、各種さまざまな人物が登場しては来るのだけれども、この映画のキモは「オーギーとミッジ」にあるのよ、と言ってしまっても良くって、その他の人たちは「ウェス・アンダーソン的な世界」を形成するためにそこにいる、と言えるだろうか?

 映画は彩度を落とした古びた絵ハガキのような色彩で、そこにいつものウェス・アンダーソン映画らしくもシンメトリー構図の画面、どこまでもつづくカメラの横移動などにあふれ、そんな中で「奇想天外」なことが起きるのだ。
 実はクレーターの真ん中で開かれている「ジュニア宇宙科学大会」の授賞式のさいちゅうに、空に現れた「空飛ぶ円盤」から宇宙人が降りて来て、クレーターの真ん中に置かれていた「隕石」を持ち去ってしまうのだ(宇宙人はあとでもう一度登場し、いちど持ち去った隕石に何かしら書き込んで返却するのだが)。
 この宇宙人騒動のためにアメリカ軍によって町は封鎖され、宇宙人を「第一種接近遭遇」してしまった大会参加者らは町から出ることを禁じられ、「宇宙人が現れたこと」は国家機密とされる。しかし子供らは、外部に「宇宙人現る」の情報を流そうとするのだった。

 もちろん、こういうウェス・アンダーソンに味付けされた「1950年代風トンデモSF」も実に楽しいのだけれども、この映画でわたしなどが興味があったのは、まさにこの映画の「メタ構造」の部分で、それは「役者が役を演じる」ということについての「メタ構造」だったりする。
 例えば、スカーレット・ヨハンソンが演じる女優のミッジは、どうみても「マリリン・モンロー」だろうと思え、映画の中でもそのことを大いに意識していることがわかるのだけれども、わたしにはそこに「スカーレット・ヨハンソン」当人の姿が見えてしまうようではある。

 そして面白いのがジェイソン・シュワルツマンの場合で、彼は映画(舞台)の途中でどうやって役を演じればいいのかわからなくなり、演技を途中でやめ(という演技をやって)、セットの裏側に退避してしまう(それまで広大な砂漠の中でのロケーションだったはずだが、背景の山をめくると「舞台」の裏側に出てしまう。そこはモノクロの世界)。そこでスタジオのドアの外に出るとそこは大都市の夜の光景。そして向かいの階段の上に一人の女性があらわれる。彼女は映画(舞台)の中での出番をカットされてしまったオーギー(ジェイソン・シュワルツマン)の亡き妻の役の女優(マーゴット・ロビー)で、映画(舞台)の中でオーギー役を演じていたジェイソン・シュワルツマンと、この映画(舞台)のバックストーリーを語り合うのである。

 もちろんここでジェイソン・シュワルツマンはこの映画でオーギーを演じている男優を演じているわけで、ジェイソン・シュワルツマン本人ではない(これはマーゴット・ロビーにしても同じだが)。当たり前のことだが、このシーンは映画の中のカラーの『アステロイド・シティ』が「虚構」であることを知らしめ、このモノクロの世界に「現実」があるかのように思わされる。
 こういうことはスカーレット・ヨハンソンの登場シーンでも言えることだけれども(スカーレット・ヨハンソンでは、ほんとうにリアルな彼女自身もにじみ出ていたようではあるが)、(当たり前だけれども)それらすべてを含めて、わたしが観るスクリーンに映される世界はすべて「虚構」である。

 「そんなことを面白がっているのか」と言われそうだけれども、こうやって「映画の中で<演劇>が進行し、そこに出演しているのはそれぞれが<虚構>の役者である」という構造が面白く、「役者が<演技>をする」ということについて考えてしまったりするのだった。

 今までのウェス・アンダーソンの作品とは、そういうテイストのちがうところも思わせられる作品だったけれども、わたしには大層面白い映画ではあった。