ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『メイスン&ディクスン』(下) トマス・ピンチョン:著 柴田元幸:訳

   

  下の画像は、スペイン版のこの『メイスン&ディクスン』の表紙で、読み終わったあとにこの絵を見ると「ああ、まさにメイスンもディクスンもこ~んな感じだったな」とは思うのだ(左のメイスンは白髪なのではなく、愛用の鬘をかぶっているのだ。いっしょにいる犬は、もちろん「博学英国犬」)。先にこの絵を見ておいて、こういう二人のイメージを引きずりながらこの本を読んでもよかったな、とは思ったりする。国内版の表紙絵もいいけれども、ちょっと可愛らしすぎるか。

       

 この本の主人公の一人、ジェレマイア・ディクスンがイギリスで45歳で亡くなったのは1779年。そしてもう一人のチャールズ・メイスンはディクスンが亡くなった7年後、1786年に58歳でフィラデルフィアで没しているわけで、この長~い小説のラストはそのメイスンが亡くなり、彼の2人の息子がアメリカで生きていくことを決意することで終わっている。
 メイスンとディクスンとがアメリカで「測帯」(メイスン=ディクスン・ライン)を引く作業に従事していたのは1763年から1768年にかけてのことだったが、アメリカで「独立戦争」が勃発したのは1775年で、翌1776年にアメリカは「独立宣言」を発表している。

 というわけで、この小説の背景には、そんな「独立戦争」前夜のアメリカ混乱した情勢があるわけだけれども、小説の視点は基本はすべてメイスンとディクスン、そしてこの二人に同行し、のちに彼らの話を甥や姪、兄弟らに話して聞かせる牧師のチェリコークによるもの(というか、この小説はそのチェリコークが毎夜親族に聞かせる「話」で成り立っていることになっているのだが)。そんなもので「独立戦争」時にメイスンもディクスンも存命中とはいえ、そんな「独立戦争」の話はまるっきし登場しては来ない(その時期、二人は2回目の「金星の日面通過」観測を別々の地で終えたあと、それぞれイギリスの「我が家」に隠遁しているわけだ。

 しかしながら本編、革命前夜のアメリカに、利権を争う植民地間の「境界線」を引くという仕事(任務)のためにイギリスの王立協会から派遣される二人、そんな混沌とした情勢に無縁でいられるはずもなく、そもそもがある意味で「政治的」な任務だった、とも言えそう。じっさい二人は終盤には「オレたちは王立協会や地権者らにうまく利用されているのではないか?」との疑念も持つようになる。そして彼らの周辺にはイギリス人、フランス人、オランダ人にスペイン人、北欧人、果ては中国人までが登場し、アメリカで暮らす移民、そして先住民(インディアン)らが入り乱れ、ある意味「大混戦」。

 こ~んな背景を書くと、「史実を基にしたシリアスな歴史小説」かと思われるかもしれないが、そ~んなことはない。基本は年代記的なメイスンとディクスンの行動、そして何よりメイスンの書き遺した日々の記録こそが小説の流れの底流にあるのだけれども、この小説、「虚実入り乱れた」展開。しかもその「虚」は「壮大なるジョーク」という、まさに「フェイク」。読んでいて笑ってしまうような話も。
 まさかの中国人の登場もそうだが、この小説の中には「言葉をしゃべる博学英国犬」や「愛を求める機械仕掛けの鴨」、「狼男」などの奇想天外な連中が登場して来るし、メイスンは先に亡くなった妻の亡霊を追い求めているし(この部分はシリアスか?)、ディクスンの測量学の師は魔術師のような存在で、ディクスンはその指導の下、毎夜のように空を飛んでもいたのだ。そして小説の終盤には「地球空洞説」を実証するように、ディクスンは北欧の北から「地下世界」へと入り、地底人に出会ったりもするのだ。
 とにかく小説全体はありとあらゆる挿話の連続のようでもあり、登場人物の数も半端ない。しかもそんな挿話は結末も提示されないまま、宙ぶらりんに途切れてしまったりする。そういうので「前のチャプターの話はまだつづいているはず」というつもりで読んでいると、実はその挿話はもう終わってしまっていたりする(初読のとき、こいつに振り回されたものだ)。

 そんな「奇想天外」な話でも、ある面でシリアスな展開も読み取れて、例えば彼らの「仕事」である「測帯」を引く作業についても、地球の表面に地上にはあり得ない「直線」を引いていくことの是非があれこれ論ぜられ、特に「風水師」である中国人は、二人の仕事を手伝ってはいるがその行為は「殺(シャー)」であるとして、強く反対するのである。
 米畜(インディアン)らとの交流にも興味深いものがあり、植民地化される前のアメリカへの思考を誘われる。
 また、彼らが引いた「メイスン=ディクスン線」がのちに「南部奴隷州」と「北部自由州」との境界という意味を持たされたように、このときアメリカのみならず、二人がさいしょに「金星の日面通過」を観測するために行く喜望峰などにも、白人に酷使され、売買されるアフリカ人奴隷にあふれていたわけで、そんな光景を目にした二人、とりわけディクスンは心を痛め、終盤にはディクスンが奴隷商人に鞭打って奴隷らを解放するという、なかなかにスカッとする場面もある。

 今こうやって書いていても、頭に残っている「あんなこともあった」という挿話がいろいろと思い出されてくるのだけれども、もう忘れかけている挿話、読み飛ばしたと同じように記憶にない挿話などがこの本には詰まっているわけだ。また読む機会があれば、「こ~んな話もあったのか」という、別の側面が見えてくることだろう。

 そう、この本はメイスンとディクスンとがその中心にいる球体の内部のようなもので、その球体は逆向きの、内側に細かい鏡が貼り巡らされたミラーボールみたいなもので、内部にいるとさまざまなメイスンとディクスンの姿、そしてその他大勢の登場人物らが周囲の鏡に反射して映っているようなものではないのか。読者はそんな一枚一枚の鏡に映ったものを読んでいくのだ。とにかくは、トマス・ピンチョンによるその世界観を楽しむ。