ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『メイスン&ディクスン』(上) トマス・ピンチョン:著 柴田元幸:訳

   

 この本を読むのは連続して2回目のこと。とにかく初読のときには「どこか道を迷っていた」感じだったのだが、こうやって2回目に読むと前に読んだときに見失っていたところにもあれこれ気づき、「やはりこうやって2回読むことにしてよかった」とは思うのだった。

 全体の感想は下巻まで読み終えてから書くことにするけれども、トマス・ピンチョンの本の中でアメリカでいちばん売れたのは、この『メイスン&ディクスン』なのだという。
 それはやはり、チャールズ・メイスンとジェレマイア・ディクスンという過去の実在の人物をモデルにし、アメリカの多くの人にはおなじみの「メイスン=ディクスン線(ライン)」という、のちにアメリカの「南部」(自由州)と「北部」(奴隷州)とを画別する境界線となるラインを引く物語、ということで興味を引きやすかったのだろうと思う。

 そんな中で、いちおうはじっさいの歴史上の時間の流れ、事実に従いながらも、そこから脱線してあちこちにとんでもないフィクションをまぜているのがこの書物。まあ「フィクション」といって済ませていいのか、というような奇想天外な話(言葉をしゃべる「英国博識犬」、恋する「機械仕掛けの鴨」などが登場し、若き日のディクスンは「魔術師の弟子」として空を飛ぶ、などなど)がちりばめられているわけで、つまり読んでいてもメインのストーリーと「小話」的な挿話との中でわたしのような読者は読む道筋を見失ってしまうのであった。
 例えばこの上巻では、メイスンとディクスンとは決して心通わせているわけではなく、しょっちゅう衝突をしながら(あるときは殴り合いもしていたようだが)いっしょに仕事を進めているのだが、そんな二人の関係はキャッチーな「小話」の影にかくれて読み取りにくくなっていたりすると思う。
 この物語が始まる2年前にメイスンの妻のレベッカは亡くなられていて、その追慕の念に駆られたメイスンは「憂鬱」に囚われてはいるし、ディクスンの思考は当時の一般の通念から離れていたりもするが、メイスンの亡き妻レベッカへの思慕はこの本のひとつのテーマともいえると思う(レベッカの亡霊も登場することになるが)。

 この小説を読んでいても、例えば現実に「メイスン=ディクスン線」はアメリカのどのあたりに引かれているのかとか、フィラデルフィアはどこ? サスケハンナ川はどこ? とかあるのだけれども、そういうのをネットで検索し、「そう、ココだったわけね」などと確認すると読み進めやすくもなったかもしれない。

 あと、「測量」と「天文学」ということの関係性もよくわからなかったのだけれども、わたしはここで日本の伊能忠敬のことを思い出して調べてみると、伊能忠敬はメイスン&ディクスンよりひとまわりぐらい若いだけ。まあ伊能忠敬は日本全土の測量を始めたのは彼が「隠居」したあとのことになるから、「メイスン=ディクスン線」より4~50年あとのことにはなるけれども、Wikipediaとかを読んでみると伊能忠敬の使った測量器具とかの写真も掲載されているし、「天文学」がいかに「測量作業」に結びつくかということもイメージできるのである。
 まあメイスン&ディクスンと伊能忠敬ではその性格もずいぶんと違うみたいだけれども、「測量しながら旅をする」ということでは共通するか。誰か、「日本のピンチョン」ってな人が、伊能忠敬を主人公にした小説を書くと面白そうに思った(井上ひさしが書いてるみたいだが)。