ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『2001年宇宙の旅』(1968) スタンリー・キューブリック/アーサー・C・クラーク:脚本 スタンリー・キューブリック:製作・監督

 先日、アルフォンソ・キュアロン監督の『ゼロ・グラビティ』を観ながら、やはり思い出したのはこの『2001年宇宙の旅』のことで、宇宙に浮かぶ宇宙船、宇宙服を着て宇宙遊泳をする宇宙飛行士など映像的にも『2001年宇宙の旅』が思い出されたし、この『2001年宇宙の旅』での宇宙に投げ出されるプール飛行士の姿、ボーマン船長の宇宙空間での危機などもそのまま、『ゼロ・グラビティ』での主人公ライアン・ストーン博士の姿につながる。

 この『2001年宇宙の旅』はなんと今から55年前、1968年の作品だけれども、監督のスタンリー・キューブリックは「クズと見なされない最初のSF映画」、「宇宙におけるヒトの位置を描く映画」(Wikipediaによる)を企画したという。
 ではそれまでのSF映画はみ~んな「クズ」だったのかというと、いちがいにそう断定はできないけれども、宇宙から宇宙人や怪獣が地球を来襲するような作品だとか、科学的裏付けのない「ファンタジー」が多かったことは確かだと思う(怪獣映画やファンタジーがみ~んな「クズ」だとは思わないが)。

 そんな中で、わたしが『2001年宇宙の旅』以前のSF映画でこの映画に影響を与えたのではないかと思ったのは、『禁断の惑星』(1956)の存在(このことは英語版WikipediaでもJohn Baxterという人の意見として書かれている)。
 『禁断の惑星』が面白いのは、宇宙探検隊を襲うモンスターがいるのだが、そのモンスターとは「イドの怪物」という人間の無意識が生み出したモンスターだった、ということで、そういう人間の「外的宇宙(外の世界)」と「内的宇宙(人の精神世界)」とを並立して描き、「外世界への旅は人間の内面への旅ではないのか」というところで『2001年宇宙の旅』に先んじていたのではないかと思う。また、この『禁断の惑星』には人間を助けるロビーという(人格を持つ)人間型ロボットが登場するのだが、そのロビーは『2001年宇宙の旅』のHALのように自分の能力に「誇り」を持っているのである。そして、そのロビーは「イドの怪物」を倒せ!との命令に、「イドの怪物」の正体は人間の精神だと理解しているがゆえに命令を遂行しないのである(このことはHALの「誤動作」~「嘘」につながってくる?)。
 そういう意味で『禁断の惑星』は興味深い作品だったけれども、いかんせん「科学的裏付け」がいいかげんで、登場人物は到着した惑星でヘルメットは装着しないし(きっと、奇跡的に「空気」のある惑星だったのだろう)、その「イドの怪物」以外の妙な恋愛ドラマが、いかにもお粗末ではあったのだった(英語版Wikipediaを読むと、『2001年宇宙の旅』でも当初はHALは「人間型ロボット」という構想もあったらしい)。

 今回『2001年宇宙の旅』を久しぶりに観て思ったことはいろいろあるけれども、まずはさいしょのパート、「ムーンウォッチャー」と呼ばれる人類の祖先がモノリスと出会う年代だけれども、そのあとに月でモノリスが発見されたとき「400万年前のものだ」とされるけれど、じっさいに「人類の祖先」とされるアウストラロピテクスが地上に登場するのは400万年前のことのようで、つまりモノリスは地球に現れるのと同時に月にも設置されたわけだろう。
 ここで「骨」を武器にすることを憶えた「ムーンウォッチャー」が、その骨を空に投げ上げ、落下する骨の映像がそのまま宇宙船になるけれども、つまりその宇宙船も「戦略宇宙船」で、現代の人間が「ムーンウォッチャー」から受け継いだのはまさに「武器」だった、というメッセージでもあるのだな(このことがこの映画のラストの解釈に影響があるみたいだ)。

 あと、やはりいちばんの「謎」は、HALはなぜ乗組員に「嘘」をついたのか、もしくは「判断を誤ったのか」ということ。
 これも『禁断の惑星』のロビーにプログラムされた「人に敵対しない」という「禁忌」とつながりそうだけれども、この「木星へのミッション」が実行されるとき、ほんとうの目的はHALだけに知らされ乗組員は知らされていなかった。HALは「人に従う」という自分の存在意義を、その自分だけが知る「秘密」によって否定されるわけで、ゆえに狂ってしまったという考え方ができるのではないか(だいたい、乗組員に木星探査の目的を隠すということ自体がナンセンスなわけで、そのナンセンスゆえにHALは計算を誤り、狂ってしまうのだろうか)。
 それと、ほんとうは目的地は「木星」ではなく「土星」としたかったらしいが(アーサー・C・クラークの本では「土星」になっているらしい)、特撮チームが「土星の環」をつくるのに難渋し、「木星」ということになってしまったらしい。「木星」で悪くはないけれど、やはり「土星」で観てみたかったという気もちはある。

 ちょうどボーマン船長がHALをストップさせた(殺した)ときに宇宙船は木星圏内に入り、ほんとうのミッションの理由が知らされる。ひとりボーマン船長が木星の地へと進むとき、「スターゲイト」と呼ばれるサイケデリックな光の洪水に突入するのだけれども、わたしはこのシーンでヒッチコックの『めまい』での、さいしょにキム・ノヴァクが死んだと思い込んだジェームズ・スチュアートが精神を崩壊させていく場面での、ジェームズ・スチュアートの顔のまわりの「色彩の渦」を思い出してしまった。
 『めまい』でそのシーンがジェームズ・スチュアートの内面で起こっていることをあらわしていたように、この『2001年宇宙の旅』でのあの「スターゲイト」のシーンも、「外的」な「表象」であると同時に、ボーマン船長の「内面」にはたらくものでもあっただろう。一種「通過儀礼」として。

 だから、ラストの「木星 そして無限の宇宙の彼方へ」で描かれるのは「精神的存在」になったボーマン船長だと思った。ここでも「表象」とは異なるところに「精神」があり、例えば年老いて食事をするボーマン船長がグラスを落として拾おうとすると、ベッドに臨終に近いボーマン船長が横たわっているのだけれども、「表象」としてはそのようにボーマン船長が2人になったかのように見えるけれども、「精神」においてはそこにはボーマン船長の長い「生活」があったのだと思う。一種の「ジャンプ・カット」と考えれば。

 そして最後に、音楽が素晴らしいということ。特に何曲か使われたリゲティの音楽はその画面とのマッチでも強烈で、この映画のパワーのいく分かはリゲティの音楽によるのではないか、とも思う。