ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『月のキャットウーマン』(1953) アーサー・ヒルトン:監督

 ジョルジュ・メリエスの画期的な『月世界旅行』(1902)から50年を経てアメリカでつくられた、月世界探検を描くSF映画。映画の歴史において「月」を舞台としたSF映画は、1929年にドイツのフリッツ・ラング監督が撮った『月世界の女』があり、実は『月世界の女』のストーリーはこの『月のキャットウーマン』のストーリーに似たところもあり、おそらくは『月のキャットウーマン』に影響を与えているのでは?と想像できる(言っておくが、この『月世界の女』は、「実は月に女性がいた」などという映画ではない)。
 そして第二次世界大戦終了後から1950年代は、現実に「月旅行」が考えられた時代で、実はこの時期、マジメに「月を植民地にする」などということも考えられたらしい。まあ「植民地」はともかくとして、このような動向が1960年代の「アポロ計画」につながってくるわけでもあろう。
 1950年には、アメリカで『月世界征服』という作品が撮られているが、この作品の脚本にはロバート・A・ハインラインも参加し、「科学的考証のしっかりした初の本格的な宇宙旅行映画」とされている。
 一方でそういった「月」ブームのなか、地球から決して見ることのできない「月の裏側」への空想も拡がり、じっさいに月の裏側には豊かな森林地帯があり、人間のような生物がいるのではないかと本気で思っていた人もいたらしい。

 そういう背景があって、1953年にこの『月のキャットウーマン』が撮られるわけだろうけれども、この映画、「科学的考証もへったくれもない、いいかげんな月旅行映画」ではあった。
 実はこの映画、意外なことに「初の3D映画」として公開されたのだという。あの「赤と青のメガネをかけて観る」ヤツであろう。この時代、アメリカの遊園地では「月世界旅行」を模したアトラクション装置をこさえるのが流行していたようで、どうもこの『月のキャットウーマン』も、そういう「アトラクション」的なモノを求めてつくられたのではないかと思える。
 しかし、それならそれで「遊園地を訪れる家族連れ」みたいな客層を想定して、もうちょっと子供向けの映画にしてもよかったように思うのだけれども、まあつまりは「遊園地を訪れるカップル」という客層を想定しての映画になったみたいだ。

 ついでに思い出すのは、この『月のキャットウーマン』から3年後の1956年に公開された『禁断の惑星』という作品のことで、この作品はSF映画としてのクオリティも高い作品だったけれども、人間にとっての「外宇宙」と「内宇宙」を結びつけたことで「画期的」で、「イドの怪物」というものを登場させたことが思い出される。つまり、人の内面に潜む無意識の「欲望」が「外界」に投影され現実化される、というようなモノだった。

 それで『月のキャットウーマン』のことに戻るのだけれども、いったい全体なぜ、なにゆえに、この映画で「月の裏側に美女(?)たちが住んでいる」ということにされたのか。それはつまり、この映画の製作者の「欲望」「願望」こそが、映画を介して「月の裏側」に投影されたわけだろう。この映画、「観客の欲望を回収する」よりも前に、まずは「製作者たちの欲望を投影した」作品だったのだろう(まあ「映画」というものはすべてみな「製作者の欲望が投影された」ものだろうけれども)。その「製作者の欲望」が、月の裏側に「キャットウーマン」を出現させたのだ。そこに合理的な「理屈」はない。
 一方でこの『月のキャットウーマン』には、この時代らしい「ミソジニー意識」もほのかに投影されているというか、単純にいえば「女は怖いね!」という、これも「製作者の無意識」が投影されているわけだろう。

 この映画のストーリーを書くのがめんどいので、Wikipediaからコピペしちゃいます。

人類初の月探索ロケットに搭乗するグレンジャー隊長(ソニー・タフツ)率いる月探査チームの隊員たち。そのロケットは道中不慮の事故に遭うが、やっとのことで月へ着陸した。目前に広がる月世界に魅了される隊員たちだったが、唯一の女性隊員であるヘレン(マリー・ウィンザー)がロケットの窓から洞窟が見えたと言い、隊員たちはその洞窟内を探索し始める。その洞窟は酸素があり、隊員たちは宇宙服を脱いで奥へと向かった。するとその奥には巨大な宮殿があり、隊員たちはその月に文明があることを知る。更に調査を進めると、彼らの前に黒タイツに身を包んだキャットウーマンさながらの女性たちが現れる。アルファ(キャロル・ブリュースター)を筆頭とするその女性らはその星の住人であることと、かつて男性が存在していたが今は絶滅して女性しかいないことを隊員たちに告げる。そして賓客待遇で探査チームの隊員たちを出迎えるのだが、キャットウーマンたちには彼らのロケットを盗んで地球を征服するという目論みがあった。

 けっこう厳しい「予算不足」で製作された映画らしく、ラストのクライマックスになりそうな場面も、ただ出演者の「やっつけたぜ!」というセリフだけですませてしまい、ズッコケさせられるのだが、どうやらその場面を撮る前に予算が尽きてしまったらしい。
 この映画を観た人すべてが語るのが、月へ向かう宇宙船内部の「チープ」さ加減で、映画のために製作したものではなく、ニトリででも買って来たような引き出し付きの事務用机、車付きの椅子が並び(映画製作オフィスの備品が流用された可能性がある)、端っこには乗組員が「G重力」に耐えるのに寝ているリクライニングベッドが置かれている。宇宙服に着替えるのはまるで普通のオフィスの更衣室みたいな部屋で、そこには今もわたしなどが見慣れている、あの縦に細長いロッカーが置かれている。逆にこういう古い映画でこのロッカーを見ると、「70年前からロッカーってまったく変わってないんだなあ」と感慨深いモノもある。

 さて、乗組員は「人類初」の月面着陸だと言うに、「この一歩は‥‥」なんて気の利いたことを言うでなし、皆まったく統率もとれてないバラバラ行動を取ろうとし、どこかのヤンキー高校の修学旅行の「グループ行動日」みたいである。
 乗組員らが洞窟を進んで行くと、でっかいクモが天井から降りてきて皆を襲うのだが、ただ天井から吊るされてるだけで動かないとはいえ、このクモはけっこうしっかり造られていて、「このクモを造ったもので予算が足りなくなってしまったのではないのか?」と、心配になってしまう。動かないクモをごまかすため、乗組員らがクモにいっせいに飛びかかってカモフラージュする演出はかわいい。

 それでついに「キャットウーマン」が登場するが、彼女らがいる「宮殿」もどこかバブリーなキャバクラ風で、「キャットウーマン」の接待なわけだから、これは法外な会計になるだろうなと思うのだ。余興にキャットウーマンらのダンスもあるし(別料金が請求されるだろう)。
 もちろん、「キャットウーマン」らは乗組員らをたらし込んで、宇宙船の操縦法を知ろうともしているわけで、そのやり口はキャッチバーに近い。しかし、キャットウーマンのひとり「ラムダ」はマジに相手した乗組員を好きになってしまい、「純愛モード」全開になる。この「ラムダ」役の女優さん、どことなくイザベル・アジャーニに似ている気がして、「わたしのひいき」になってしまったのだが、仲間のキャットウーマンらに殴り殺されてしまう。残念。

 まあいろいろと観ながらの話題に事欠かない作品というか、複数の人で観ながらちゃちゃを入れながら盛り上がるのに向いている映画だと思う。まさに「アトラクション映画」。ちなみに、音楽はまだ駆け出し時代のエルマー・バーンスタインなのだった。

 もうひとつちなみに、この映画公開から5年後の1958年、この映画のリメイク、『月へのミサイル』という作品も製作されていて、こっちもまた、この『月のキャットウーマン』といい勝負の楽しい映画らしい。ちょびっと観てみたい。