ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『福田村事件』 森達也:監督

  

 1923年(大正12年)9月6日、関東大震災後の混乱の中、千葉県東葛飾郡福田村(現在の野田市)において、香川県から来ていた薬の行商グループ15人が地元の「自警団」に朝鮮人と怪しまれ、15人のうち女性子供を含む9人(1人は妊婦であった)が虐殺された。これが「福田村事件」である。
 今の自民党や右派の連中は「そんな事件は起きなかったのではないか?」などと言い出しそうだが、「柏市史」にもはっきり書かれている「事実」であるし、今年の6月に野田市長は市議会一般質問での答弁で、「被害に遭った人たちに謹んで哀悼の誠をささげたい」と弔意をあらわした(以上、Wikipediaによる)。

 ドキュメンタリー映画作家として著名な森達也監督は、さいしょ民放テレビ局に話を持ち込み「TVドキュメンタリー」として製作しようとしたというが話が進まず、百年前の事件をドキュメンタリーで撮ることがむずかしいこともあったのか、森監督は「では劇映画にしよう」となったらしく、製作費はクラウドファウンディングによってねん出したという。

 前置きが長くなってしまったけれども、ただ「虐殺」というエキセントリックな題材を選んでいるからではなく、とても奥深い、魅力的な作品ではあったと思う。「疑似ドキュメンタリー」として「事件」を外から追うのではなく、事件の起きた福田村に暮らす人々の、震災前からの「人間的なドラマ」をしっかりと捉え、「なぜこのような悲惨な事件が起きたのか」「どうして止められなかったのか」ということを、観る人に考えさせる作品になっていたと思う。

 映画は「自警団」に加わってはいない村の住民4人に焦点をあてて、一見「事件」とは関係のない4人のドラマを描いている。この4人のドラマに、わたしは惹かれた。
 朝鮮での教師職を辞めた澤田智一(井浦新)が、その妻の静子(田中麗奈)と共に列車で帰郷してくるところから映画は始まる。同じ列車には、シベリア出兵で死亡した夫の遺骨を抱いた島村咲江(コムアイ)も乗っていた。咲江は村で豆腐をつくって売り歩いている。
 智一が教師を辞めたのは朝鮮で日本人による朝鮮人への殺傷事件を目にしたことが原因でもあり、福田村で農業を営もうとするが、地元の人らに「鎌の使い方がなってない」などとからかわれる。
 その妻の静子は「ブルジョワ令嬢」という見かけでもあり、行動力もなくただ隠遁しようとする夫の智一には不満がある。
 咲江は村のはずれの利根川で舟の渡しをやっている田中倉蔵(東出昌大)と関係を持っているが、倉蔵は村人たちの生活圏の外に生きる人物で、村の外の世界への「渡し」役である。

 静子はあるとき堪りかねて智一を置いて村を出ようとし、倉蔵の渡し舟に乗るが、智一との結婚指輪(朝鮮で採れる白い貴石で出来ている)をしてきたことに気づき、指輪を外して倉蔵にやろうとし、そのまま舟の上で倉蔵と抱き合う。
 そしてそんな舟の上の二人を、岸から智一が目撃しており、さらに少し離れたところでは咲江もまた舟を見ていた。
 静子は思い直して智一の家に戻るが、咲江はそのあと倉蔵が落とした白い指輪を拾い、指輪を豆腐の中に入れてつくり、その豆腐を智一の家の玄関先に置いて行く。
 「豆腐を贈られた」と解釈した静子は食事にその豆腐を出すが、静子の食べた豆腐の中には指輪が入っているのだった。

 これは震災の起きる前の話で、ダイレクトには自警団による犯罪に結びつかないところもあるけれども、あとに智一が静子に「(舟の上のわたしたちを見ていたのに)なぜあなたは声をあげなかったのか」となじられることが、事件の場において智一が自警団に「やめろ!」と声をあげることにはつながっていたし、映画のラストにもつながっている。

 わたしはこの4人の「ドラマ」の部分が気に入っていて、この部分だけでも独立させて作品にしてもいいように思ったのだが、この作品は3人の脚本家(佐伯俊道、井上淳一荒井晴彦)によるもので、分担を分けて書かれたものなのだろう。

 「事件」そのものの描写はやはり見ていてもつらく、「どうしてこのような事態になってしまったのか」と思うのだが、皆が「こいつらは朝鮮人なのかどうか」と声を上げる中、行商グループのリーダー(永山瑛太)が「朝鮮人だったら殺していいのか!」と声を荒げるシーンが、こころに焼き付いた。
 じっさいに2歳、4歳、6歳の幼児、そして妊婦も虐殺されたわけだけれども(そのあたりの描写はソフトにしてあるが)、虐殺を行った「自警団」の連中は、なぜそんな幼児らも殺害したのだろうか。そもそも「(彼らが犯罪者らだと思い込んでいる)朝鮮人かどうか疑わしい」のであれば拘束して留置所に入れるのが「法治国家」としてやることだろうし、「彼らを野放しにすれば放火、略奪を行い、井戸などに毒を投げ入れるかもしれない」とするならば、幼児らがそんなことをやると考えたのか。
 やはりここには事件前から朝鮮民族への強い差別意識があり、震災の混乱を機に警察組織、メディアなどを中心に「ホロコースト」に近しい意識が植え付けられたのだろうか。

 映画には「事件の真実を伝えるべき」とする新聞記者の恩田楓(木竜麻生)が登場するが、彼女の服装もどこか現代的だし、ヘアスタイルもボブカットで、彼女は現代から百年さかのぼって登場した人物のようでもあり、いわば「森達也監督の分身」という存在なのではないかと思った。

 実は観たあとになって、過去に瀬々敬久監督の撮った『菊とギロチン』という映画を思い出した。その映画も関東大震災後の日本が舞台で、当時の無政府主義グループ「ギロチン社」を描いていたのだったが、その『菊とギロチン』に、この作品に出演している木竜麻生、東出昌大、そして井浦新も出演していたのだった。
 わたしは当時映画館でこの映画を観ていて、今では内容はまったく記憶してはいないけれども「もう瀬々敬久監督の作品は観なくっていいな」とは思ったのだった。
 しかしその映画のことを記憶していないということも気にかかり、「Amazon Prime」で観ることもできるのがわかったので、今度観てみようかとは思うことになった。しかし「3時間」はキツいなあ。