1988年に高橋伴明監督によりヒットした『DOOR』というスプラッター・ホラーがあり、続いて高橋監督は1991年にVシネ『DOOR II』を撮っているのだけれども(わたしはどちらも観ていないが)、なぜか5年後に特に内容的に引きずってはいないようなのにタイトルだけ引き継いで、この『DOOR III』が黒沢清監督によってVシネとしてつくられた。この時期、黒沢監督は1992年の『地獄の警備員』以来劇場映画は撮っていなくって、『勝手にしやがれ!!』シリーズなどVシネ中心の活動をされていた。
この作品の翌年1997年には黒沢監督は『CURE』を発表して、ニューウエィヴ・ホラー監督としてブレイクするわけだけれども、この『DOOR III』にはその『CURE』、またそれ以後の黒沢監督の作品につながるホラー的な演出も散見されるわけだし、また過去のドイツ表現主義映画へのパスティーシュも垣間見れるという意味でも、この作品は興味深いものではあった。
はっきりいってこの映画のヒロイン佐々木(田中美奈子)の設定など、わたしには黒沢清監督らしくもないものだと思うところもある。
彼女は某生命保険会社の外回りの営業職で、ある程度「女性であること」を武器にして男性顧客をつかんではいるのだけれども、「客とは性的な関係は持たない」ということをポリシーにしている。一方、男性客とその職場でも平気でセックスをして契約を伸ばそうとしているライバルもいるわけだ。こりゃあ黒沢監督にはムリっぽいストーリーだろう。
あるとき、佐々木は人づてに、ある新興の会社が職場フロアを拡張しているとの話を聞いてその事務所を訪問する。
この職場には女性社員しかいないようで、しかもそれぞれが連携なくバラバラな動きをしているようなのが、黒沢清っぽい。ただ通路にたたずんでいる女性、席に座っていても虚ろに前を見ているだけのような女性など。
部長の藤原という男を部長室に訪ねると、だだっ広い部長室に一人いる藤原は実にあやしい雰囲気の男であった。
この藤原を演じるのはこの作品がデビュー作の中沢昭泰という人物だが、何というかヘルムート・バーガーを思わせるようなところもあるし、こういう顔の男が古いドイツの恐怖映画に出ていたような気もする。
藤原は「妻がすでに生命保険に加入しているし、妻の承諾がなくては決められない」という。佐々木は藤原に惹かれるが、「顧客とセックスはしない」という彼女のポリシーが彼女にブレーキをかけさせる。それでも藤原のあやしい魅力に魅せられた佐々木は、藤原のデータを調べるのだが、妻はしばらく前に死亡しているようだし、かつては同じ会社で佐々木の前任者だった阿部(諏訪太郎)が彼にコンタクトを取っていたようなので、阿部に「どういうことなのか」問い合わせる。
阿部が藤原のことをあらためて調べると、藤原の両親は南米で寄生虫に感染して死亡しているのだった。
阿部は藤原の家を訪れて藤原に会うのだが、そのあとに佐々木の前で車に轢かれて死んでしまう。
藤原は佐々木を電話で誘い、バーで二人で飲んで彼女を強烈に誘惑もする。
佐々木もそれ以来、周囲で自分のことを見ている赤い服の女性らの存在を感じはしていたし、阿部からの情報をもとに藤原のことを自分でも調べ、その両親が感染したという珍しい寄生虫の、奇怪な習性も知る。その寄生虫は、同類寄生虫との争いで、オスはメスを支配下に置いて隷属させるという特殊な習性を持っているのだという。
「真相」の想像がついた佐々木は、ついにまるでゴシック建築の洋館のような藤原の家に行くのだ。
藤原の部屋で藤原に襲われながらもそれをかわし、藤原の口づけを受けながらも藤原の体内の寄生虫を吐き出させ、その寄生虫に火を放つ。藤原の屋敷は、藤原と共に焼け落ちでしまう。そして生還した佐々木は‥‥。
先に書いたように、のちの黒沢作品でまた登場するようなホラー的描写の原点がある作品でもあり、特に『回路』にそのまままた登場するような描写はかなり多い。また、このあと何度も登場する「ビニールに囲われた部屋」というものも、どうやらこの作品から登場するようだ(『地獄の警備員』にもそういうのがあったかもしれないが)。
あと、佐々木が藤原の家の彼の部屋での二人の対峙するシーンは、その照明、採光などまさしく「ドイツ表現主義」的ではあったし、このときの過剰な音楽もまた、当時の「サイレント映画」の伴奏音楽を思わせるものがあり、黒沢監督としては「おさらい」しているのだな、と思わせられた。
また、この作品での寄生虫による「感染」というテーマもまた、次の『CURE』でも、『回路』でも「主題」となるものではないだろうか。
一見、「なんだこのストーリーは」と違和感を抱かせられるモノではあるけれども、その「寄生虫」という核心へ向けて、ストレートにまい進するストーリーとして、納得もするのであった。