ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ダンケルク』(2017) クリストファー・ノーラン:製作・脚本・監督

 実はわたしは今まで、古い記憶からクリストファー・ノーランの映画は苦手で、映画を観ようと思ってもそれがクリストファー・ノーランの監督作品だというと「えええ!クリストファー・ノーランの映画なんだ!」と、ついついパスしてしまうのだったが、昨日チャーチルの映画を観たこともあり、ヒトラーナチスの侵攻でイギリス軍・フランス軍が撤退した「ダンケルク」のことを以前より知ることになり、チャーチルの仕込んだ「ダイナモ作戦」とはどのようなものだったのかということも知れるかと思い、この作品を観たのだった。

 作品はまさに「生き残るための」サヴァイヴァルを描いたものというか、ダンケルクの海岸から撤退して生き延びようとする兵士たちと、イギリスからその「ダイナモ作戦」によってダンケルクへ向かおうとする民間の船舶、そして兵士の撤退を防護しようとするイギリス空軍機のパートから成っていて、陸の兵士たちは「一週間」、救援船舶は「一日」、空軍機は「一時間」というそれぞれの視点からの構成になっている。
 基本は、イギリス軍兵士トミー(フィン・ホワイトヘッド)の行動(「陸」)を中心に撮られているのではと思ったが、イギリスから「ダイナモ作戦」で徴用された民間船の乗組員3人(「海」)、船長はドーソン(マーク・ライランス)、それとイギリス空軍パイロット、コリンズとファリア(トム・ハーディー)らも大きくフィーチャーされる。

 ほとんどセリフもないままに進行するドラマだけれども、その三者三様のドラマのからみが絶妙というか、そこに多少の時間差もあるところから、特に空を飛ぶ戦闘機から海を見た映像と、海の船舶から空を飛ぶ戦闘機を見た映像とが見ていて「ああ、この眺めはあのときの眺めなのだ」と、その時間差を含めて立体的に眺められた気がする。
 そういうのでは民間船舶はとちゅうで漂流するイギリス兵士(キリアン・マーフィー)を救出するのだけれども、船長が「これからダンケルクへ行くのだ」と言うと、兵士は「いやだ、もう二度とダンケルクへは戻りたくない!」と理性を失った行動をするのだが(おかげで悲しい事件も起きる)、あとの映像で時間差でもっと早い時間にダンケルク海岸から満員のボートが海に出るシーンがあるのだけれども、そのボートに乗っていた兵士らの中にキリアン・マーフィーの姿もあったと思う。つまりそのボートは転覆し、キリアン・マーフィー一人が命からがら生き残ったのだろう。

 映画を観ていて、トミーはとちゅうで出会った2人の兵士と共に行動をとるようになるのだけれども、そこでの3人の「機転」であるとか、生きるためへの執念のようなものはいちばん心に残った。
 民間船舶の船長の「使命感」と、同乗している彼の息子のまるで兵士のように「キリッ」とした行動にも気持ちが行き、なおさら先の悲劇が悲しく思うのだった(この件はラストに回収されるが)。そして戦闘機のパイロットのファリアは、たった一機残ったイギリス軍機で、(こういう言い方は語弊があるかもしれないけれども)まるでゲームを見るかのような緊迫した状況で大きな活躍を見せ、「手に汗を握る」とはこのこと、という演出を見せてくれた。

 さいごにイギリスにたどり着いたトミーらの兵士たちは、列車に乗り進んで行くが、彼らは自分らは「撤退した敗残兵」で、とても歓迎してもらえないだろう、「唾を吐かれるぜ」と思っているのだが、途中で手に入れた新聞で「英雄」と歓迎され、駅のホームでは人々にビール瓶とかの差し入れを受ける。こういうのは日本なんかでは起き得ないことだったろうなと思う。

 ダンケルクからイギリスのドーバー海峡までは40キロ足らず。泳いで渡る人もいるぐらいの近距離といえるが(しばらく前に観た『ベンジャミン・バトン』では、ティルダ・スウィントンが泳いで横断したのだ)、この映画ではその40キロ足らずはあまりに遠い。
 ダンケルクの桟橋から双眼鏡で海を見ていた士官(ケネス・ブラナー)の、双眼鏡の下の口元が笑みを浮かべ、「イギリスが来たぞ!」と語り、沖に「ダイナモ作戦」で徴収された多数の民間船舶が見えたとき、わたしの口元にも笑みが浮かんだのではないだろうか。

 クリストファー・ノーランはいつもややっこしい演出でわたしの「苦手」とする監督ではあったけれども、この『ダンケルク』は素直にストレートに、素晴らしい作品だったと思える。