ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『メメント』(2000) クリストファー・ノーラン:監督

 クリストファー・ノーランの作品だし、観る前に「難解だぜ~」という評判も目に入り、なんとかという映画みたいに、映画の外側の「ストーリーの解釈」が問題だったらイヤだな、などと思いながら観始めた(今日になって初めて観る作品)。

 主演のガイ・ピアースは好きである。って、『L.A.コンフィデンシャル』ぐらいしか記憶にないけれども、「善」と「悪」とのはざまの振幅を表現できる役者さんだろうか、というところがあったけれども、まさにこの作品はそういう彼の魅力が全開だっただろうか。はたして彼は「正直」なのか、それとも「ウソつき」なのか?

 この作品、まずは主人公のレナード(ガイ・ピアース)が「新しいことを記憶できない」という記憶障害を患っているというのがポイントで、レナードの一人称として描かれるこの作品、つまりは「今起こっていることはわかるけれども、その原因となっている過去のことはわからない」という展開で、過去のフラッシュバックと現在とがうまい具合に混合されて描かれる。
 レナードは記憶を保てないからいつもポラロイドカメラを持ち歩き、その写真にメモ書きをして持ち歩き、さらに重要なことがらは自分の身体にタトゥーで描き込んでおくことにしている。
 彼が追い求めるのは「妻をレイプして殺害した犯人を見つけて復讐する」ということで、現在の彼の周辺にはテディという男がつきまとっている。レナードの持つテディを撮影したポラロイドフィルムには、「彼を信用するな、彼を殺せ」と書いてあるのだが。
 そのほかに、彼の過去への手がかりを与えてくれそうなナタリー(キャリー=アン・モス)とか、彼の宿泊する安宿の受付の男とかいるのだが、「現在形」でレナードの周辺にいる人物は多くはない。それと、レナードが記憶を維持できなくなる前に知っていたサミーという男性(彼もレナードと同じ記憶障害を患っていた)の話とか。

 ‥‥なんだ。そんなに難解ではないぞ。現在と過去をごっちゃにして解りにくくしているけれども、ミステリーとしてそんなに難しいものではない。
 この作品ではすべてレナードの一人称で描かれているというのが大きなポイントで、つまりはこれはナボコフもよくやる「信頼できない語り手」の話なのである(『ロリータ』もまた、そういう「信頼できない語り手」による小説なのだということは意外とけっこう知られていなくって、そのせいで今でも妙な誤解を生んでいる)。そういう意味ではナボコフの『絶望』とかを思い出していい。というか、『絶望』を思い出すべきだ。つまり観客は、レナードの言うこと、レナードの視点を信じていいのだろうか?

 そうするとほら、考えたとおり、レナードは自分の都合のいいように自分の記憶を取捨選択しているし(まだ記憶のあるうちに、「この記憶は捨ててしまおう」とか「ここのところはこういうことにしよう」とかねつ造もできるのだ)、だいたいこういうストーリーでいっちばんあやしいのは、いつも「語り手」なのだ。

 けっきょく、観て行けば「ほらね、やっぱりね」ということでもあり、だいたいこういうことは(ネタバレになってしまうが)そもそもの「妻殺し」から疑わなくってはならない。しかも、面白いのはそれ以前の、「サミー」という男の逸話というか(このあたりのオレの記憶は「発病以前」のことだからしっかりしているんだぜ!とレナードのいう)レナードの記憶もまた、レナードの「ねつ造」なのだ(いかん!いちばんの「秘密」をバラしてしまった!)。

 しかし、この映画はそういう「狡猾」なストーリーテリングで終わるものではなく、その「現在」と「過去」との入れ込み具合が実に巧妙に演出されていることであって、観ていて「ああ、前に観たあのシーンはココにつながっているわけか!」などと、観ていて楽しめる。とにかくこの作品が魅力的なのは、「視覚的要素」をうまく作品の中に活かしていることで、単に「プロットが面白い」ということを越えているのがいい(だから「ネタバレ」されてもなお、面白い作品ではあるだろう)。
 わたしはまだ一度しか観ていないけれども、これをもう一度さいしょっから見直せば、気がつかなかったことで「おお!そうなのか!」と思うことはいろいろとあることだろうと思う。

 とにかくやはりこの作品、ナボコフの『絶望』の変奏曲なのだと解釈してしまってもいいだろう。「映画のトリック」ということに対しても当時いろいろと思索をめぐらしていたナボコフ、『絶望』から60年以上の年月を経て、このクリストファー・ノーラン監督の『メメント』においても、ナボコフ的なトリックが花開いたのだということもできるのではないだろうか?(ナボコフを持ち上げ過ぎか?)