ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『死霊魂』(2018) ワン・ビン(王兵):撮影・監督

 1956年から57年にかけ、まだ建国十年に満たない毛沢東中華人民共和国中国共産党)は、「例え中国共産党に対する批判が含まれようと、人民からのありとあらゆる主張の発露を歓迎する」とする「百家争鳴」なる政治運動を開始した。そこに「民主主義国家」の幻想を見た一部知識人らは、調子に乗ってしまって「党批判発言」を行ってしまったのだが、共産党の独裁をも批判された毛沢東は1957年にいきなり方針を転換、「反右派闘争」を開始し、全国で「百家争鳴」で党批判をした連中ら50万人以上を失脚させ、これを投獄した(以上、一部はWikipediaによる)。
 しかも、そんな反体制分子が収容所に収容されていた時期、中国では1959年から61年にかけて大規模な飢饉が起こり、この時期の推定総死者数は<1500万人~5500万人>にのぼったという。ほとんどの死者は餓死によるというが、拷問や処刑による死者も相当数含まれていたという(これもWikipediaによる)。

 この、2018年に公開されたワン・ビン監督のドキュメンタリーは、その「反右派闘争」のときに中国北部、ゴビ砂漠辺境にあった夾辺溝収容所に送られ、のちに近隣の明水という地に送られた人々の生き残り、生存者を基本にインタヴューして製作された作品。夾辺溝収容所には3200人の人々が送られたというが、生還出来た人は500人に満たなかったという。
 この作品はそんな生還者ら120人の証言、600時間の映像からつくられた作品だという。作品長495分、それぞれ約3時間の3部構成からなる作品である。

 まずさいしょにインタヴューが試みられたのが2005年で、人々の生還からすでに45年近い歳月が経っていたわけで、次に2017年に撮影されたとき、先にインタヴューした人々も多くの人が亡くなられていた。
 ワン・ビン監督のインタヴューのスタイルは、監督からいくつもの質問をして答えてもらうのではなく、あくまでも相手の方の「発話」をのみ待たれるというかたちで、誘導的な質問は行われない。相手が言葉につまっても辛抱強く、カメラを向けたままで待たれるわけで、画面にはしばしば沈黙がつづく。しかし、つまりはその「沈黙」の重さこそが、この作品なのだとも言えると思う。

 映画は3部構成で、それぞれが3時間弱の長さがあるのだけれども、第1部ではインタヴューに応じた方がそのあとに死去され、その葬儀の模様がしばらく映される。「ああ、<文化が違う>というのはこういうことなんだな!」ということがダイレクトにわかった気がするし、「死者」というのはこの作品での大きなテーマでもあるので、ここでこのような「死者」を葬る映像は、結果としてインパクトがあったと思う。
 第1部の終盤には、のちに「明水」の地に入植して今も住まっている農家の方への屋外でのインタヴューがあるが、その「明水」の地はもともとアルカリ土壌で、「農地」として開墾するのは難しかったろうと語られる。

 第2部では雄弁で元気な男性が、その「夾辺溝」から「明水」への体験、最終的な「解放」へのストーリーをある意味「劇的」に語られて記憶に残る。この方の話はとてもドラマティックで、そういう意味では興味深く聴けた。
 いちおう「明水」の地は建前としては「農地開墾」というのがあり、季節になるとヒマワリの種子やジャガイモの芽が、植えるために配布されるというのだが、そ~んなものはみ~んなが食べてしまい、植えられるのは食べ終えた「クズ」ばかりで「芽」がでるわけもなかったという。この方はその息子さんが迎えに来て、いっしょに列車に乗って田舎へと帰るのだが、その道中の話にもスゴいものがあった。この方も元気そうだったのだが、インタヴューのあとに亡くなられてしまったようだ。

 やはり圧巻は第3部で、まずはクリスチャンの方の体験談があり、そのあとに「明水」で管理側だった職員の方の話がある。そして、これまでは「何とか生き延びられた方」のインタヴューだったのだが、ここで収容所で亡くなられた方の写真と手紙が紹介され、そのあと、「夾辺溝」の収容所で亡くなられた方の夫人のインタヴューがある。
 もう、この方の話が涙なくしては聞けないというか、途中からはずっと泣きながら画面を見ていた。
 元教師だったその方は、「右派」として告発されたあとも素直に告発を受け入れ、「毛沢東選集」を暗記してまで「夾辺溝」へ送られ、夫人には「わたしも夾辺溝で生まれ変わるのだ」と伝え、「明水」に移送されたときは「わたしはこの地に桃源郷を生み出すのだ」と、本気で思っていらっしゃったようだ。おそらくはそんな「夢」も破れて食べるものもなくなったあとも、さいごまで夫人には弱みは見せなかったけれども、「便秘なので麦こがしを送ってほしい」とかの連絡はしていたようだ。夫人がさいごに明水に行ったとき、すでに夫は亡くなられていて、どこに埋葬されたのかもわからなかった。

 印象に残るのは、収容所から生き残った人には「炊事係」になれた人の比率が高いこと。彼らはもちろん、自分のためにごまかして食べることが出来たのだ(あとは「ウサギ当番」という人もいたが)。
 当時、一人の人に配布された「食糧」は、一日に250グラムだったという。おそらくこの量は、「死ぬか生きるか」のりんかい線だったのだろう。
 そして、「麦こがし」。実はわたしも、幼い頃にこの「麦こがし」というのをおやつに食べていた頃がある。考えてみれば、こうやって中国で「大飢饉」だった頃と、わたしが「麦こがし」を食べていた頃とは、そ~んなに前後するわけでもないだろう。

 第1部、2部、3部のラストにはそれぞれ、現在の「明水」の地をカメラが歩く映像が含まれているのだが、皆が話していた、皆が寝起きしていた「地下壕」とはこういうところだったのか(何もないのだ)、という驚きもあるし、今でもなお、あちこちに人骨が転がっている風景には戦慄を覚える。わたしの思いでは、こうやって自分らの過去の過ちからの「亡骸(なきがら)」を、50年以上経った今もなお放置している国というのは、何かの神経が欠如している。それが今の「中華人民共和国」ではないかと思い、このような映像を残されたワン・ビン氏の「勇気」に、改めて感銘を受けるのであった。

 いちど最後まで観て、最後の方に登場して来た人に、「あれ、この人の名前って、前に登場した人が語っていた人物じゃなかっただろうか?」などということもあったし、う~ん、ちゃんと把握するには、「もう一度」観てみたいなあ、とは思うのだった。
 あといちおう書き足しておけば、わたしは基本的に「共産主義者」ではないし、毛沢東などは「唾棄すべき存在」だとは思っているが、そのことでわたしはそのあたりに転がっている「反共主義者」と同じだというわけではない。今は子細に書かないが、共産主義も含まれる「社会主義」というものはその基本で誤っているとは思えないし、人々は追い求める「理想」はそんな「社会主義」の中にあるだろうと思っている。だから、「社会主義」のひとつの発露である「共産主義」が、そのほとんどのケースで過てる道を歩んでしまったことを、わたしらは検証しなければならないと思っている。もちろん、ときどき書いているように、今の「日本共産党」もまた、おかしなことにはなってしまっている。しかし、そう思うからと言って、それは決して「反共」ではないはずである。そのことだけは書いておきたい。