ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『野火』(2015) 大岡昇平:原作 塚本晋也:製作・脚本・撮影・編集・監督

 わたしはこの原作小説を読んでいない。これは『俘虜記』のように、大岡氏の実体験を基にした小説と思っていたのだけれども、じっさいはまったく「フィクション」なのだったという。
 実はウチの本棚の奥に、この本(大岡昇平などの作品を集めた「昭和文学全集」の一冊)が眠っていたので、これを機会に掘り出してやり、読もうかと思っている(むかしの百科事典のようにデカい本なので、通勤の電車の中で読めないのが、ウチに何冊もある、この「昭和文学全集」をちいっとも読み進められない原因ではあるが)。

 大岡昇平氏は、この『野火』の全体の枠はエドガー・アラン・ポオの『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語』によると語っていて、わたしは先日その『アーサー・ゴードン・ピムの物語』を読んで、久しぶりに小説を読んでの大きな感銘を受けたこともあったし、『野火』のことは気にかかっていた。
 ほんとうは原作小説を先に読むべきだったろうが、この映画作品を先に観た。この映画に先行して、1959年に市川崑監督がこの原作を映画化していて、そちらもけっこう高い評価を受けていたようだ。可能ならそちらも観てみたいとは思う。

 ストーリー的には、原作を離れてこの映画を観たかぎりで解釈するしかないけれども、ただ延々と「飢え」を抱えて彷徨いつづける主人公は、たしかに「海を漂流する」アーサー・ゴードン・ピムの相似形なのかとは思う。
 アーサー・ゴードン・ピムは行きがかり上、素性不明の男たちと同じ難破船で漂流するが、そんな同行の男たちは仲たがいもするし、ただ「救われたい」という思い以外、皆に共通するものはない。漂流の途中で、死屍累々たる難破船ともすれ違うし、仲間内で「カニバリズム」も起きるわけだけれども、この『野火』は、「果てしなく続く大海原」が「果てしない森林・草原」に取って代わるわけで、「目的地が見えない」ということは同じだろう。
 主人公の歩み行く道なき道には、無数の日本兵の死体が転がっているし、とつぜんサーチライトで照らされてアメリカ軍の攻撃が始まったとき、主人公のまわりの日本兵はまさに「無残」な死に方をして行く。
 生き残った主人公は、以前出会ったことのある日本兵二人と再会するが、彼らは「サルを狩る」と称して現地人を殺して食べている。そんな二人にも険悪な空気が漂っているが。

 主人公の男とて、「無垢」ではなく、海岸の小屋で出会った現地人カップルの女性を撃ち殺し、貴重な「塩」を手に入れている。
 一方、ひん死の重傷で倒れていた日本兵ジープで来たアメリカ兵に担架で救出される姿を見て、自分もアメリカ軍に降伏しようと白旗をつくるのだが、主人公がその「白旗」を振って出ようとする前に他の日本兵が同じ行動をし、その日本兵が射殺されるさまを目撃し、降伏の意思を捨てるのだった。

 塚本晋也監督は、この原作の映画化の構想に20年を費やしたという。それは塚本監督が映画を撮り始めた、いちばん初めの頃からのことなわけだろう。実際の「戦争体験者」が年老いて行くなか、「今撮らなければ」という使命感もあり、多くの「旧:日本兵」にインタヴューしたともいう。
 この作品で塚本晋也氏は監督だけでなく、撮影(兼任)、編集などの作業にも携わっておられる。
 じっさいにフィリピンでのロケ撮影など、夏(?)の緑あふれる森林・草原と、あくまでも青い空とが美しく、そんな「自然」の中に無造作に転がるおぞましい「死屍」との対比は強烈で、撮影、そして何よりも「編集」の手腕は感じた。特に、そんなどこまでも青と緑の「昼間」に対しての、夜のサーチライトによるアメリカ軍攻撃シーンは「強烈」で、ここは『鉄男』からの塚本監督のそういう、継続する「人体解体」みたいなグロテスクさ満載なシーンでもあった。

 「太平洋戦争」で亡くなっていかれた日本兵、その死因の大半はなんと、戦闘による「戦傷死」ではなく、「餓死」だったという。そんな「飢え」ということをかなり正面から捉えた作品として、記憶にとどめておきたいと思った(但し、これを言うのはあまりに「酷」だけれども、演じられる俳優の方々が皆、栄養状態が良くって頬もパンパンだったのは、正直言うとつらかった~だから俳優は皆、撮影の前はしばらく絶食して体重を落とし、「栄養失調状態」になるべきだとは言えないが~)。