この夜も夢をみていたようだ。目覚めたときにその「夢」の気配だけが残っていて、いったいそれがどういう夢だったのか、しかとは思い出せないのだけれども、夢の中でわたしは「馬」になっていたのではないかと思う。目覚めて「馬」のことを思い、じっさいに「馬」にあこがれる。
わたしは現実に「馬」を目にした記憶もまるでないのだけれども、「馬」として生きるということに、なぜか焦がれる自分がいるのだった。
先週まで、どこかメンタルヘルス的に「ヤバい」状態にあったと思い出されるのだけれども、土曜日曜と、まるで死んだように寝続けたおかげか、すっかり「再生」出来た気分である。気分的に、理由もなく「ポジティヴ」ではある。この感覚が継続してくれればいいが。
今日は仕事の帰りにウチのすぐ近くで、茂みの上にとまったスズメの、けっこういい写真が撮れた。少し頭がツン、ツンとしていて、ちょっとヒバリみたいに見えなくもない。
ケータイをみると、このところやたらに「GMAIL」に新しいメールが届いていて、それはみ~んなTwitterでの新投稿を知らせるメールなのだ。
ちょっと先月ぐらいから、朝のテレビ小説『ちむどんどん』のいわゆる「#ちむどんどん反省会」というのを覗いてみていたのだけれども、どうやらそんなときに閲覧した人の「新しい投稿」がメールで知らされているみたいだ。見てみるとけっこうな数のメールが届いていて、別に興味もないし迷惑だ。
わたしは今は『ちむどんどん』なんてもう興味なくなってしまっているというか、「見たくない」という気もちが強い。別にTwitterを閲覧したいという気もちもないわけで、めんどいのでTwitterをアンインストールした。
もういっちょ、もうずいぶん長いことFacebookに参加していて、けっこう投稿もして来たのだったけれども、先々週ぐらいにフッと醒めてしまい、まあ「脱会」をしたわけではないけれども、まったく閲覧しなくなった。
こうやってFacebookの閲覧をやめると、何だか気分もスッキリしたところがある。今の「ポジティヴ気分」の背景には、こういうこともあるのかもしれない。さらにTwitterの閲覧をやめたこともまた、プラスに働いてくれているのではないかと思う。そう希望する。
先週読んでいた『ポオ 詩と詩論』を読み終えて、昨日今日とそのあとに買った清水書院の「人と思想」叢書の『エドガー=A=ポー』を読み始め、ほとんど読み終えた。
まあポオの生涯を知りたくて購入した本ではあり、前半の「生涯」部は「そうだったのか」と思いながら読んだが、後半のポオの作品の「解題」はよろしくない。これはいつも書いている「感想」として書くべきだろうからここでは子細には書かないけれども、相当にガッカリした。
まずはポオの著作自体にガックリして、さらにその「解説書」でまたガックリか。
もう、エドガー・アラン・ポオのことはこれでいいかとは思って読んだ本だけれども、これでわたしがポオのことを忘れてしまうのもかわいそうに思い、もうちょっとマトモなポオの評伝を読んでみたくなってしまった。「深入り」である。
近辺の図書館の蔵書を検索し、改めて「ポオの評伝」、「ポオ論」といえる本が少ないことも確認した。その中から、しつっこくもまだ2~3冊は読んでみたくなってしまった。
しかしなぜ、わたしは(じっさいに読んでウンザリした)ポオに、ここまで惹かれるのだろうか。ひとつには、ポオの『アーサー・ゴードン・ピムの物語』があまりに強烈だったからだろうか。
今日から、仕事中の空いた時間に読む本(条件はポケットに入る文庫本)として、なぜか本棚にあったセバスチャン・ジャプリゾの『シンデレラの罠』などというのを読み始めた。「空前のトリック」による推理小説ということだが、読み始めて「語り手の女性が本当は誰なのか?」という作品だろうとは思った。まああまりに明白には思えるけれども。
夕方、玄関先に注文してあった今村夏子の新作『とんこつQ&A』が届いていた。『シンデレラの罠』は早くに読み終えるだろうから、すぐにもこの『とんこつQ&A』を読み始めたいが、いやいやその前に、まだ放置してある岡田利規の『ブロッコリー・レボリューション』を読むべきだろうか。
夜寝る前、先月読みさしでやめてしまっていた大岡昇平の『野火』を、また最初っから読み始めた。先月読んでいたときには気づかなかったが、再読しながら、この作品で作者の大岡昇平が注いでいる「熱量」は、途方もないものだと思った。それは作家が自分の「生」の全体験、全記憶をこの本のページの中に束めるというか、「生きている」ということを意識するというのはこういうことなのか、という思いがする。わたしには、とてもこのような「自分の生の総括」は出来ないなあ。
今日は「本」の話が多くなってしまった。とにかくは、「読書の秋」の、始まりなのだろうか。