ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『鑑識レコード俱楽部』マグナス・ミルズ:著 柴田元幸:訳

鑑識レコード倶楽部

鑑識レコード倶楽部

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 語り手(名前や年齢、職業などまるでわからないが、男ではあろう)は、ジェームズという男と、毎週月曜日の9時からなじみのパブの奥の部屋に集まって、持ち寄ったレコードを聴くというクラブをやろうと持ち掛けられ、同意する。参加者はそれぞれ3枚のレコードを持ち寄って、順番にかけて聴く。基本は「シングル盤」を持ち寄るのだろうか、アルバムを持って来るヤツもいた。
 基本、ただひたすら黙って音楽を聴くだけのクラブで、まあ歌詞を引用して語るぐらいはさいしょのうちは黙認されていたけれども、そのうちにそんな行為もジェームズは禁止する。
 そんな「鑑識レコード俱楽部」に反撥するように、同じパブで違う曜日に「告白レコード倶楽部」というのが始まり、つまりこっちはレコードを持って来てそれを聴き、自分のことを告白するのだろうか。こっちは女性を中心に多くの参加者が押し寄せ、公会堂に場所を移すことになる。
 一方「鑑識レコード俱楽部」の方でも、ジェームズの厳格な方針に反撥した連中が「認識レコード倶楽部」を立ち上げるのだ。
 まあそこに、そのパブを手伝うアリスという女性が過去に吹き込んだ「幻のレコード」、などというものが波乱を起こしたりもするのだが。

 わたしはこの小説、レコードという媒体から人々は何を読み取るのか、というような問題とも受け止め、それは例えばリクエストを受け付けるラジオのDJ番組などで、リクエストするリスナーはただリクエストするだけなのか、それとも、付随していろんな「リクエスト・メッセージ」を添えるのか、みたいなこととつながるように思いながら読んだ。
 例えば、「わたしはこの曲を聴いていたときこんなことをしていた」とか「この曲をきっかけにしてわたしは結婚した」とかいうメッセージがあれば、それはこの小説でいう「告白レコード倶楽部」に相当するものではないかとも思うし、「このミュージシャンの経歴はこういうものだ」とか、「この曲の間奏の部分にグッと来る!」なんてメッセージを添えれば、それが「認識レコード倶楽部」なのか、などとは思う。

 この小説の「訳者あとがき」で芝田元幸氏は、イギリスの「ガーディアン」紙に掲載されたトービー・リットの書評を紹介していて、彼は「この本はロシア革命宗教改革スンニ派シーア派の対立など、人間同士のさまざまな大きな不和の偽装として読める」と書いているらしい。また、作者のマグナス・ミルズは、「人が何らかの『私たち』を築くとたん、それに答えて『彼ら』が形成されること」を示唆しているのではないかという。

 わたしは読んでいてまさに、この本をマルティン・ルター以後の「宗教改革」のアナロジー的に受け止めながら読んでいたし、それは「レコード」という媒体から人は何を受けとめるかということで、大げさに言えばそれは「神」の解釈のようにも受けとめた(ついでに書いておけば、この小説の「語り手」である人物、小説の中では一種「教祖的」な存在のジェームズの下にいて、派生した「分派」の動きに右往左往している人物みたいだ。ただ「翻弄」されているだけの人物に思える)。

 この小説で好感が持てるのは、タイトルだけが示される60年代以降の音楽(基本はポピュラー音楽、ロック・ミュージックなのだが、クラシック音楽も登場する)に対しての「価値判断」をまったく行っていないことだろうか。ただし、著者はそういう60年代以降の音楽への広範な知識を持っていて、その知識をこの小説に活用しているわけだが、それはこの小説のメインの「鑑識レコード俱楽部」という立場よりは、分派である「認識レコード俱楽部」に近いモノではないだろうか。かく言うわたしも、20代の頃にはこういう、月にいちど集まって「ある種のジャンル」のレコードをかけて皆で聴く「同好会」のメンバーではあったのだけれども、そこではもちろん、そんなレコードへの「解説」をされる方がいて、それはまさに「認識レコード俱楽部」的なものだったのではなかったかと、今になって回想する。

 そういうことでひとこと書けば、わたしはそういう「鑑識レコード倶楽部」というコミュニティは、そもそも「個人」の中で完結する種類のものであり、複数の人間が集まってこういう行為をやるというのは、成り立たないのではないかと思っている。
 しかしさて、小説のラストで、「語り手」の身にはいったい何が起きたのだろうか? わたしはちょっと、「聴くにはいい曲だけれども、踊れないよね」と語る、サンドラという女性のことを思い浮かべたのだが。