- 作者: 今村夏子
- 出版社/メーカー: 書肆侃侃房
- 発売日: 2016/12/14
- メディア: Kindle版
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今村夏子の第二作で、この本は福岡の「書肆侃侃房」というところから刊行されている。不覚にも知らずにいた出版社で、「こういう地方の出版社ががんばっているのはうれしいことだな」と思ったりする。本に挟み込まれた「侃侃房だより」というしおりにはこの出版社の刊行物がいろいろと紹介されているのだが、さすがに福岡らしく山本作兵衛の本もあるし、短歌関係の本も多い。そして何より、ちょっと名の知れたムック「たべるのがおそい」を出していた会社こそ、この「書肆侃侃房」なのだった。「こういう地方の出版者にがんばってほしいものだな」と思うのだけれども、その「たべるのがおそい」は、今年春の第7号で終刊してしまったらしい。わたしは一冊も読んだことのないムックだけれども、残念なことである。
この今村夏子の『あひる』には3篇の中編~短編が収録されているが、表題作の「あひる」はその「たべるのがおそい」の第1号に掲載されたもので、残り2篇、「おばあちゃんの家」と「森の兄妹」とは書き下ろしということ。
この3篇は、どの作品も都会から離れた山里(といっていいんだろう)で暮らす子どもらが主人公。どの作品も「家族」の話といっていいのだろうけれども、その子どもらの住む世界、子どもらの見る世界は、常識に守られた日常をおくる大人たちの見る世界とは「ずれ」をみせている。そして、「おばあちゃんの家」と「森の兄妹」では、そんな子どもたちに近しい存在として「おばあちゃん」が登場するのだが、その「おばあちゃん」には、どこか「精霊」っぽいところがある。
表題作の「あひる」の語り手は「子ども」ではなく、これから医療系の資格を得ようとして勉強している女性なのだけれども、両親がニワトリのいなくなったニワトリ小屋であひるを飼うようになってから、近所の子どもらがあひるを見に来るようになる。そのあひるの具合が悪くなり、父が車で病院へ連れて行く。語り手の「わたし」は、二週間ほど経って父が連れ戻ったあひるは、前いたあひるとは違うのではないかと思う。またあひるの具合が悪くなり、また父が病院へ連れて行き、しばらくしてあひるは戻ってくる。しかしそのあひるは、明らかに前のあひるではないのだ。しかしあひるの名まえはいつも「のりたま」なのだ。
子どもたちは相変わらずあひるを見に集まってくる。そしてある真夜中、男の子が「あひるを見に来て家の鍵を置き忘れた」と訪ねてくる。
このあともいろいろあって、あひるは死んでしまうし、「大人」と「子どもたち」との差異(というのか?)もあらわになって小説は終わる。
読み方によっては、これは「幻想小説」という読み方もできるだろう。そもそもが、夜中に鍵を探しに訪れる男の子は、とうてい生身の人間とは思えない。まさに「精霊」ではないかという気がするが、そんな男の子を呼んだのはやはり「あひる」のなせる技だったのだろう。
今の21世紀の日本で、このような不可思議な文学作品を生み出せるというのはやはりとんでもない才能で、わたしはこの『あひる』もまた、『こちらあみ子』に匹敵する大傑作だと思うし、それはまた『むらさきのスカートの女』にしても、そのベクトルは異なっていても「大傑作」といいたい。