ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『服従』ミシェル・ウェルベック:著 大塚桃:訳

 いろいろと名まえを聞くことも多い「ミシェル・ウェルベック」の本を、初めて読んだ。この『服従』が刊行されたのは2015年で、あちらでは「シャルリー・エブドへのテロ事件」の当日に発売されたというのも話題になったらしい。

 これはある程度当時のフランスを取り込む状況を活かし、2022年という「近未来」のフランスを描いた作品というか。つまり、フランスは大統領選挙で極右の「国民戦線」のル・ペン(実在の人物だ)と勢力を伸ばしたイスラーム党党首とのどちらかを選ばなくてはならなくなり、「すわ、内戦?」という流血の事態も起きるのだが、けっきょくイスラーム党が勝ちフランスを支配することになる。
 そんな状況下で、この小説の主人公、語り手はソルボンヌ大学の准教授のフランソワという男。彼はあのユイスマンスの研究家で、その実績への評価は高いが、次のステップになかなか至らないと当人は思っているようだ。政治的な意識はあまり持ち合わせがない。40代になるが独身で、相性のいい恋人はいたのだが、ユダヤ人の彼女はイスラーム政権を怖れてイスラエルへ家族で亡命してしまう。まああれこれと、「出会い系サイト」とかで欲求は満たされている生活。いちどは教授を退職し、イスラーム資本で裕福になったフランスの恩恵を受け、多額の年金を受け取れる身分にはなる。しかし、新しく大学の学長になったムスリムの男ルディジェ(彼は文部大臣でもあるのだが)との会話から大学復帰への誘いを受ける。それは「イスラーム教への改宗」をも意味するのだが。同時期に彼はユイスマンス研究に新しい視点を見つけ、そのことを大学で研究することに魅力を感じるのだ。妻を複数人持てるというのもいいじゃないかと。改宗を決意したフランソワの小説最後の言葉は、「ぼくは何も後悔しないだろう」というもの。

 わたしも昔ちょっと、あの『さかしま』でよく知られたユイスマンスは読んだことがあり、デカダンスにおぼれたユイスマンスがその晩年に神妙なカトリック信者になったことも知ってはいた。そういうことで、ユイスマンスを研究するフランソワもまた、ユイスマンスをなぞるような「改宗」への道をたどる。
 そして、この小説で描かれるのは「どん詰まり」感の強い知識人の、「仮想未来」での選択肢なわけだけれども、それはつまり「イスラームでもいいじゃないか」みたいなものではある、とわたしは思った。
 フランソワの「改宗」へのかなめは、後半のルディジェとの対話にあるのだが、そこでルディジェは「イスラームの神こそ、この現世ですでに<完全>な存在なのだ」と語る。仏教の現世は<苦界>だし、キリスト教の現世は「悪魔との戦い」ではないかと。ここにフランソワのニーチェ観などが話されるが、けっきょくルディジェはなんと、ポーリーヌ・レアージュ(ドミニク・オーリー)の『O嬢の物語』への賛美を語り、つまり<完全>な存在である<神>への「服従」を語り、そこに「人間の絶対的な幸福」があるというわけだ。

 ‥‥それまでのフランソワとルディジェとの対話は興味深くもあったのだけれども、えええええっ!『O嬢の物語』ですか!という感じだ。これはとんでもない飛躍ではないかと思う。これはどんな話術で説き伏せられても、とても同意できるものではない気がする。
 わたしはさすがに『O嬢の物語』は読んでいないが、そのうたい文句が「奴隷状態における幸福」というものであったことは記憶している。
 納得しがたい。まるで納得しがたい。ムスリムの人は、イスラームの理念を『O嬢の物語』といっしょにされてどう思うのだろうか? これはかなりムチャなのではないのか?(わたしは、イスラームにはイスラームの良さはあるものとは思っているのだが、それはこの本に書かれているような事柄によってではない。)

 こういう<近未来を舞台にしたフィクション>ということでは、先日読み終えたばかりの阿部和重の『オーガ(ニ)ズム』を思い出すのだけれども、まあこうやって『服従』を読み終えたところでは、それは阿部和重の方が幾十倍も奥深くも面白かった、というしかないし、まあこれ以降ミシェル・ウェルベックという人の本は手に取らなくってもいいかな、とは思うのだった。