ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『M』(1931) フリッツ・ラング:監督

 「少女連続殺人事件」を描いた「名作」だけれども、わたしは初めて観た。わたしは単純に、犯行を重ねる犯人が追い詰められて逮捕される(破滅する)までを描いた作品かと思っていたけれども、じっさいのところは、それだけで収まる作品ではなかった。

 いろいろな「見どころ」のある映画なのだけれども、まずはドラマの背景になる、当時のベルリンの市街の描写がすばらしいと思った。
 犯人が追い詰められるオフィスビルの、高さも奥行きもあらわした演出はまさに「一級品」なのだけれども、わたしはそれよりも、人々(この場合は「幼い子」)の欲望を惹き付ける、街頭のウィンドウのディスプレイの描写、その根底にある「びっくり箱」のような描写の奥に、ひとつ通底する「解釈」を感じ取れるように思うのだった。
 その商店(主には「おもちゃ屋」?)のウィンドウ・ディスプレイは今観ても洗練されていて、それは当時のドイツの「美意識」の視覚化、という感想になる。
 第一次世界大戦後のドイツでは「表現主義」が起こり(この作品も「表現主義映画」と解釈される)、「バウハウス」の興隆もこの時期(一方で「ダダイズム」も起こるが、この映画にその影響をみるのはむずかしいか)。おそらく、この市街のディスプレイの背後にも、そういう1930年代ベルリンの「モダニズム」が読み取れる気がした。
 そういう一種の「モダニズム」に対立して、映画の終盤には「人民裁判(?)」の行われる廃工場も舞台となり、そういった映画の「背景」を観るだけでも史料的価値があるというか、楽しめる作品ではあった。

 ドラマとしては、一方で「連続殺人犯」(ピーター・ローレ)が少女を狙うサスペンスがあり、ここで犯人が歩きながら口笛を吹くというのが、犯人が画面にあらわれる前に「音」として犯人が近づいていることを知らしめ、観客に緊張を強いる演出というのも、ただ映像に頼るものではない「現代性」があると思ったし、一方で犯人を見つけた男が、自分の手のひらにチョークで「M」と描き、犯人の肩を叩いてマーキングするという演出も「お見事」で、そのあとは犯人が群衆の中にまぎれてしまっても、その後ろ姿のマーキングをみれば「ここに犯人が!」とわかるのだ。

 そして実はこの映画、警察が犯人を捕らえるのではなく、犯罪組織の連中や市民らが結託し、警察を出し抜いて(警官を捕えて縛り上げたりする)犯人を捕まえるのである。
 さらにそのあと、先に書いた「廃工場」の地下室に犯罪組織の連中や市民らが結集し、「市民裁判」みたいなことをやろうとするのである。いちおう被告席に犯人を座らせ、「弁護士」もつけるのだが、このあたりの「裁判」の経過の描写にはおどろかされるものがある。
 これは「ナチス」抬頭の当時のドイツの「空気」の再現なのか、ちょっと「ぶっ飛んでいる」というか、今げんざいの映画表現では成し得ないところではないかとも思ったが、考えてみたら、ちょうど先日読んだナボコフの1938年の『断頭台への招待』の空気感と似ている気がして、まあこの時期ナボコフはベルリンからパリに移っていたわけだけれども、1930年代のヨーロッパの空気として、共通して考えられるのではないかと思った。

 さてさて、わたしはこの映画を「Amazon Prime Video」で観たわけだけれども、この日本語字幕は「でたらめ」を通り越している。Amazonのレビューでも、誰もがみんなこの字幕の酷さを訴えているのだが、「Amazon Prime Video」は、そういうレビューを読んでいながらも対処しようとしないようだ。「Prime会員特典」で、追加料金なく、たいしたリスクなくして(Amazonの収入にならずに)観ることのできる作品だから「放置」なのか。
 多くのレビューは、これは中国による「自動翻訳」ではないかと書いているが、わたしはそうは思わない。これはもっと「悪意」があるというか、ぜったいに「自動翻訳」ではこのような結果は生まない。
 例えば女性のセリフに「~だ」という接尾語をつけながら、男性のセリフには「~ね」とか「~よ」とかつけるのは、「自動翻訳」ではなく、内容を把握したうえでやっているとしか思えない。唐突に「広辞苑」などという「ありえない」言葉が出て来たり、「絵文字」も登場する。
 「Amazon Prime Video」がいつまでもこの「字幕」を放置しているということを含め、「人をバカにしている」というのは、こういうことを言うのだろうと思うぞ。人の体調が悪いからと言って、バカにしてはいけないわよ。