ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2021-11-06(Sat)

 夜中にベッドで寝ているとき、ニェネントが細い声で「にゃあにゃあ」と啼きながら家の中(とりわけ、リヴィングの中)を彷徨していた。どうしたのだろう。これがもっと大きな声で啼いていると、おそらくは「精神の不安定さ」をあらわしていることになるだろうけれども、そういう「不安定さ」は感じられない。何か「ひとりごと」しながら歩き回ってる感じだ。いったいどんな「ひとりごと」をしゃべっているのだろうか?
 いいように考えると、わたしが寝てしまったので「つまらない」という気もちで彷徨してるのか、とも思う。どうなのだろうか?
 そのうちにいつものように、わたしの寝ているベッドに跳び乗ってきて、わたしの脇で丸くなってしまった。そのとき、ニェネントが寝ているのか起きているのかはわからない。わたしがニェネントに手を伸ばすとニェネントはベッドから跳び下りて逃げて行き、キャットタワーの上にあがってしまった。

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 土曜日は「何もしない日」だ。この数週間、こうやって土曜日は家にこもることがつづいている。今日は読んでいる『オーデュボン伝』を読み終えようとがんばり、夜には「あと30ページ!」というところまで到達したのだけれども、そこで睡魔に負けてしまった。明日には読み終えることだろう。

 前に書いたように、オーデュボンにハマって以来、「鳥」というものへの興味が大きくなった。毎週「ふるさと公園」で水鳥に出会うこともあるし。
 それで先日、鳥関係の書物を注文したのだけれども、今日、そのうちの一冊『鳥の生活』という本が届いた。

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 ‥‥意外とこれは難物というか、二段組みレイアウトで600ページ。わたしは寝る前の時間にちょっとずつ読もうかと思っていたのだが、だいたいわたしは寝る前の読書というのはせいぜい10ページぐらいしか進まない。ということは、読了まで早くて二ヶ月かかるということか。どうやら年を越しそうだ。
 パラパラと本をめくって、図版とかを見ていたら、「コアホウドリの親鳥がヒナに与えようと海から運んだプラスティックゴミ」の写真があった。

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 この本がアチラで刊行されたのは1993年ということで(この翻訳書の刊行は1997年)、この写真もほぼ30年前のものだろう。
 今でこそ「プラスティックゴミによる海洋汚染」のことは大きな問題になっているけれども、じっさい、こんな以前からこんな状態になっていたというのは、ちょっとした「おどろき」だった。
 この当時から「海洋汚染」のことを問題にした人たちはいて、だからこそこの本にもこういう写真が掲載されているのだろうけれども、多くの人はスルーしつづけてきた。

 先日も、グラスゴーでCOP26(国連気候変動枠組条約第26回締約国会議)が開催され、世界の温室効果ガスの新たな排出削減目標を定めようとしたわけだけれども、「排出削減対策がとられていない石炭火力発電所から移行する取り組みを、可能な限り2030年代までに行う」という声明を出した。この声明に40ヶ国あまりが賛同したけれども、日本やアメリカ、そして中国は含まれなかった。
 環境活動家のグレタ・トゥーンベリ氏は、「このCOP26は失敗」と、地球温暖化対策の強化を求めたわけだが、例によって日本のニュースサイトへのコメントではグレタ氏への冷笑・揶揄が連続し、そもそも「地球温暖化」ということはないという意見もあふれている。「すごいな」と思う。つまりこれはグレタ氏が若年であること、そして女性であることによるバッシングという要素が強いだろう。もしもグレタ氏が日本のヤクザの組長とかで、そんなバッシングに「あとで後悔するぞ!」と一喝すれば、だいたいみ~んな沈黙してしまうだろうに。

 わたしにはこの「地球温暖化」問題は、つまりは「プラスティックゴミ」問題と同じ根を持つもので、それは「人間は自分らのコンヴィニエンスを求めることで、<大きなひとつの生命体>であるこの<地球>の、その寿命を縮めていいのか?」ということになる。
 人類は今まで、その発展発達において、自らの<快適さ・便利さ>を求めて多くの発明を経てきたけれども、この21世紀になり、そんな人類の求めた<快適さ・便利さ>は、地球の大きな<自然>という宝を犠牲にしてきたと思う。
 もしも、人間が「叡智」というものを持ち合わせるのならば、その人類の、特に20世紀における「暴走」を今思い直し反省し、その進路を改めるべきだと思う。
 「お前だって、<電力>の恩恵を受けているではないか」という揶揄が聞こえてくる気がするが、これは今は「ひとりひとり」がどうするか、という問題ではなく、人類の叡智の総体としての進路決定なのであって、そこに冷笑や揶揄は無効であろう。ただ自分自らの<コンヴィニエンス>を捨てられず、「お前だってそうじゃないか?」と問うのは、「原始人」の論理である。