ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2020-12-09(Wed)

 わたしとニェネントくんとの共同生活で、やはり気になるのは「ニェネントはわたしの言葉をどこまでわかったりしているのだろう?」ということではあります。
 「ああ、わかってくれてるな」と思うのは、ニェネントくんの夕食の時間(基本は午後4時)になって、わたしのうしろにじっと座っているニェネントに、「そろそろごはんだね~!」とか、「あ!ごはんの時間だ!」とか話しかけてわたしが動くと、「にゃん!」とないて、その場で前足をそろえて前に伸ばして「う~ん!」って感じで「伸び」をしてネコ缶が出されるのを待つときなのだけれども、それはニェネントの「体内時計」で、「そろそろ<食事>の時間なんだけれどもな~」ということでわたしのそばで待機していて、それでわたしがからだを動かすことに反応して「おお! やっとごはんを出してくれるのだな!」と思っているだけなのかも知れず、わたしの発する「ごはん」という言葉に反応しているわけではないかもしれない。
 あとは「もうそろそろ寝ようか」というときなのだが、ニェネントにはわたしがベッドに入ることはひとつの「大きなお楽しみ」で、つまり「濃厚接触」できる時間が来るということなのだけれども、リヴィングにいたわたしが「そろそろ寝ようか!」と立ち上がると、このときもけっこう近い場所でゴロゴロしているニェネントはわたしに反応して、わたしよりも先に和室のベッドの方へ「ちゃっ、ちゃっ」と走って行ってしまうのである。このことも過大解釈すればわたしの「そろそろ寝ようか」という言葉を理解して反応している、と言えたりもするわけだけれども、まあ毎日の習慣で「コイツ、もうそろそろベッドに行く時間なんじゃないのかよ!」と時間的に待ち構えていたニェネントが、このときも「やおら立ち上がる」わたしの行動に、「おっ!ようやくベッドですね!」と、反応しているわけではないかと思う。
 「希望的観測」としては、ニェネントくんもわたしの言葉の一部を聞き取って理解してくれているのではないかと思いたいけれども、じっさいのところは「不明」なままではある。

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 今日は仕事の帰り、普段買い物に行く北のスーパーに寄り道、買い物して帰った。これからは出来るだけ、いちど帰宅してから買い物に出るのではなく、仕事の帰りにダイレクトに買い物をしてから帰ることにした。昼食の時間が遅くはなるけれども、ほんの少しでも「時間の節約」になるだろう。

 寒い。空はすっかり曇っていて、陽の光が恋しい思いがする。

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 報道で、スカ総理の支持率が大幅に下落し、自民党とかがあわてているという。しかしそれでも支持率は50パーセントを越えているわけで、わたしなどはそっちの方が「驚異」である。
 今の日本は、明らかに「COVID-19」の異常感染拡大下にあり、これを放置する内閣というのは信じられない。おそらくスカ首相の頭の中には「Go To キャンペーン」はあの「二階幹事長」の決定事項、実は二階の下僕のスカにとっては「至上命令」に等しいから、動かすわけにはいかないし、そもそも来夏の「オリンピック・パラリンピック」開催も動かすわけにはいかないわけだから、この「至上指令」の前で、たとえ日本国民がどんだけ犠牲になろうともやめるわけにはいかないのだろう。この思考法は、80年前に日本が「日中戦争」から「太平洋戦争」へと(無謀にも)突き進んでしまった時に酷似しているだろう。
 スカは数年前に、戦時下の沖縄の悲惨だった状況について、「戦後生まれなので沖縄の歴史はなかなか分からない」といみじくも述べたらしい。自分が生まれたあとのことだけ分かってればいいなどというのはまさに「非=<知>」の最たるものであり、このようなことを平然と言ってのける人物が存在することにおどろくしかない。ましてや、その発言の主は今の日本の「指導者」なのである。
 「日本学術会議」の問題といい、広くとらえれば「COVID-19禍」の問題といい、スカ首相の取る態度はみんな「非=<知>」ということに立脚した態度だと思う。そして、「非=<知>」とは何かといえば、これは日本ならば日本の「歴史」の否定なのだと思う。スカ首相はこと日本にとどまらず、「世界歴史」をも否定していることになる。これは「学ぶ」ということの否定でもあって、かつて麻生太郎が「ナチスにも学ぶべきところがあったのではないか」との発言(これは「犯罪」レベルである)とも通底するものであろうし、昨日書いたように「学問」=「科学」研究を見捨てるということにもつながるだろう。おそらく20年後には、日本は地球の「汚点」みたいなものでしかなくなるだろう。そして多くの日本国民は、そんな地球の「汚点」である日本という国に「忠誠」を誓うことになるだろう。
 わたしはおそらく20年後にはもうこの世にいないことだろうから(そうでもないか?)、「我が亡き後に洪水よ来たれ」という気もちもある。って、この言葉も、「非=<知>」の世の中では通じることもないのだ。
 
 さっき、わたしの大好きなミュージシャン・作曲家のHarold Buddの訃報にふれてしまった。彼もまた、COVID-19感染からの合併症で亡くなられたらしい。なんということだ。ただ悲しい。
 長い曲だけれども、今日は彼への追悼の気もちを込めて、この曲をリンクさせよう。タイトルが今になると悲しい。