ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ホドロフスキーの虹泥棒』(1990) アレハンドロ・ホドロフスキー:監督

 実はわたしは、ホドロフスキーの『エル・トポ』も『ホーリー・マウンテン』も観たという記憶がないので、ホドロフスキー監督についてどうこうと言うことは出来ない。そういう意味で、「知らない監督の知らない作品」を観るという気分で観た。
 ただ、主演の二人はオマー・シャリフオマル・シャリーフ)とピーター・オトゥールという二人であり、どうしても『アラビアのロレンス』のことを思い浮かべてしまう。しかし、ここでのオマル・シャリーフは思いがけないほどにコメディアン然とした演技を見せてくれて意外な思いがした。わたしはさいしょのうちは何度も、「これは本当にオマル・シャリーフだろうか?」と、自分の目をこすったりしたのだった(まあピーター・オトゥールはそのキャリアでけっこう喜劇的な作品にも出演しているのをみているので、そこまでに違和感はなかったが)。映画の中でのこの二人の対話で、「ラクダのノミにたかられてしまえ!」などという捨てゼリフもあり、「そりゃあ『アラビアのロレンス』を意識してのセリフだな」などとは思ったが。

 もうひとり、映画の冒頭には好き勝手やってる富豪としてクリストファー・リーも出てきて、彼があっという間に昏睡状態に陥ることから、その甥のピーター・オトゥールに彼の莫大な遺産が転がり込むのではないかと親族は心配する。それがイヤでピーター・オトゥール(メレアーグラという名だ)は愛犬のクロノスといっしょに身を隠す。彼が身を隠すのが、チンケなコソ泥のディマ(これがオマル・シャリーフ)が生活するロンドンみたいな大都会の地下水道である。
 5年の月日が過ぎ、クリストファー・リーの昏睡状態はまだつづいている。ディマもメレアーグラの話を聞き、「いずれ富豪が亡くなればオレもおこぼれを預かって<大金持ち>になれる」と期待している。メレアーグラの愛犬クロノスは地下水道で溺死し、メレアーグラはクロノスの死んだ毛皮をずっと手元に置いて愛玩している。こういう状況がずっとつづき、映画はその地下水道のある街のカーニヴァルのような「祭典」を延々と撮る。猥雑でエネルギーに満ちた「祭典」がつづく。そしてメレアーグラはメレアーグラで、地上に出ることはないのだがけっこう地下水道内で優雅にやっているのだ。
 そう、この映画はまさに、そういう「祭典」、「エピファニー」をこそ描こうとした作品なのだろうと思う。
 メレアーグラはずっと地下水道にこもりっきりだから、ディマとのからみ以外で映画に登場しては来ないけれども、ディマはそんな街の「祭典」「エピファニー」の中で、トリックスター的に大活躍をするのである(カフェの支配人だかで、イアン・デューリーも登場していたのがうれしい)。

 ついに富豪が亡くなったという新聞報道があるのだが、富豪の遺産はメレアーグラには来ないことがわかる。同時に街は「70年ぶり」という大豪雨、大洪水に見舞われ、地下水道には洪水が押し寄せるのだった。
 メレアーグラはディマに別れを告げて洪水の中に沈んで行くが、しかし、その洪水の中から生き返ったクロノスが泳ぎ出て来るのだった。ディマはクロノスと共に、雨もやんで虹の出た橋の向こうへと駆けて行く。

 演出として思ったのは、「切り返し」みたいなめんどうなことはやらず、「ワンシーンワンカット」ということではないが、ひとつのシーンはカメラ1台でやりくりしている。そのことがけっこう「継続性」ということを生み出しているだろうし、とりわけさいごの地下水道での洪水シーンは迫力があった(オマル・シャリーフピーター・オトゥールも、水浸しの中で熱演!)。というか、そんな「祝祭」のつづく地上の猥雑な街並み、そして迷路のように入り組んだ地下水道のセットと、けっこう豪華な撮影セットではあるし、それを上手に映画に活かしているのには感心してしまった。そんな中でやはり、地上の「祝祭的空間」と、地下の「メレアーグラのプライヴェート空間」との対比が効いていて、一本の映画としての世界観の提示は見事なものだと思った。わたしは好きな映画だ。