ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『地上から消えた動物』ロバート・シルヴァーバーグ:著 佐藤高子:訳

 動物学関係の書籍ということで、巻末の短かい解説も動物園の方が書かれていて、この著者のロバート・シルヴァーバーグという人物のことがよくわからない。それで検索してみたら主にSFの分野で著名な作家で、というか何でもかんでも書き散らし、その20代の10年間に450冊もの単行本を書いて「小説工場」とも呼ばれた人物だったらしい。基本はエンターテインメント作家なのだけれども、そんなときに書いた「遺跡発掘」に関してのノンフィクションが評判になり、歴史・考古学関係のノンフィクション作家としても一流ではないかとの評価を得ることになる。この本はそんな一環からの書物だろうけれども、動物学・文献学への著者の並々ならぬ知識を感じさせられる「良書」ではあると思う。単に「動物学」に明るいからといって、ここまでに要領よくまとめられた本を書けるものではない。
 ちょうど今、ヘルベルト・ヴェントという人の書いた『世界動物発見史』という本を並行して読み始めたところだけれども、人間というものが新しい動物を発見するということは、同時に、その動物を「滅亡」に追いやるという悲惨な歴史のはじまりなのである。たいていは新天地を求めて航海する航海者らがその過程にか「目標地」にかでそんな見知らぬ動物を発見し、まあ基本、とりあえずは殺して食べてみるわけだ。それでその肉が美味であれば獲りまくり、結果としてその種は滅亡してしまう。北洋の海に棲息した「ステラーカイギュウ」などはまさにその好例というか、その肉はすこぶる美味だったという。
 「絶滅動物」の代表格ともいえる「ドードー」はそんなに美味ではなかったというが、それまで天敵もなく飛ぶことのできなかった無防備なドードーを、人々は面白半分にも殺しまくったという。さらに、人が船といっしょに連れ込んだネコやネズミらもまた、その卵を食べ尽くしたりということがあったのだ。
 また、絶滅一歩手前で何とか滅亡を食い止められた「アメリカバイソン」などは、ただ先住民(インディアン)を壊滅させるために、彼らの大きな食糧源であったがためにただひたすら、殺りくされつづけたのだった。同じく「絶滅動物」として有名な「リョコウバト」も、ただハンターの腕試しの犠牲になった数は多い。とにかく他にも、北米はそれまでその地に棲んでいた動物たちへの「地獄」のような土地になってしまった。
 北米に限らず、このそんなに厚くない本で取り上げられた動物たちとは、ドードー、オーロックス、ステラーカイギュウ、オオウミガラス、クァッガ、リョコウバト、ヒース・ヘンなどであり、そういう西欧人が絶滅させた動物以外にも、ポリネシア人らが主に食用として絶滅させた動物としてモア、ロック鳥、オオナマケモノらも取り上げられている。これらの動物は西欧人が現地に行ったときには、すでに「幻の動物」になってしまっていた。

 これらの絶滅動物の「絶滅」への過程を読むことには、大きな悲しみがつきまとう。「どうして人々は、こんな悲しい行為をしでかしてしまったのか」と。
 かつて人々は、「動物の生態」などというものに興味もなく(だから、ドードーのはく製さえ残ってはいない)、そもそも人々にとって「古代の歴史」とは「聖書」に書かれていることであり、すべての現存する動物は、ノアの方舟によって「大洪水」から救済された動物なのである。このことは次の考え方として「絶滅」の否定ということに結びつき、たとえこの土地でそれらの動物が減少し、また姿を見なくなったとしても、この世界のどこかにはまだそういった動物は生存しているとの思考法になる。だから、殺したいだけ殺せばいいのだった。
 しかし、世界各地で、現存するどんな動物とも合致しない「化石」が発見されるようになると、「この骨は何の動物なのか?」という考えを導くことになる。さいしょは「ノアの方舟に乗せられなかった動物の骨だ」と考える人もいたが、「そうではない」ということから動物学、博物学というものが発展し、ナチュラリストらの研究がさかんになり、「動物の滅亡」ということがひとつの研究テーマにもなる。そのことは「現在」の世界でも進行中なのだということに、研究者は気づくことになる(そんな中で笑いたくても笑えないのは、「滅亡間近」という鳥類を「標本」にして博物館などに売るために、生き残りもわずかな鳥類を人々が捕獲しまくったという話)。

 この本の終わりの方に、著者は「われわれはなにをなすべきか」として、次のように書く。

 この惑星上で野生生物が生きのびる可能性は、ひとえに人間の良心的な努力にかかっている。他のあらゆる生物を絶滅へと駆り立てたわれわれは、残る生物を救うべく手段を講じなくてはいけない。さもなければ、われわれは、気がついた時には、われわれ以外にはなにもいない世界に住んでいることになるだろう。

 この本が書かれたのは1967年のことらしいが、世界全体の思考の潮流がそのような時代に向かっていた時代とはいえ、けっこう「先駆的」な意識のあらわれではあっただろう。よって、この本は書かれて50年を経た今でも、充分に「読まれるべき本」の地位を占めているのではないかと思う。わたしたちは今なお、ドードーの「悲劇」を知らなければならないだろう。
 というか、今は人類(特に日本人)の滅亡について考えなくてはならないだろうか。