ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『女嫌いのための小品集』パトリシア・ハイスミス:著 宮脇孝雄:訳

 字間を大きくとった大きめの文字で、それでも数ページからせいぜい十数ページの短編(掌編)が17編収録。読書時間はそんなにかからない。原題は「Little Tales of Misogyny」というもので、最近では一般にもよく聞かれるようになった「ミソジニー」ということばが出てくる。

 ミソジニーとは「女性嫌悪」、「女性蔑視」などと翻訳され、例えばかつての(主にアメリカの)ハードボイルド小説やその種の映画において、主人公が女性に示す侮蔑的態度などがよく例として持ち出される。これは男性側からのミソジニーで、性的暴力やセクハラ、女性差別などのかたちであらわれやすいだろう。男性中心社会では制度的にミソジニーが定着してもいて、フェミニストらの攻撃するところのものであろう。一方、女性の抱くミソジニー感覚というのもあり、その身体性、精神性への嫌悪感となり、一般には「女性であることを厭う」自己嫌悪、劣等感に近い感覚になるという。

 では女性であるパトリシア・ハイスミスが書くところの「ミソジニー」とはどのようなものだろうか? 上に書いた自己嫌悪や劣等感みたいなものがあるのだろうか? この本のタイトルには「of」misogynyとあり、「for」misogynyではないわけで、「世の女性蔑視者に向けて書かれた本」ではない。まさに「女性蔑視の本」なのだ。
 この短編集は1975年に刊行されたものだけれども、今までハイスミスの作品を読んできた限りで、けっこう「イヤな性格」の女性がひんぱんに登場してくる。『ふくろうの叫び』の主人公の元妻などは最高の悪役だったろうが、同じ『ふくろうの叫び』で自殺してしまうジェニーという女性も、思い込みがはげしくノーマルというわけではない。『水の墓碑銘』の妻も浮気性のとんでもない女性だし、『殺人者の烙印』の妻も身勝手すぎる女性ではあるだろう。『太陽がいっぱい』のマルジュは、映画ではさいごに主人公の恋人になるけれども、原作小説での主人公は(特に理由はなかったと思うが)彼女を嫌っている。ではハイスミス自身のなかの「ミソジニー」感覚とは何だろう?
 ハイスミスは、彼女の原作をかなり忠実に映画化して評判になった『キャロル』にみるように、現実の生活ではずっとレズビアンであったことが知られている。すると彼女の「ミソジニー」はそれほどに単純なものではないだろう。けっこうアンビバレント(両義的)なものなのか?
 ただ、そういうことを想像してみて、「同性の中に<理想的なパートナー>を求める」意識の裏側には、「こういう同性は願い下げだ」というチェック意識が大きくはたらいているのではないだろうか。
 そういう、「理想的なパートナー」から除外される同性のイヤなところ、そのチェック意識ではじかれるところのものが、ハイスミスの中の「ミソジニー」なのではないだろうか。

 この小品集を読むと、そういう彼女の意識がわかるような気もする。この作品集に登場する女性は、自分の魅力で男性を惑わせる女、ウソつきの女、『ふくろうの叫び』のジェニーのように思い込みの激しい女、芸術がわからないのに芸術家になろうとする女(これはハイスミスの長編に何人も登場する)などなど。たいていのヒロインは殺されたりして死んでしまうのだが、中にはただただ多産の女性なども出てきて、彼女は五つ子や三つ子を産んで、十年もせずに十七人の子どもを出産するのだ。これはハイスミスの妊娠~出産への嫌悪感のあらわれなのだろうか?
 一編、ちょっと毛色の異なる作品に『中流の主婦』という作品があり、ヒロインは大学を卒業した娘が近所の「ウーマンリブ」の集会(今でいえばフェミニストの集会と考えればいいだろうか)に参加するというので、「女性たちは何をそんなに大騒ぎしているのだろう」と興味を持ち、その集会に参加するのである。彼女の考えでは「女は最初から男を尻に敷いている」のだから、ウーマンリブの運動はバカバカしいとは思っている。それで集会に参加して議論のあまりのバカバカしさに熱くなり、自分も発言するのだが、それで大乱闘になって物の投げ合いになり、ヒロインは飛んできた豆の缶詰が頭に命中して、あっけなく絶命してしまうのである。
 ここではヒロインの考えにももちろん偏見というか誤謬もあるのだが、そのウーマンリブの集会での参加者の発言もまたおかしなもので、ハイスミスはそういう「ウーマンリブ」というものにも疑問を呈していることがよくわかる。このあたりに、「頑固な世捨て人」、「厭世家(ミザントロープ)」という印象もあるハイスミスという作家の、その真骨頂もあらわれているだろうと思うのだった。