ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『アメリカの友人』パトリシア・ハイスミス:著 佐宗鈴夫:訳

 パトリシア・ハイスミスの作品でもっとも有名なのは、ルネ・クレマンが監督しアラン・ドロンが主演した『太陽がいっぱい』にまちがいないと思う*1。わたしもこの映画でハイスミスの名前を知ったが、映画版ではアラン・ドロン扮するトム・リプリーの完全犯罪は破綻し、トムが逮捕されることを暗示するラストだったのだが、原作では完全犯罪は成就され、アメリカからひとりヨーロッパに渡った貧しい青年のトムは大きな富を手にしたのだった。
 ハイスミスが『太陽がいっぱい』を書いてから15年、映画化から10年の時を経て、ハイスミスはふたたびトム・リプリーを主人公に『贋作』を書き、その後は数年の間隔を置きながら、ハイスミスのキャリアで唯一のシリーズ物として、トム・リプリーを主人公とした作品を、合わせて5作書くことになる。この『アメリカの友人』は、『贋作』に続いて発表されたリプリーものの第3作。

 わたしも『太陽がいっぱい』は2、3度読み返し、けっこう記憶に残っている作品である。順番からいっても次は『贋作』を読みたかったのだが、手元に『贋作』はなく、次の『アメリカの友人』を読んだ。ちなみに書いておくと『太陽がいっぱい』の原作タイトルは“The Talented Mr. Ripley”だし、『アメリカの友人』は“Ripley's Game"である。これはそれぞれ、原作の翻訳よりも先に映画化されたものが日本で公開されていて、その映画版のタイトルをそのまま使ったもの。さらについでに書いておくと、『太陽がいっぱい』というタイトルは映画版のタイトルの“Plein Soleil”から来ているのだが、“Plein Soleil”の「太陽が照らす下」というのもすばらしいタイトルだけれども、多少は誤訳気味らしい『太陽がいっぱい』というタイトルもみごとなもので、この映画の大ヒットのひとつの要因になっていたと思う(おかげで、その後のルネ・クレマン監督/アラン・ドロン主演の作品に『危険がいっぱい』という邦題がつけられたりもする)。そんなもので、この映画の日本語吹き替え版では、そのラスト近くにアラン・ドロンに「太陽がいっぱいだ!」などと、<そんなこと言ってないよ!>というセリフを語らせたりもするのだった。

 前置き、余談が長くなった。『アメリカの友人』を読もう。この前の『贋作』を読んでいないからアレなのだけれども、リプリーは『贋作』で再び危ない橋を渡りながらもさらに財産をふやし、おまけにエロイーズという美しい女性と結婚し、パリ郊外の由緒ある館で優雅な暮らしをしているらしい。しかし、『太陽がいっぱい』、『贋作』での事件から、トム・リプリーという人物への<うわさ>というものはあるらしい。じっさい、彼は世界のダークサイドをのぞき込む人物であり、そんなダークな世界へのコミットはやめていないらしい。そのことこそが、このハイスミスの「リプリー」シリーズの<キモ>なのだろう。
 この『アメリカの友人』には、四つの大きなクライマックスがある。その発端に、あるパーティーでイギリスからフランスに来て額縁の商いをしているジョナサンという男に会ったとき、「(あなたの)噂は聞いています」と言われたことにカチンと来て、彼が<白血病>で長生き出来ないのではないかとの情報を得て、ひとつの<ゲーム>の中に彼を放り込むのである。ちなみに、ジョナサンにはカミーユという奥さんと、ジョルジュという5歳になる男の子とがあり、幸せな生活を送っている。

 クライマックス1。リプリーのサジェスチョンから「ジョナサンをイタリア・マフィアの<殺し屋>に出来るのではないか」と思ったリーヴスという男の誘いで、多額の報奨金を条件にジョナサンはマフィアの男を駅で射殺する。
 クライマックス2。リーヴスはジョナサンに、さらに2人のマフィアを列車内で殺害することを依頼する。前回よりもはるかに困難なミッションだがジョナサンはこれを引き受けることにしてその長距離列車に乗るのだが、ミッション実行というときにジョナサンの前にトムの姿があり(トムはこのミッションはジョナサンには無理だと思い、ジョナサンをリーヴスに推薦した責任も感じてジョナサンを助けようとしたのだ)、ジョナサンとトムのふたりでマフィアを始末する。しかし、マフィアのひとりは生き残り、ジョナサンかトムの顔を覚えているかもしれない。
 クライマックス3。やはり生き残ったマフィアはトムの顔を覚えていた。この件ではジョナサンの助けを借りるしかないと思ったトムは、家族や関係者を自宅住まいから外に出し、ジョナサンに来てもらう。襲ってきたふたりのマフィアをトムとジョナサンとで逆に殺害するが、ジョナサンの行動を不審に思っていた妻のカミーユリプリー邸にやって来て、マフィアの死体を目にする。
 クライマックス4。ジョナサンとカミーユの関係以外はとりあえずすべては安泰かと思われたが、リーヴスがマフィアに拉致され、ジョナサンのことを白状してしまう。マフィアはジョナサンの住まいを襲い、偶然ジョナサンの家に来ていたトムは再び、ジョナサンとともにマフィアと立ち向かうのだが。

 ‥‥<白血病>で余命いくばくもないと思っているジョナサンは、それほど裕福なわけでもなかったから、自分の死後に家族に幾ばくかの金を残してあげたいと「マフィア殺し」のミッションに乗ってしまうが、トムはゲーム感覚でジョナサンをミッションに巻き込んだことを後悔し、ジョナサンを助ける。ここに、トムとジョナサンとの<関係>が始まる。
 トム・リプリーの夫人のエロイーズは、自分の夫が「裏社会」にもコミットしていることを承知しているというか、夫がそういう世界にかかわることを見て見ぬフリをしているようなところがある。しかし、ジョナサンの夫人のカミーユはもちろんノーマルな人間で、自分の夫が「裏社会」にかかわることを認めるわけもない。この作品には常に、「トムとエロイーズの関係」、そして「ジョナサンとカミーユの関係」とが、対位法的に描かれていく。
 面白いのは、カミーユからの視点というのは、まさに「わたしの夫のジョナサンが<不倫している>」という視点だと読み取れることで、ここでまさにパトリシア・ハイスミスの<真骨頂>が書かれているというか、カミーユの視点から、ジョナサンとトムとの関係が<不倫>、<浮気>とみられていることこそが、大きなポイントだろうと思う。
 『太陽がいっぱい』でも、トム・リプリーとフィリップ・グリーンリーフとの関係の中に<同性愛>的な雰囲気がただよっているわけで、そのことを映画版でみごとに埋め込んだことが映画『太陽がいっぱい』の素晴らしいことだったりもすると思う。ここで、ハイスミスは、そんな『太陽がいっぱい』での空気感を、みごとにこの『アメリカの友人』で再現/深化させていると思う。それは、ジョナサンの妻のカミーユの視点の描き方のすばらしさであって、そのことは、この作品のラストでトム・リプリーとすれ違うカミーユの動作(しぐさ)からも読み取れるのである。

 パトリシア・ハイスミスの作品には、常にそういう世間一般の<モラル>から距離を置く視点があり、ハイスミス自身ももちろんそのことを承知していて、つまりネタバレしてしまえば「つばを吐かれる」という世界に生きていることを知っている。どうもどこかで、ハイスミスはトム・リプリーを自分の<分身>とみているのではないかと思う(ハイスミス自身も、『キャロル』で書かれたような同性愛者だった)。そういう、「わたしは<アウトサイダー>なのだ」という視点が、この「トム・リプリー」シリーズに活かされているということでは、この『アメリカの友人』はやはり<傑作>なのだと思うのだった。
 

*1:あと、ヒッチコックの『見知らぬ乗客』というのもありますが。