ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

「武蔵野」国木田独歩:著(筑摩書房「現代日本文學体系11」より)

 先に読んだ柄谷行人の「日本近代文学の起源」で、柄谷氏はその「風景の発見」ということで、この独歩の「武蔵野」を挙げていたわけだし、柄谷氏はさらに、日本の近代文学の発展において、当時の二葉亭四迷訳のツルゲーネフの「あひびき」の影響がいかに強かったかということを書かれていたのだけれども、こうやってその「武蔵野」を読んでみると、国木田独歩自身がダイレクトに、まさに二葉亭訳の「あひびき」によって、風景の「美」というものを教えられたということが書かれている。
 これはまさに、柄谷氏が書かれていたように、「花鳥風月」的な風景、「絵はがき」的な、類型的「風光明媚」の定文からの脱皮であり、江戸時代から継続された「美文調」リズムからの脱却だろうと思う。音楽的なところから大げさに言えば、1980年代までの旋律的な音楽が、90年代以降に「ノイズ音楽」という概念によってすべてをくつがえされた、そういう感じがあったのではないだろうか。
 この作品は終始「風景」のことばかりを書いているのだけれども、それを書いている国木田独歩自身は、すっかりその風景の中に入り込んでいる。ぜったいに「傍観者」ではなく、風景の中で「どっちへ行こうか」と迷ってみせたりし、「いや、迷ったっていいのだ」と語ってくれる。
 彼がそんな風景の中で頼りにするのは「視覚」だけではなく、「聴覚」、「触覚」など、全感覚をそんな「風景」の前に拡げるのである。今でもなお、「風景」に関して、これだけの文章を読むことは「稀」なことだろう。これは(あったりまえのことだが)「文学」が旅行会社のキャッチコピーなどとは別物だということでもあり、「文学作品」を読むという歓びを、読者に感じさせてくれるものだろう。今なお、この作品はひとつの「傑作」ではあると思える。