ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

「源おぢ」国木田独歩:著(筑摩書房「現代日本文學体系11」より)

 独歩の作品には、「名もなき市井の人々」へのシンパシー、というものがあるのだろう。そのことが、ひとつに今なお彼の作品が「読むに足るもの」という認識を、現代の読者に与えているところのものではないかと思う。「語り手」というか、このストーリーを伝えるものとして「都より来れる年若き教師」という存在のことが書かれるのだが、この教師という存在が作品の中でほとんど「無意味」な存在なのが面白いというか、独歩はまさに、この教師の存在に自分自身を重ねているのだろう。構造としては、この作品の舞台となる「佐伯」の地に赴任した教師が、聞き伝えたところの「源おぢ」の物語を伝えるという形式なのだろうが、どうやらこの語り手は、その地に夜中に散策したときに、その「源おぢ」ではないかと思える、翁の亡霊に遭遇しているようだ。
 この作品は明治三十年に発表された作品で、よくわからないが、この作品が「小説家」としての独歩の、さいしょに世に出た作品なのではないのだろうか(これ以前にも「詩作品」とか「随筆」らしきものは雑誌に発表しているようだが)。
 年譜的なことからその作家の作品を解釈することは、わたしとしてはあまりやりたくないことではあるけれども、この作品が書かれた明治三十年というのは、独歩が妻の信子に逃げられた翌年のことで、やはりどうしても、その「心の傷」を、この作品に読み取ってしまいたくなる。

 これは、不幸な男性の物語である。「渡船(おろし)」を生業(なりわい)とした「源」は、無口な男だったが、船をこぐときに唱う歌声は天下一品だった。その声に恋い惚れて来た美しい女性と結ばれて家庭を築くが、その妻は二度目のお産の産褥でみまかまり、先に遺された愛児も十二歳のときに水死する。絶望にひしがれた「源」は、その後集落に来た乞食の親子(母親と男児)の、母に見捨てられた男児に感情移入して「わが息子」としようとするのだが。
 やはりこれは、「報いられぬ愛」のストーリーとして、独歩の信子への<愛>の投影の姿と、どうしても読んでしまう。ただ、ここには、「名もなきままに忘れ去られる人々へのシンパシー」があり、まだまだ独歩の作品を読み始めたばかりとはいえ、こういう独歩の視線にこそ、今なお彼の作品が読み継がれるという<理由>があるのではないだろうか。そう思った。