ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『アメリカ、家族のいる風景』(2005) サム・シェパード:脚本・主演 ヴィム・ヴェンダース:監督

 原題は「Don't Come Knocking」で、「ノックしに来ないで!」って感じ。主人公の行動へ向けてのタイトルなのだろうか。
 主人公のハワード・スペンス(サム・シェパード)はかつて(1970年代?)西部劇で名を成したスターで、今もしがない西部劇の撮影をしているところ。しかし彼はユタ州の撮影セットからふいに逃亡し、30年ぶりに母親(エヴァ・マリー・セイント)のもと(ネバダ州エルコ)を訪れるのだった。主演俳優がとつぜん失踪して混乱した撮影現場では、警備会社のサター(ティム・ロス)がハワードの捜索にあたることになる。
 ハワードは母から、かつて交際して置き去りにしたドリーン(ジェシカ・ラング)という女性から、彼の子を身ごもったという連絡を受けていたことを聞かされ、事実なら自分の子どもに会うために、ドリーンの住むモンタナ州ビュートへ向かう。
 ビュートの町のレストラン/ラウンジで、ハワードはウェイトレスをやっていたドリーンと再会し、「オレの子どもは?」と聞くと、そのときパブで歌っていた男のアール(ゲイブリエル・マン)がそうだ、という。

 一方、町の火葬場で、火葬を終えたばかりの母の遺骨の骨壺を受け取ったスカイ(サラ・ポーリー)という若い女性が、ハワードの姿を見て以降、ハワードのあとをつけまわすのだった。スカイもハワードの子どもらしい。
 アールに会って「父親だ」と名乗り出たハワードに、アールは強い拒否感をあらわす。荒れたアールは、自分のアパートの窓からソファーやベッド、椅子、ギターやレコードなど、あらゆるものを道路に投げ捨てるのだった。一方、ハワードに接触しようとしたスカイはアールとも出会うのだった。アールの元にはガールフレンドのアンバー(フェアルザ・バルク)もやって来て、「お父さん、いい人なのかもしれないじゃないの」などと語っている。スカイはハワードに「この町で暮らせばいいじゃないの」と語る。
 そしてハワードはドリーンと会い、ドリーンに「やり直そう」とか語りかけるのだけれども、強烈に拒絶される。
 ついにはサターがハワードを見つけ出し、ロケ地に連れ戻すことになり、その前にハワードはアールとスカイに別れを告げに行く。アールにとって「父親」は「絶望」に結びつくものだったが、スカイは、ずっと父親のことを想いつづけていたことをハワードに語るのだった。

 う~ん、かつての西部劇スターがまた西部劇に出ていて、っていう設定の映画だったらば、クリント・イーストウッドの主演で観たかった気もするなあ(サム・シェパードがダメというわけではないけれども)。

 ちょっと終わりまで見て、ハワードがビュートの町にやって来て、「かつての彼女」だったドリーンに20年以上の時をおいて再会したとき、そのときにはドリーンが彼を拒絶するわけでもなく、「会えてよかったわ」と語ることで、「なんだ、ずいぶんとすんなりと受け入れられるんだな」とは思ったけれども、そのあとにはこっぴどく拒絶される。「ま、それが当然だろう」とか思うわけだが。
 一方、彼の子であるらしいスカイは彼と出会うことを夢見ていて、すっかり彼の存在を受け入れているし、「家族」として暮らすことも夢見ているみたいだ(ちょうど母親は亡くなったばかりだ)。しかしアールはハワードを受け入れず、「今になって何しに来た」という感じだ。
 この、ドリーンとアール、そしてスカイとのハワードへの気もちは類型的というか、観ていてさほど引き込まれるような展開ではないのは確か。そういうところに、この作品の評価が低い要因もあるようには思うが。

 でも、アールのガールフレンドのアンバーがアールへの緩衝材のような役を果たすというか、さいごにはスカイとアール、そしてアンバーとが3人いっしょに(ハワードにもらった)車でドライヴしているシーンには微笑んでしまうし、「この人、アメリカ人には見えないね?」というサターという人物が、映画の中で実にいい味付けになっていたと思う。さいごにハワードとの車の中でクロスワードをやりながら、「世界はイヤなところだ」などとひとりごちるなんて最高だ。
 ラストには撮影に復帰したハワードの撮影シーンがあるけれども、「あなた、そのセリフのせいでバックレようと思ったのかいな?」という相手女優とのセリフのやり取りもあるし、その別れのシーンでの馬上の「決めポーズ」にも、にっこりしてしまう。

 だいたい、あの『パリ、テキサス』で脚本をやったサム・シェパードとしては「おだやか」で、丸くなったなあとも思うのだけれども、それもこのときのパートナーだったジェシカ・ラングと共演していたせいかもしれない。
 

2024-04-21(Sun)

 以前、政府が「物価高騰対策」として「生活支援金」をこの4月から給付し始めるという報道が記憶にあり、「あれはどうなったのかな?」と思って、住んでいる地域の市役所とかを検索してみたのだが、どうも対象世帯には先月末に「申請書類」を送付しているらしい。「あれ? ウチには来ていないなあ」とは思ったが、わたしが前の仕事を辞めたのは2年前の10月のことだから、それまでの収入でみれば今回の給付対象にはならない、ということかもしれない。こういう場合どうなるのだろうか? 今のわたしはまさに「困窮世帯」だろうと思うのだが。
 とりあえず、市役所に問い合わせてみるしかない。今日は日曜日で役所もやってないから、明日になったら電話して聞いてみようと思う。ウチももちろん、「給付対象世帯」にはなると思うのだがなあ。

 ニェネントくんの猫草、リヴィングの出窓の上に置きっぱなしにしてあるのだけれども、ニェネントくんはちょくちょく出窓の上に跳び上がり、猫草をかじっているのだった。
 ニェネントくんが猫草をかじると猫草のケースごと動いて、「カタンカタン」という音が聞こえる。一日に何度も猫草をかじっている。こんなに「好物」というか欲しがるのだったら、もっと前から「猫草」を食べられるようにしてあげていればよかったな、と反省するのだった。

     

 この日も暖かい一日。わたしは外出しなかったが、一日半袖Tシャツで過ごした。電気ストーブも先週片付けてしまって、リヴィングが広くなった感じだけれども、もうすぐに扇風機の出番になるのだろうな。
 わたしには(最近の毎日のように)覇気のないダラダラとした一日になった。昼からも何もせず、ベッドに寝転んで本を読んでいたらばそのまま眠ってしまい、「予定外の昼寝」になってしまった。まあ一時間ぐらいの昼寝だったが。
 考えてみたら、昨日からとなり駅の映画館で『ストップ・メイキング・センス』も『落下の解剖学』も公開が始まっていて、どちらもわたしに好都合な早い時間からの上映だったので、どっちかを観に行けばよかったとは思うのだった。

 先日、黒沢清監督の新作『Chime』をどうやって観たらいいのかわからない、などと書いたのだが、今日検索すると、すでに「Roadstead」というプラットフォームのサイトができていて、そこを見ると作品の観方もわかったのだった。近いうちに観てみようと思う。
 今日はヴィム・ヴェンダース監督の『アメリカ、家族のいる風景』を観た。主演と脚本はサム・シェパードで、ヴェンダースとは『パリ、テキサス』以来30年ぶりのタッグ。
 う~ん、サム・シェパードも(ヴェンダースも)丸くなったなあ~、というところだけれども、わたしはこの作品けっこう好き(それは、わたしも丸くなったからだろうか)。

 さて、来週の日曜日は衆議院補欠選3ヶ所の投票日になるのだけれども、自民党は島根1区のみの立候補となり、これも立憲民主党に敗れそうで、3ヶ所すべての議席を失うことになりそう。一方、立憲民主党はすべてで議席を得ることになりそうで、そうなると党の勢いもつくことだろう。
 ただ、なんだか東京15区の選挙戦がいろいろと荒れているようで、これは候補者の政策がどうのこうのという問題でもない、ただ「応援演説の妨害」があちこちで起きているらしく、「なんやねん」という感じ。
 だいたいこの東京15区には9人が立候補してるんだけれども、「そんな党知らないよ」というような党(み~んな保守)からの立候補も多く、まさに「有象無象の衆」らがピョコピョコ頭を持ち上げている感じ。
 わたしが投票する選挙区ではないから「勝手にやってくれ」って気もするけれども、とにかく最近はわけのわからない保守政党が「ウンカが湧いて出る」ように大量発生してきている。当選する見込みもない連中が互いにケンカするというのも、外から見ていると面白いモノかもしれない。ま、どんどん互いに潰し合えばいいのではないか、とは思うが。
 

2024-04-20(Sat)

 今朝の「ウィークエンドサンシャイン」は、けっこう古い音源のオンエアーが多く、聴いていて楽しかった。しかしつまり、「わたしも歳をとったものだ」という感慨も生む。

 今日は「ふるさと公園」のそばのドラッグストアで買い物をしようと思って、「ふるさと公園」へと行った。また駅の方からの逆コースで。
 まずは駅前のスーパーへ立ち寄り、値引きされていた「冷やし中華」の生麺とか、インスタントコーヒーの瓶(このスーパーが他よりも圧倒的に安い!)とかバナナなどを買うが、レジの近くの特価コーナーに、ハインツの「スイートチリソース」なるものが「賞味期限が5月いっぱいなので」と、ひとつ68円(税抜き)で売られていて、「これはいろいろと使いでがありそうだ(とにかく安いからね)」と、いっしょに買った。
 この「スイートチリソース」、帰宅して検索してみたら、普通千円近い価格で売られている「高級品(?)」だった。これは「お買い得」だったな。次回(多分月曜日)に行ってまだ売られていたら、買い占めてしまおうか。

 このところよくネコに会う児童公園のそばの祠に、また先日出会ったネコに出会った。このコも美猫だけれども、まだ名まえをつけてはいなかった。う~ん、「美猫」なんだから、「ビビ」という名まえにしようか。うん、いい名まえだ。そうしよう。

     

     

 「ビビ」の写真を撮って通り過ぎようとしたら、そのすぐそばには「サビーネ」もいたのだった。また古い石碑の「お立ち台」の上にすわっていたのだった。

       

 この日の「ふるさと公園」は、またいつものコブハクチョウが巣ごもりしていて、そのそばではもう1羽のコブハクチョウがあたりを警戒していた。
 いっしゅん、その1羽も巣の上にあがって、2羽が巣の上でいっしょに並ぶ瞬間もあったのだけれども、写真は撮り損ねてしまった。

     

 帰宅して、買って帰った「冷やし中華」で昼食にした。もう「冷やし中華」でも違和感のない季節になったし、わたしもやはり、しばらくは「ダイエット生活」をしようかと思う。夕食は食パン1枚をトーストし、ゆで卵とマヨネーズをまぜたソースとハムを1枚トッピングしただけですませた。「マヨラー」のニェネントくんが寄ってきたが、あげないよ~!
 いちど、毎日「もやし炒め」だけのおかずとかでしばらく生活してみようか、などとも思った。おっと、今日「スイートチリソース」を買ったから、それを活かしたメニューをつくるべきか。

 ニュースで、「有名人なりすまし」の「投資勧誘広告」のことが問題になっているということだけれども、わたしも前からFacebookでそういう「広告」を目にしている。だいたい以前からFacebookには、「普通の投稿」と見せかけながら実は企業による投稿で、特定の商品を宣伝するようなモノがいっぱいある。
 こんなのは、その記事の下に書かれている「投稿者」のところに「広告」と書かれていたら、つまりは「広告」なのであって、それ以外の投稿とはぜんぜん違うのだ。そういう「なりすまし投稿」なんかも、ホンモノだったら、その投稿者欄にはその「有名人」の名前があってもよさそうなものだけれども、み~んな「広告」になっている。その時点でその投稿は「アウト」なのである。
 わたしは以前、興味があってそういう「有名人なりすまし投稿」に寄せられたコメントを読んでみたことがあるけれども、コメントを寄せていた人のほぼ全員が、元の投稿はその有名人当人によるものだと思い込んでいるようだった。「そりゃあいくらでもだまされるよな」と思ったものだったが、おそらくそういう、コメントを寄せたりじっさいに出資してだまされてしまう人って、たいていは「高齢者」なのではないかと思う(もちろん、もっと若い人でもだまされちゃう人はいるだろうけれども)。
 言っちゃ悪いが、年金とかもらって働く必要もなく、ウチでゴロゴロしている年配の人たち(わたしもか?)は、どうもいちにちじゅうネット・サーフィンやられているようで、それでそういう人たちははっきり言って「基礎知識・判断力」に問題があられるようだ。そういう人たちは一方で「ネトウヨ」になられ、一方で「ネット詐欺の被害者」になられるのではないのか。そして今のネット空間は、そんな高齢者が席捲してしまっておられる雰囲気がある。わたしはそう思う(このことはあらためて書きたいが)。
 

『左利きの女』(1978) ロビー・ミューラー:撮影 ペーター・ハントケ:脚本・監督

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 映画冒頭の、この作品レストア時に付加されたらしいテキストによると、この作品は1976年に発表されたぺーター・ハントケ自身の小説をもとにしており、1977年の3月から4月にかけ、フランスのパリ近郊のクラマールのハントケ自身の家を中心に撮影されたという。ペーター・ハントケにとっては1971年の「The Chronicle of Current Events」に続いて、彼2本目の長編映画だったということ。

 映画は郊外を走る列車→車窓風景→駅のホームを通り過ぎる列車→クラマールの街の風景→マリアンネ(エディット・クレヴァー)の家の外観→マリアンネと十歳ぐらいの息子のシュテファンのいる家の中、と移動していき、外から来た観客がマリアンネの家を訪れるような感覚になる。
 時は3月。マリアンネは、長く北欧に仕事で行っていて帰ってくる夫のブルーノ(ブルーノ・ガンツ)を迎えに空港へ行き、いっしょに車で帰ってくる。車内でブルーノは「長く一人でいて、かえって家族のきずなを強く感じた」と言い、「すると逆に、君なしでも生きられることを試したくなった」と言う。
 その夜、夫婦は街のホテルに宿泊し、翌朝帰宅するとき、そこで初めてマリアンネは口を開く。「啓示を受けたの。あなたがわたしをおいて行く。行ってちょうだい。わたしを一人にして」と。
 ブルーノはそこで「コーヒーを飲みに行く」と別れ、マリアンネとシュテファンだけの生活が始まる。マリアンネがシュテファンを学校に送って行くと、教師のフランチェスカはすでにブルーノからの電話で、マリアンネがブルーノと別れることを知っているのだった。フランチェスカとマリアンネは仲がいいようだ。シュテファンには仲がいいフィリップというクラスメートがいて、いつもマリアンネの前で悪ふざけをしている。
 マリアンネはむかしの仕事の縁で翻訳の仕事をやることになり、当時の上司(ベルンハルト・ヴィッキ)が家を訪ねてきたりする。ブルーノもまた、ちょくちょくマリアンネの家を訪ねてくる。フランチェスカはマリアンネにブルーノとの復縁をすすめるが、彼女自身も教師という仕事での悩みも抱えているようだ。フランチェスカはマリアンネの父に連絡を取り、マリアンネの父(ベルンハルト・ミネッティ)がマリアンネに会いに来る。マリアンネの服の破れを目にして、自分で繕ってあげるというユニーク(?)な人物。マリアンネは父と散歩に出かける。帰りに2人でスーパーマーケットに立ち寄り、そこで仕事がないという俳優(リュディガー・フォーグラー)と出会う。

 いつも、マリアンネがクラマールの街を徘徊する姿が印象に残る。そしていつも、列車が通り抜ける音が映画に響く。
 もちろん、ロビー・ミューラーの撮影がすばらしく、おそらくは監督のペーター・ハントケと場面ごとに綿密なディスカッションをしながら、撮影ロケーションを決定したのだろうと思う。風景を映しただけのショットがいっぱいある(もちろん、こういったことはどんな映画でもディスカッションされることだろうけれども)。

 シリアスといえばシリアスな作品だけれども、シュテファンとフィリップとの「おふざけ」もあるし、決して重たい作品ではないと思った。ネットではこの作品をシャンタル・アケルマンの作品と比する意見も見られたが、なるほど、わたしも「思いっきり女性(フェミニズム)映画」だとして、その意見に賛成する。というかわたしはこの作品が好きで、「心に残る作品」としてときどき観返してみたいものだと思っている。こうやってヴィム・ヴェンダース作品を観続けたおかげでこの作品にめぐり合い、とてもラッキーだったという気もちだ(こういっちゃなんだが、ヴィム・ヴェンダースの映画よりずっといいんじゃないか、と思ったのだった。わたしの琴線に触れた、というところだろうか)。

 さいしょの方で、マリアンネとブルーノが共に行ったホテルのレストランの給仕が「見たことのある人だな」と思ったら、いろんな名作に出演しているマイケル・ロンズデールだった。それからさいしょのクレジットで「友情出演:ジェラール・ドパルデュー」とあったが、彼は駅のホームの場面でベンチに座っているだけで、セリフもない、とても短い出演なのだった。
 

2024-04-19(Fri)

 今朝はいつもの朝ドラ「虎に翼」を見たあと、そのあとの「あさイチ」にゲストとして「東京スカパラダイスオーケストラ」全員が出演していてサープライズ!。それでたっぷりとスタジオライヴを演ってくれ、「こんなのを朝の9時前に聴いていいんだろうか?」という感じだ。実にうれしい朝になった。
 「虎に翼」も好調で、戦前のまだまだ虐げられていた女性らの挿話などを取り入れながら、それでもコミカル路線は捨てずに同時に「啓蒙ドラマ」という側面も残して面白いし、今の反動的空気の拡がるなかで、このドラマの意義は大きいかな?などと思うのだった。

 栽培している「猫草」がそれなりに成長してきた。日当たりのいいウチの出窓のところに置いて日光が当たるようにしてあるのだが、ニェネントくんもその出窓に上がって日光浴することも多い。今日「猫草」をのぞいてみると、どうやらニェネントくんのかじったらしいあとも見つけた。こうやって、いつでもニェネントくんの好きなときにかじれるようにしておくのがベストなんだろうと思った。

     

 ネットをみていると、黒沢清監督のセルフ・リメイク作品『蛇の道』のオフィシャルサイトができたようで、予告編が公開されていた。けっこう26年前のオリジナルのテイストが生かされているみたいだ。
 予告を見ると、主演の柴咲コウ(オリジナル版では哀川翔が演じた役なのだろう)がすばらしく感じられ、早く本編を観たくなってしまう。共演しているフランスのダミアン・ボナールという人、「見たことある俳優さんだな」と思ったら、先日観たドミニク・モル監督の『悪なき殺人』に出ていた人だった。『悪なき殺人』でも、ちょっと尋常ならざる人物を演じておられたので、どんな演技を見せて下さるのか楽しみだ(オリジナルでは香川照之が演じていた役どころだろう)。

 公開は6月14日ということで、「近くの映画館で上映してくれるといいなあ」と思ったら、なんと、となり駅の映画館でも、となり駅で乗り換えて行くシネコンでも、どちらでも上映されるようだ。こういうのは困ってしまうんだよな、というか、シネコンの方がスクリーンは大きいだろうけれども、わたしはとなり駅の映画館の方が贔屓(ひいき)だし。う~ん、どちらの映画館にも行くことにしようか。

 今年は黒沢清監督の新作がいっぱい観られる年のようで、『Chime』という作品と『Cloud クラウド』という作品と、この『蛇の道』の3本。『Cloud クラウド』は9月公開と決まっているようだけれども、『Chime』という作品が、どうやって観たらいいのかがよくわからない。「Roadstead」という新しい「プラットフォーム」から購入できるということなのだが、どういうことなのか? 前に確認しようとしたときは、まだその「Roadstead」というものがスタートしていなかったけれども、今はもうスタートしていることだろう。もう一度確認してみよう。

 この日は、ヴェンダース監督の作品ではないけれども、ヴェンダース監督の『ベルリン・天使の詩』や先日観た『まわり道』で脚本を担当していた、ペーター・ハントケが自ら監督をした作品『左利きの女』というのを観た(もちろん、脚本もペーター・ハントケ)。プロデュースはヴェンダースで、撮影監督はロビー・ミューラーだった。そのロビー・ミューラーの撮影が素晴らしかったし、わたしには面白い作品ではあった。いろいろと気にかかることもあったので、明日にでももう一度観てみたいと思う。
 

『ファンタスティック Mr.FOX』(2009) ロアルド・ダール:原作 ウェス・アンダーソン:監督

 原作はロアルド・ダールロアルド・ダールといえば『チャーリーとチョコレート工場』の原作者で、その奇妙な味わいの作品には日本でもファンが多い。この『ファンタスティック Mr.FOX』も、かつては田村隆一訳で出ていたし、今では柳瀬尚紀の訳で読めるようだ(「父さんギツネバンザイ」)。
 『チャーリーとチョコレート工場』といえば監督はティム・バートンが監督なのだけれど、ティム・バートンも『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』などのストップモーション・アニメーションを撮っていて、どうもその作家性とか考えても、このウェス・アンダーソンティム・バートンとの親和性、ということが気になったりもする。

 だいたいわたしは「なぜウェス・アンダーソンストップモーション・アニメーションを撮ろうとしたのか?」ということが気になっていて、それは前に彼の『犬ヶ島』を観てもよくわからなかったのだけれども、この日こうやって『ファンタスティック Mr.FOX』を観てみると、「なんとなく少し」わかった気がした。
 それはこうやってスタディオの中で町並みや風景を自分の思うとおりにつくれれば、いわゆる「ウェス・アンダーソン的世界」というものを自在に操れる、ということがあるだろう。それは例えば彼の「シンメトリー的風景」への偏愛であったり、邪魔モノもなくカメラの平行移動がやってのけられるということでもあるだろう。そう考えると、彼の最新作の『アステロイド・シティ』の舞台の「地上のどこにもない世界」というものも、ストップモーション・アニメーションの舞台背景の延長ではないか、と納得するのであった。
 それに、この『ファンタスティック Mr.FOX』の物語で描かれる、「家族」であるとか「その(ちょっと奇妙な)友だち」の世界というのも、ウェス・アンダーソンがよく描いてきた世界でもあったと思う。
 そして、ロアルド・ダールの原作にあるだろう、「単に子ども向け<童話>ではないだろう」という、ちょびっと奇妙で「アダルト」な物語というのも、ウェス・アンダーソン好みではあったのだろうか。

 この作品では「悪役」は人間で、そんな3人の「デブ、チビ、ヤセ」の経営する農園の養鶏場から、いかにしてキツネたちが鶏をかっさらうか、というお話である。「そりゃあキツネの方が悪いに決まってるだろ!」なのだが、キツネにも「生存権」があり、人間たちはそんなキツネたちの生存権をおびやかし、彼らの地上の棲み処を破壊し、キツネたちは地中奥深くに棲まざるを得なかったりもする。
 しかし、この映画ではキツネたち、その他の動物たちは擬人化されてしゃべったりするのだが、なぜか鶏たちはただただ、食べられてしまう存在ではあるし、養鶏場をガードする番犬も、ただの「犬」なのである。この「差異」はどこから来てるのかな?
 また、「りんご酒」倉庫の番をするネズミ(声はウィレム・デフォー)だけは強烈な悪役で、キツネたちを苦しめるのだけれども、この映画の中で唯一、このネズミだけが途中死んでしまうのであった。「誰も死んだりしない作品だろう」と思っていただけに、急なネズミの死にはおどろいてしまった。

 「ストップモーション・アニメーション」として、(先に書いたように)その背景となる風景、建物などは素晴らしいと思ったし、人間たちや多くの動物たちの完成度は高く(わたしはアナグマフクロネズミのファンだ)、いっぱい楽しめたのだけれども、正直言って、主人公らキツネ族は手足が長すぎてスマート過ぎないだろうか? 別にアナグマフクロネズミのような愛らしさを求めてはいないことはわかるのだが、その歩く姿など、マッチ棒が動いているみたいで、「これでいいのかな?」などとは思ってしまったのは確か。

 冒頭、いきなりビーチ・ボーイズの「Heroes and Villains」が流れたのには喜んでしまったし、ラストに皆がダンスに浮かれるシーンの音楽は、ボビー・フラー・フォーだったようだ。やはり、ウェス・アンダーソンの音楽の趣味もシブい。 
 

2024-04-18(Thu)

 昨夜遅くに、四国の西側の愛媛県高知県周辺で震度6弱地震が起きた。幸い大きな被害はなかったようだけれども、けっこう大きな地震が連続していて、心配になってしまうのは確かだ。

 今日は久しぶりに、東のスーパーに買い物に出かけた。東のスーパーはちょっと高いけれども、他では売っていないものも売られているし、お惣菜がおいしいと思う。そして魚とか生鮮食品の味もちよっと違う気がする。まあ「成城石井」だとか「クィーンズ伊勢丹」ほど高級なわけもないけれども、「たまにはおいしいものを食べたい、東のスーパーで買い物してみようか」という気になるし、何より「8」の付く日はほぼ全品5パーセント引きになるのだ(そうです。あのスーパーです)。だから、5パーセント引きになると、モノによっては北のスーパーなどよりも安くなったりもする。

 東のスーパーへの道の途中には、距離も短い桜並木があるのだけれども、さすがにこの日はもう、たいていの桜の花は散り切っていた。

     

 そのかわり、その先のマンション沿いの植え込みにはズラリとツツジが植えられていて、今はほぼ満開になっていた。この市にもあちこちに「ツツジ公園」があるようだけれども、ウチの近辺でツツジの花がたくさん見られるスポットは、実はこのマンションのそばがいちばんなのである。

     

 スーパー到着。まずは野菜売り場から巡回するけれども、このスーパーは飛び抜けて野菜が高い! 北のスーパーに比べても50円、駅前スーパーとなら100円ぐらい高いのである。とても買えません。
 それでもちょっと小ぶりのトマトが安かったのを買い、あとニェネントくん用に「サーモンの切り身」を買う。

 わざわざこのスーパーに来てみたけれども、たいして買いたいものもなく、あとは安いウィスキーを買って帰路に着いた。
 帰り道、犬を散歩に連れている人と何組もすれ違った。じっとわたしの顔を見て動かない犬にも出会ったけれども、そういうときに手を振ったりとか反応しない方がいいのだろうな。

 帰宅してしばらくして、ニェネントくんに「サーモン」をあげようと、和室にいるニェネントくんにキッチンから「ニェネントくん!」と声をかけると、もう声をかけると同時に、すっごい勢いですっ飛んで来た。まさに「秒速」。なんて速いんだ。
 サーモンの匂いもしたのかもしれないけれども、ちゃ~んと自分の名前のことをわかってるんだなあと思ったし、その「元気さ」に改めて惚れてしまった。まさに「元気があってよろしい!」という感じだ。
 ただ、ニェネントくんはまた右眼の上を掻きむしって傷つけてしまい、かさぶたが出来ている。動物病院へ連れて行っても抗生物質軟膏をくれるだけなので、様子をみて傷が自然治癒するのを待とうと思っていると、「治りそうだな」というときにまた同じところを掻きむしってしまい、出血してしまう。
 やっぱり動物病院へ行くべきかとも思うけれども、その前に「エリザベスカラー」をしばらく着けさせることを考えた方がいいだろうか。

 今日は夕方から、あまり長い映画を観る時間もないと思ったので、ウェス・アンダーソン監督のストップモーション・アニメーション作品『ファンタスティック Mr.FOX』を観た。先日観た『犬ヶ島』のように、単に「お子さま向け」というのではない作品で、その「斜め視線」を楽しんだ。

 今日の昼食は冷凍庫で眠っていた「しゅうまい」ですませ、夕食は昨日と同じく「トマトとブロッコリーの卵炒め」をつくったのだけれども、料理としては昨日の方がうまくいって、おいしかった。「同じにつくったのになぜだろう?」と思ったが、今日は買ったばかりのトマトを使った、というところが昨日とは異なっていた。そのせいだったのだろうか?

 寝る前は『死者と踊るリプリー』を読むのだが、今のテレビとかのトップニュースは、「栃木県の山林で全身が焼かれた男女の遺体が見つかった事件」のことばかりで、このニュースを知ると、読んでいるハイスミスリプリー・シリーズの『贋作』で、リプリーが山林で、自分の知る自殺した男を焼いて始末したこと(リプリーが彼を殺したのではないが)を思い出してしまうのであった。なんとなく「生々しい」事件だ。