ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『アメリカ、家族のいる風景』(2005) サム・シェパード:脚本・主演 ヴィム・ヴェンダース:監督

 原題は「Don't Come Knocking」で、「ノックしに来ないで!」って感じ。主人公の行動へ向けてのタイトルなのだろうか。
 主人公のハワード・スペンス(サム・シェパード)はかつて(1970年代?)西部劇で名を成したスターで、今もしがない西部劇の撮影をしているところ。しかし彼はユタ州の撮影セットからふいに逃亡し、30年ぶりに母親(エヴァ・マリー・セイント)のもと(ネバダ州エルコ)を訪れるのだった。主演俳優がとつぜん失踪して混乱した撮影現場では、警備会社のサター(ティム・ロス)がハワードの捜索にあたることになる。
 ハワードは母から、かつて交際して置き去りにしたドリーン(ジェシカ・ラング)という女性から、彼の子を身ごもったという連絡を受けていたことを聞かされ、事実なら自分の子どもに会うために、ドリーンの住むモンタナ州ビュートへ向かう。
 ビュートの町のレストラン/ラウンジで、ハワードはウェイトレスをやっていたドリーンと再会し、「オレの子どもは?」と聞くと、そのときパブで歌っていた男のアール(ゲイブリエル・マン)がそうだ、という。

 一方、町の火葬場で、火葬を終えたばかりの母の遺骨の骨壺を受け取ったスカイ(サラ・ポーリー)という若い女性が、ハワードの姿を見て以降、ハワードのあとをつけまわすのだった。スカイもハワードの子どもらしい。
 アールに会って「父親だ」と名乗り出たハワードに、アールは強い拒否感をあらわす。荒れたアールは、自分のアパートの窓からソファーやベッド、椅子、ギターやレコードなど、あらゆるものを道路に投げ捨てるのだった。一方、ハワードに接触しようとしたスカイはアールとも出会うのだった。アールの元にはガールフレンドのアンバー(フェアルザ・バルク)もやって来て、「お父さん、いい人なのかもしれないじゃないの」などと語っている。スカイはハワードに「この町で暮らせばいいじゃないの」と語る。
 そしてハワードはドリーンと会い、ドリーンに「やり直そう」とか語りかけるのだけれども、強烈に拒絶される。
 ついにはサターがハワードを見つけ出し、ロケ地に連れ戻すことになり、その前にハワードはアールとスカイに別れを告げに行く。アールにとって「父親」は「絶望」に結びつくものだったが、スカイは、ずっと父親のことを想いつづけていたことをハワードに語るのだった。

 う~ん、かつての西部劇スターがまた西部劇に出ていて、っていう設定の映画だったらば、クリント・イーストウッドの主演で観たかった気もするなあ(サム・シェパードがダメというわけではないけれども)。

 ちょっと終わりまで見て、ハワードがビュートの町にやって来て、「かつての彼女」だったドリーンに20年以上の時をおいて再会したとき、そのときにはドリーンが彼を拒絶するわけでもなく、「会えてよかったわ」と語ることで、「なんだ、ずいぶんとすんなりと受け入れられるんだな」とは思ったけれども、そのあとにはこっぴどく拒絶される。「ま、それが当然だろう」とか思うわけだが。
 一方、彼の子であるらしいスカイは彼と出会うことを夢見ていて、すっかり彼の存在を受け入れているし、「家族」として暮らすことも夢見ているみたいだ(ちょうど母親は亡くなったばかりだ)。しかしアールはハワードを受け入れず、「今になって何しに来た」という感じだ。
 この、ドリーンとアール、そしてスカイとのハワードへの気もちは類型的というか、観ていてさほど引き込まれるような展開ではないのは確か。そういうところに、この作品の評価が低い要因もあるようには思うが。

 でも、アールのガールフレンドのアンバーがアールへの緩衝材のような役を果たすというか、さいごにはスカイとアール、そしてアンバーとが3人いっしょに(ハワードにもらった)車でドライヴしているシーンには微笑んでしまうし、「この人、アメリカ人には見えないね?」というサターという人物が、映画の中で実にいい味付けになっていたと思う。さいごにハワードとの車の中でクロスワードをやりながら、「世界はイヤなところだ」などとひとりごちるなんて最高だ。
 ラストには撮影に復帰したハワードの撮影シーンがあるけれども、「あなた、そのセリフのせいでバックレようと思ったのかいな?」という相手女優とのセリフのやり取りもあるし、その別れのシーンでの馬上の「決めポーズ」にも、にっこりしてしまう。

 だいたい、あの『パリ、テキサス』で脚本をやったサム・シェパードとしては「おだやか」で、丸くなったなあとも思うのだけれども、それもこのときのパートナーだったジェシカ・ラングと共演していたせいかもしれない。