ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『怒りの河』(1952) アンソニー・マン:監督

 アンソニー・マン監督、ジェームズ・スチュアート主演の西部劇第2弾。この映画はビル・キュリックという人の小説「Bend of the River」をもとにしていて、「なるほど、類型的なハリウッド映画とは一味ちがうストーリーだな」とは思った。
 この作品でジェームズ・スチュアートに対する悪役のエマーソン・コールを演じているアーサー・ケネディはブロードウェイでも名声を博した舞台俳優でもあり、さまざまな著名な映画にも出演していた人。

 映画は開拓時代のアメリカ西部が舞台ではなく、ある程度土地の開拓も終わり、一般人の入植者が馬車を連ねて西部へ渡って行く時代のこと。宿場町はすでに整った町になっているし、川には蒸気連絡船も航行している。それでもそこは西部、まだネイティヴ・アメリカンの襲撃はあるし、無法者だって暗躍しているわけだ。

 主人公のグリン・マクリントックジェームズ・スチュアート)は、そんな西部のオレゴン州へ入植する幌馬車団のナヴィゲーター役ではあるが、どうも過去には無法者だったのではないかという男で、行く先々で彼の名を知っている人物がいたりする。
 そんなグリンが隊列を先導する道を探りに森に入ったとき、ある男が大勢から「縛り首」にされようとしているのを目にし、その男、エマーソン・コール(アーサー・ケネディ)を助け出し、以後共に行動するのである。
 いったいなんで、そんなワケアリの男を助けるのか、あとでヤバいことになるぜ、とは思うのだが、それはグリンも過去は「無法者」でワケアリだったからこそ、「コイツもオレみたいにやり直せるはずだ」と思っているらしいことがわかる。この時点で互いに相手の評判は耳にしていて知っているのだ。
 そのあとに一隊はネイティヴ・アメリカンのグループに遭遇し、グリンとエマーソンは協力して相手を倒すことから2人の絆が深まることになる。
 一方、入植者のリーダーのジェレミーはエマーソンを信用せず、「人間は悪から善には変われない」と思っているのだ。

 一行はオレゴンポートランドに到着し、そこから蒸気船で入植地へ向かうのだが、そのときに近くで金鉱が発見されていて、ゴールドラッシュが巻き起こり、人夫らを今までの賃金で雇うことが出来なくなるし、エマーソンは「オレは金の方がいい」とたもとを分かってしまう。しかしポートランドにいたトレイ・ウィルソン(ロック・ハドソン)というギャンブラーが入植者一行の仲間に加入する。
 入植者ら一行は目的地に到着するが、ポートランドで買い付けていた食糧がいつまで待っても到着せず、グリンとジェレミーとでポートランドへ行ってみる。そこではゴールドラッシュで物価が高騰していて、入植者の食糧も(代金支払い済みなのに)値が上がっていると、譲ろうとしない。グリンは密かにかなりの額を人夫に提示して、食糧を運び出させることに成功し、そのときポートランドにいたエマーソンもグリンに味方する。それを知ったポートランドの仕切り人らの追跡を受け、銃撃戦になるが、エマーソン、トレイの助けもあって彼らを撃退する。
 しかし、食糧を運んだ人夫たちは「もっと稼ぎを」と馬車の強奪をたくらみ、エマーソンもグリンを裏切って「強奪軍」側に着くのであった。

 ここでエマーソンはグリンを殺すことも出来たと思うのだが、「縛り首」になるところを助けられた恩なのか、グリンを放置する。グリンは「お前は毎晩俺の影に怯え、恐怖で眠れなくなる。必ず会いに行く」と語り、これがひとつ、この作品のキーとなるだろうか。
 ここから先、グリンの姿は見られないのだけれども、「強奪団」の連中はひとり、またひとりと倒されていく。そのうちにグリンの撃つライフルの銃声も聞こえ、また「強奪団」は減って行く。
 ここでのグリンはまるで「亡霊」のようなものというか、まさに彼の姿はないけれど、エマーソンは彼の影におびえることになる。
 ラストは銃による決戦ではなく、ボート上での殴り合い勝負となり、エマーソンは川へと沈んでいく。
 そこへ来たトレイがグリンにロープを投げてグリンを救出するのだが、そのときにグリンの首には「縛り首」にあった縄のあとがはっきり残っていたのだった。

 つまり、これまでジェームズ・スチュアートといえば「善」の代理人のような男を演じつづけてきたのだけれども、ここでは「善」に生まれ変わろうとする元「無法者」なわけで、自分と同じように「縛り首」にされようとしたエマーソンを見て、「コイツはオレと同じだ」と思ったわけだ。さにあらず。

 とにかくは、ここで新しい西部劇のヒーロー像を提示したのがこの『怒りの河』という感じで、単なる「善」の体現者であれば、「お前は毎晩俺の影に怯え、恐怖で眠れなくなる」などというセリフは出てこないのではないか。役者としても、演じる人間性の幅にも拡がりが出るわけで、ジェームズ・スチュアートもこれを歓迎したのではないだろうか。わたしはそう思う。

 作品としても、「無法者の跋扈した時代」ではなく、「新しい秩序」が生み出されるという時期のドラマということで興味深かったし、雪も残る草原を行く馬車の隊列、川を越える馬車などの撮影も迫力があり、引き込まれた(馬はたいへんだったことだろうが)。