ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2024-04-18(Thu)

 昨夜遅くに、四国の西側の愛媛県高知県周辺で震度6弱地震が起きた。幸い大きな被害はなかったようだけれども、けっこう大きな地震が連続していて、心配になってしまうのは確かだ。

 今日は久しぶりに、東のスーパーに買い物に出かけた。東のスーパーはちょっと高いけれども、他では売っていないものも売られているし、お惣菜がおいしいと思う。そして魚とか生鮮食品の味もちよっと違う気がする。まあ「成城石井」だとか「クィーンズ伊勢丹」ほど高級なわけもないけれども、「たまにはおいしいものを食べたい、東のスーパーで買い物してみようか」という気になるし、何より「8」の付く日はほぼ全品5パーセント引きになるのだ(そうです。あのスーパーです)。だから、5パーセント引きになると、モノによっては北のスーパーなどよりも安くなったりもする。

 東のスーパーへの道の途中には、距離も短い桜並木があるのだけれども、さすがにこの日はもう、たいていの桜の花は散り切っていた。

     

 そのかわり、その先のマンション沿いの植え込みにはズラリとツツジが植えられていて、今はほぼ満開になっていた。この市にもあちこちに「ツツジ公園」があるようだけれども、ウチの近辺でツツジの花がたくさん見られるスポットは、実はこのマンションのそばがいちばんなのである。

     

 スーパー到着。まずは野菜売り場から巡回するけれども、このスーパーは飛び抜けて野菜が高い! 北のスーパーに比べても50円、駅前スーパーとなら100円ぐらい高いのである。とても買えません。
 それでもちょっと小ぶりのトマトが安かったのを買い、あとニェネントくん用に「サーモンの切り身」を買う。

 わざわざこのスーパーに来てみたけれども、たいして買いたいものもなく、あとは安いウィスキーを買って帰路に着いた。
 帰り道、犬を散歩に連れている人と何組もすれ違った。じっとわたしの顔を見て動かない犬にも出会ったけれども、そういうときに手を振ったりとか反応しない方がいいのだろうな。

 帰宅してしばらくして、ニェネントくんに「サーモン」をあげようと、和室にいるニェネントくんにキッチンから「ニェネントくん!」と声をかけると、もう声をかけると同時に、すっごい勢いですっ飛んで来た。まさに「秒速」。なんて速いんだ。
 サーモンの匂いもしたのかもしれないけれども、ちゃ~んと自分の名前のことをわかってるんだなあと思ったし、その「元気さ」に改めて惚れてしまった。まさに「元気があってよろしい!」という感じだ。
 ただ、ニェネントくんはまた右眼の上を掻きむしって傷つけてしまい、かさぶたが出来ている。動物病院へ連れて行っても抗生物質軟膏をくれるだけなので、様子をみて傷が自然治癒するのを待とうと思っていると、「治りそうだな」というときにまた同じところを掻きむしってしまい、出血してしまう。
 やっぱり動物病院へ行くべきかとも思うけれども、その前に「エリザベスカラー」をしばらく着けさせることを考えた方がいいだろうか。

 今日は夕方から、あまり長い映画を観る時間もないと思ったので、ウェス・アンダーソン監督のストップモーション・アニメーション作品『ファンタスティック Mr.FOX』を観た。先日観た『犬ヶ島』のように、単に「お子さま向け」というのではない作品で、その「斜め視線」を楽しんだ。

 今日の昼食は冷凍庫で眠っていた「しゅうまい」ですませ、夕食は昨日と同じく「トマトとブロッコリーの卵炒め」をつくったのだけれども、料理としては昨日の方がうまくいって、おいしかった。「同じにつくったのになぜだろう?」と思ったが、今日は買ったばかりのトマトを使った、というところが昨日とは異なっていた。そのせいだったのだろうか?

 寝る前は『死者と踊るリプリー』を読むのだが、今のテレビとかのトップニュースは、「栃木県の山林で全身が焼かれた男女の遺体が見つかった事件」のことばかりで、このニュースを知ると、読んでいるハイスミスリプリー・シリーズの『贋作』で、リプリーが山林で、自分の知る自殺した男を焼いて始末したこと(リプリーが彼を殺したのではないが)を思い出してしまうのであった。なんとなく「生々しい」事件だ。
 

『まわり道』(1975) ペーター・ハントケ:脚本 ヴィム・ヴェンダース:監督

 映画の導入部で、川沿いの町をとらえる空撮撮影が素晴らしい。川はエルベ川で、町は主人公の住むという設定のグリュックシュタットという町らしい。
 冒頭、作家志望の主人公はトロッグスのレコードを聴きながら、拳で窓のガラスを殴りつけて割る。置いてあるレコードのいちばん手前にはキンクスのファーストアルバムがあり、相変わらず(というか、この頃から)ヴェンダースキンクスが好きなんだなあと思う(関係ないが、主人公のヴィルヘルムを演じるリュディガー・フォーグラーは、アニマルズのエリック・バードンに似ている気がした)。
 ガラスの割れた音を聞きつけてか主人公の母親がやって来て、「旅に出なさい」と言う。「店を売って、そのお金の半分をあげるから」と。これは、「もうあなたは自立しなさい」ということでもあるだろう。「自分を追いつめなさい。作家になろうと思ったら、ゆううつと不安感は失わない方がいい」などと語るが、印象として、「なんてモノのわかったお母さんだろう」とも思ってしまう。

 そしてこのとき、母親は旅立つ主人公に2冊の本を与える。フローベールの『感情教育』と、アイヒェンドルフの『のらくら者日記』である。
 わたしはどちらも読んだことはないのだが、どちらも主人公が旅をしていろいろな人と出会うというストーリーのようだ。
 この映画はゲーテの「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」を下敷きにしているということだけれども、この作品の主人公は演劇人を目指すものの、成果を上げられずに挫折するというストーリーのようで、たしかにこの『まわり道』に重なるようだけれども、主人公が旅に出て人々と出会って行くという展開は、先の2冊から借用したものではないかと思われる。

 主人公はボンへと列車で出発するが、映画の中でいっしょに旅をするのは女優のテレーズ(ハンナ・シグラ)、ハーモニカを吹いて物乞いして歩くラエルテス(ハンス・クリスチャン・ブレヒ)、その孫娘で祖父を手伝って大道芸をやるミニョン(ナスターシャ・キンスキー)、詩人を志すというベルンハルト・ランダウ(ペーター・カーン)の4人だが、彼らが立ち寄った屋敷の主人の男もまた、「旅の道連れ」と言えるのかもしれない(彼は自殺してしまうが)。

 映画のほとんどは、主人公と登場人物らとの会話(対話)で成り立っているが、その対話に「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」からの引用はなく、つまりはペーター・ハントケの「創作」ということだ。そうするとちょっと、『ベルリン・天使の詩』での人々のモノローグにつながるところもあるのだろうか。ただしかし、この作品では人々が「心を通い合わせる」という展開はない。主人公はテレーズとの交際を望むし、テレーズも主人公を避けるわけではないのだけれども、つまりは「うまく行かない」。主人公は元ナチだったラエルテスには嫌悪感を持つし、ミニョンは象徴的にも「口がきけない」のである。ベルンハルト・ランダウも去って行くし、さいごに主人公はテレーズともミニョンとも別れ、一人でドイツの南のツークシュピッツェ山へ行き、「つまりは一人で気ままに生きたかったのだ」と回顧するが、「僕は無意味なまわり道ばかりしているようだ」という言葉で映画は終わる。

 邦題は『まわり道』となっているが、原題の「Falsche Bewegung」とは「間違った動き」とでもいう意味で、英語タイトルは「The Wrong Move」である。
 つまり、何も生み出すことのなかった「空振り」の旅を描いた作品だと言ってもいいのだろうけれども、逆に「何も生産的な成果を生み出さなかった旅」の記録がゆえの「面白さ」というか、「興味深さ」があると思う。「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」もまた、その前半は特に主人公の「挫折」の描写がつづいていたらしいけれども、映画として、その「ネガティヴさ」の中に意味があり、そこにペーター・ハントケの脚本の価値があるように思えたし、それを映画として撮ったヴィム・ヴェンダースもまた、「よくやったな」というところはあったと思う。
 特に、主人公と同行人らが川を臨む山道を歩きながら会話を交わす、長い長い長回しの繰り返される場面の、まさに互いに「食い違う」という場面の特異さ。

 撮影はやはりロビー・ミューラーで、特にこの作品での撮影は見事で、美しいものがあったと思う。夜のシーンで思いっきり暗い画面で、もうほとんど何も見えないだろうという撮影も印象に残った。
 

2024-04-17(Wed)

 今日は暑くなった。東京では気温25℃を超えて「夏日」になったという。このあたりでも午後には室内にいてもかなり暑さを感じ、半袖Tシャツに着替えたりした。
 午前中に北のスーパーへ買い物に出かけたが、スーパーへの道沿いの大きな家の庭では、もうフジの花が咲いているのだった。桜が終わると思ったら間髪を入れずにすぐフジの花。春という季節は、なかなかにあわただしい。

     

 この夜も、ニェネントくんはキャットタワーのボックスで夜を過ごしたようだ。「ここがいい!」、「われ絶好のスポットを発見せり!」という気もちなのだろうか。
 そのキャットタワーのボックスなら寝ているわたしに近い距離だし、ひょっとしたらわたしのことも多少は見えてるのかもしれない。ニェネントくんはあれでもわたしのそばにいるのが大好きで、昼間もわたしのそばの椅子の上とか、わたしのうしろのクッションでまどろんでいることが多い。そういうのでは、そのキャットタワーのボックスは、ニェネントくんにとって「理想の寝どころ」なのかもしれない。その場所は、わたしにとってもうれしいスポットだ。

 わたしはこのところあまり外を歩くこともせず、つまり「運動不足」なことは否定できないことだと思うが、おかげで先週古いズボンを履こうとしたら、ウェストがきつすぎて締まらなかった。「えええっ!」と思ったのだが、じっさいにわたしの腹の肉はしっかりつまめるほどにダブついていたのだった。
 「これはいけない」と、それまで午前中に何度にも分けてパンだとかを食べていたのをやめたのだったが、効果が出たのは意外と早くって、今日にはズボンのベルトの穴もひとつ奥まで締めることができるようになっていた。腹の肉もつかめなくなっていたし、いい感じではある。「そんなに簡単にダイエットできるのか?」という思いもあるが、体重計があれば、もっと効率的に気をつかうこともできるのだろう。

 わたしがよく行くとなり駅の映画館の、5月上旬までの上映スケジュールが出ていた。観たい映画がけっこうあり、これからは毎週、映画を観に行かなくっちゃならないかもしれない。
 まずこの土曜日からは、ジョナサン・デミ監督がトーキング・ヘッズのコンサートを撮った名作『ストップ・メイキング・センス』が上映される。過去にレンタルヴィデオかなんかで自宅で観たことはあるけれども、スクリーンで観たことはない。ぜひ観たい。
 それから、一度別の映画館で観た映画だけれども、『落下の解剖学』も上映するというので、もう一度観たいなあとか思う。
 さらに、ベルギーのバス・ドゥヴォスという監督の作品も2作同時に上映される。これもちょっと観たいけれどもムリかもしれん。
 そのあとの週には、濱口竜介監督の『悪は存在しない』も始まる。観たい映画がいっぱいだな。

 今日は午後からヴィム・ヴェンダース監督、ペーター・ハントケ脚本の『まわり道』を観た。この映画は去年の3月に観ているのだけれども、もうどんな映画だったか思い出せないし、この日は「ペーター・ハントケの脚本」ということにも注目して観てみたのだった。

 夕食には、残っていたトマトとブロッコリーの消費ということで、「トマトとブロッコリーの卵炒め」をつくった。「何をつくろうか」というときによくつくる献立で、けっこうわたしの好きなヤツである。
 最近、「ブロッコリーの茎を食べるかどうか?」ということが少し話題になっているようだけれども、わたしは昔っからブロッコリーの茎も食べ、ブロッコリーを買うときは「茎の部分が大きいもの」と選んで買うぐらいだ。わたしはブロッコリーは「レンチン」ではなく、必ずゆでて下ごしらえするのだけれども、茎は固いので、先に長めにゆでて下ごしらえする。この日も、なかなかに美味な「トマトとブロッコリーの卵炒め」が出来た。

     

2024-04-16(Tue)

 ニェネントくんのキャットタワーには、下の方に丸い入口のついたネコの入れる「ボックス」がついていて、このキャットタワーを買ったときには、ニェネントくんがそのボックスを愛用してくれるものと期待したのだったけれども、ニェネントくんはいっこうにそのボックスに興味を示さず、まったく入ってくれないのだった。
 「好みじゃないんだったらしょうがないな」と、わたしもニェネントくんがそのボックスに入ってくれることも期待しなくなっていたのだけれども、これがとつぜん昨日の夜に、そのボックスの中に入ってずっとまどろんでいたのだった。「なんだ、ステキなスポットがあるじゃないか」と、今さらながらに気がついたのか、とにかくこのキャットタワーを買って6年目の快挙ではあった。
 「一日だけで終わってしまう可能性もあるな」と気にしていたのだけれども、この日もわたしがベッドに入ったあと、そのボックスに収まってくれたのであった。どう? 居心地がいいでしょう?

     

 今日も暖かい一日になったけれども、わたしは一歩も外に出なかった。この日は映画も観ないで、のんびりとした一日を過ごした。
 今は昼から、むかしの朝ドラ「ちゅらさん」の再放送をやっていて、けっこう見ているのだけれども、これが相当に面白い。さすが「名作」と言われた番組だなあとは思い、毎日の展開が楽しみ。今日は、帰って来た「兄い兄い」が妙なマスコット人形の「ゴーヤーマン」なるものを「これはぜったい売れる」と大量に発注するも、まったく売れないという展開で、見ながら大笑いしていた。
 「ちゅらさん」が終わると、朝の「虎に翼」の再放送で、こちらもけっこう面白い。ヒロイン役の伊藤沙莉という女優さんがいいのだけれども、前回の「ブギウギ」に続いての「達者なコメディエンヌ」という感じ。今はまずは戦前の時代、虐げられていた女性の問題を打破しようと、法曹の世界に飛び込もうとする女性たちの奮闘という展開。

 一方でこのところずっと、ネットでのニュースサイトが面白くない。特に「Yahoo!JAPAN」。上部に出ている「主なニュース記事」はまあいいとして、それより下に延々とつづく記事は「なんだこれ?」という感じである。今は大谷選手と水原(元)通訳の話題ばかりなのはしょうがないとはいえ、あまりに多すぎるだろう。
 あとは外国人旅行者へのインタビューでの「日本の食事がおいしい」とかいう記事も毎日のこと。こういう「日本すばらしい!」記事には、「バカバカしい」という気もちにならざるを得ない。それで今は少し減った感もあるけれども、「クルド人排斥」の記事。こういう「日本は素晴らしい」という記事と「クルド人(移民・難民)は排斥しよう」とは連動しているのではないかと思ってしまう。そういうニュースに付随しているコメント、いわゆる「ヤフコメ」というものはもう「読むに堪えない」ものばかりで、とにかくは情けなくなってしまう(今はそういうコメントを読んでも腹が立つばかりなので、読まないようにしているが)。

 こういう「ヤフコメ」の酷さというのは、今さら語るまでもないものだけれども、全体に共通しているのは「嫌韓」意識、そして自民党の政策に反対するものは「反日」として排斥する意識、そして「刑務所など刑事施設の目的は更生と社会復帰である」ということを無視して、何でもかんでも「死刑にしろ!」とわめくこと。これに今は「現状を見ずして<クルド人=犯罪者>」とするようなコメントにあふれているわけだ
 このような「ヤフコメ」を読んだ人の中には「そういうものなのか」と現実も知らずに思い込み、ヘイトクライムに走る人も現実にあったわけで、じっさいに犯罪に走らなくっても「ヤフコメ」や「X(旧ツイッター)」などにそのようなコメントを書き散らかして憂さを晴らしているような人は大勢いることだろう。

 そういうところから、どうもわたしは最近は「ヤフコメ」や「X(旧ツイッター)」などはつまりは「憎悪増幅装置」なのではないのか、と思うようになった(気づくのが遅いが)。
 そういう「ヤフコメ」や「X(旧ツイッター)」に書き込む人たちは「ネトウヨ」とも呼ばれ、保守的な思考に傾く人が多いと思うけれども、これは「左派」「リベラル」だろうという人であっても、「憎悪」をまき散らすということでは共通する人らも、けっこういると思う。

 「Yahoo!JAPAN」などは意識的に「ネトウヨ」のコメント(ヤフコメ)を求めて、そういうコメントの集まりそうなニュースを選んでいるフシがあるし、「ヘイト発言」に規制をかけない「X(旧ツイッター)」も罪深いだろう。
 いちばんいいのは、そういうネットに触れないようにしておくことだろうか。現実に先日、「SNSをやらない人の方が幸福感が高い」という調査結果を読んだばかりだ。わたしは積極的にSNSをやっているわけではないが、やはり今後気をつけようと思う。

 夜はパトリシア・ハイスミスの『死者と踊るリプリー』を読むが、今回はけっこう順調に読み進んでいる感じだ。珍しく主人公のトム・リプリーと夫人のエロイーズが一緒にいる場面が多く、けっこうエロイーズのファンであるわたしにはうれしい限りだ。
 

『東京画』(1985) ヴィム・ヴェンダース:監督

 1983年の春、ヴェンダースは『ベルリン・天使の詩』を撮る前にカメラマンと2人で来日し、主に東京でこのドキュメンタリーを撮ったらしい。ドキュメンタリーのオープニングとエンディングには小津安二郎監督の『東京物語』(1953)のフッテージを引用し、このドキュメンタリーをヴェンダース監督が敬愛する小津安二郎監督、『東京物語』へのオマージュとしたのだろうか。
 しかし、ヴェンダース監督が訪れた1983年の東京には、もう小津安二郎監督の見た「日本」、『東京物語』を思い起こされる「風景」は失せてしまっているようだった。
 ヴェンダースは東京へ向かう機内で「ただ目を開くだけ ただ見つめるだけ <あかし>など何も求めずに」映画が撮れたなら、と語っているが。

 ちょうど桜の季節だったのだろう。ヴェンダースはまず、桜の花の下で宴会を開く人々の姿を捉える。
 このときヴェンダースが見た東京は、パチンコ屋でありゴルフの練習に興ずる人々、そして原宿の若者たちであり、レストランの料理サンプルを作成する会社の取材であったりする。
 ヴェンダースは、「わたしにはあらかじめ東京のイメージ、東京への欲望があった」と認めている。「小津の映画によって、近さ、親密さを求めていた。だがわたしは、もはや存在しないものを探しに来たのかもしれない」と。
 ヴェンダースはテレビの画面を写しながら、「現実の東京には脅迫的な、時には非人間的な映像があふれているので、かえって小津映画に現れる神話的東京の優しく秩序ある映像がいっそう偉大で崇高に思われてくる。それはもはや存在しない」と語る。

 しかし、小津が『東京物語』を撮った1953年に、小津が覗いたカメラのファインダーの外側にどんな日本があったのか。
 パチンコ屋について見れば、Wikipediaによれば『東京物語』のつくられた1953年はパチンコの「第1期黄金時代」であり、国内には40万件近くのパチンコ屋があったという。ただ小津映画にはそれが写されることがなかっただけだ。
 ヴェンダースの言っていることは、まるであのコーエン兄弟の『ファーゴ』を観て、「スティーヴ・ブシェミが雪の中に埋めた大金は今も残っているはずだ」と思い込んでアメリカへ渡ったという、「都市伝説」の人物を思わせられるところがある。

 このあとヴェンダースは、東京タワーの展望台で同じドイツの映画監督、ヴェルナー・ヘルツォークと出会う。ここでヘルツォークの語るイメージ論が興味深い。
 ヘルツォークは「地上に残っている映像(イメージ)なんてほとんどない」と語り、「我々の文明の現況と我々の内面の最深部と、その両方に照応する映像が必要で、それが必要ならば宇宙にだって行かねばならない」と語る。しかしヴェンダースは、「わたしのイメージはこの地上の街の喧騒の中にあるのだ」と語る。
 ヴェンダースは別のところで、「目に見えるものこそが現実だ」とも語っている。そんな言葉を聞くと、なぜヴェンダースがこの時期、『時の翼にのって』や『夢の涯てまでも』のような作品を撮ってしまったのか、ちょっと解る気がしてしまった。わたしはヴェルナー・ヘルツォークの「イメージ論」に同意するところがあるし、はっきり言ってヴェンダースの考えは「素朴」すぎるのではないかとも思う。
 そして、あの『ベルリン・天使の詩』が成功したのは、脚本に「目に見えないものを信じる」ペーター・ハントケという人が協力していたからではないか、とも思った。
 そうするとそういう意識を持ってヴェンダースの『まわり道』を観たくなったし、今観ることのできるペーター・ハントケが監督した作品『左利きの女』も観てみたくなるのだった。
 

2024-04-15(Mon)

 いつもの月曜日のように、今日は「ふるさと公園」へと歩いた。この日は気温も上がり、軽く20℃を超える気温になるだろうと言っているので、薄い長袖Tシャツの上にシャツを羽織っただけで出かけた。午前中はそこまで気温も上がってなくて、ちょうどいい陽気だったと思う。
 今日は「ふるさと公園」の近くのドラッグストアで、ペーパータオルとかかさばるものを買う予定にしたので、また歩く順路を逆にして、駅の方から巡回した。

 駅へ行く道の神社の桜の木は、もうずいぶん散り始めていたとはいえ、まだまだ「花盛り」ではあった。ちょうどわたしが通りかかったときに風が吹いたのか、みごとな桜吹雪を見ることができた。それはとっても美しいものだった。

     

     

 駅前のスーパーで、めっちゃ安かった「冷やし中華」の生麺を買い、今は「野良ネコ通り」よりネコたちに出会うことの多くなった児童公園の方へまわってみた。
 児童公園に近づくと、ちょうど一匹のネコが道路を横断しているところだった。最近、こうやって「道路横断中」のネコの姿を見ることが多い。あれは「ノラ・ミャオ」だったかと思う。
 同時に、このところ「サビーネ」の姿を見かけることが多い小さな祠のところに、別のネコがいるのを見た。
 そばに寄ってみると、以前「ノラ・ミャオ」だろうと思ったネコがそこにいたけれども、さっき「ノラ・ミャオ」の姿を見たばかりだから、このコはまた別のコだ。つまり、このあたりには「ノラ・ミャオ」と「サビーネ」とこのコを合わせて、3匹のネコがいるわけだ。3匹とも、すこぶる「美猫」ではある。このコにも名前を付けてやらなければならないかと思った。

     

 今日の「ふるさと公園」は、鳥たちの姿も少なかった。いつもは何羽も姿を見るオオバンも、この日はほとんどその姿を見かけなかった。
 今の「ふるさと公園」で必ず出会えるのは、巣ごもり中のコブハクチョウだ。この日もしっかりと1羽が抱卵し、もう1羽が近辺のパトロールをしていた。
 そばの柵のところに「ルアー釣りをされる方へ」との掲示が貼られていて、「ハクチョウ抱卵中につき、驚かさないようご協力をお願いいたします」と書かれていた。

     

 一方で「コブハクチョウが数を増やすのは困ったものだ」という意見もあるところ、「卵を産んでしまったらしっかり見守ってあげよう」という考えなのだろう。はたして、今年は何羽の雛が孵化するのだろうか。

 「ふるさと公園」からの帰り道、手賀沼沿いの桜並木もそろそろ見ごろも終わるという感じだったけれども、この並木道は木によって開花状態にけっこう差があるようで、もうほとんど散ってしまっている木もあるし、「今こそ満開」という木もある。

     

     

 今週土曜日にもまた、「ふるさと公園」に来てみようという予定があるけれども、そのときにはもう桜の花は散り切ってしまっていることだろう。

 帰宅して、買った「冷やし中華」で昼食にして、そのあとまたヴェンダース監督の作品、この日はヴェンダースが日本で撮ったドキュメンタリー、『東京画』を観た。
 正直言って、このようなドキュメンタリーを撮ったヴィム・ヴェンダースには疑問もあるし、その疑問の延長上に『時の翼にのって』や『夢の涯てまでも』へのわたしの疑問もあるように思った。詳しくは別ページで。

 遅まきながら、先月(3月)の支出の内訳計算をやったが、1月、2月、3月と支出は減少してきている。今は4月。別に倹約しようとそこまでにケチケチ生活しているわけではないが、4月は3月よりもまた支出額は減るだろうという予測は立っている。今の生活に、個人的な不満はない(国政への不満はあるが)。
 

『夢の涯てまでも』(1991) ロビー・ミューラー:撮影 ヴィム・ヴェンダース:監督

 めっちゃ長い。287分である。観終わる頃には、この映画はどんな始まり方をしていたのかも忘れてしまっている。というか、登場人物らがヨーロッパ~アジア~アメリカ~オーストラリアと移動しまくる前半と、「夢の視覚データ化」~「脳内の映像データの抽出」を研究するという後半とがつながらない。
 そもそも、冒頭に語られた「インドの人工衛星」が制御不能になり、地上に落下しそうだ、それは「この世の終わり」になるかもしれない、ということも、いっしゅんデジタルデータ送信がストップしてしまっただけで、すぐに復旧してしまって「ありゃあ何だったんだ」ということになる。
 「ありゃあ何だったんだ」ということなら、さいしょに銀行強盗で大金をせしめた2人組にしても、いつの間にか自分らが手にした「大金」のことなどど~でもよくなってしまっているし、その銀行強盗の一人にせよ、ドイツの探偵にせよ、何でまたオーストラリアまでいっしょに来てしまうのか、わけがわからない。
 まあヴェンダース監督は次の『時の翼にのって』でも、「あのナチスの<武器弾薬>はどうなってしまったのよ?」とか、いろいろつじつまの合わない(不明な)映画をつくっているし、「そういうストーリーなんて、完成された一本の映画の前では意味のないものだ」とでも思っているのかもしれない。
 たしかに、『時の翼にのって』もそういうことを気にしなければけっこう面白い映画だったと思うし、この『夢の涯てまでも』だって、後半のオーストラリアの<研究所>の展開を重く見ずに、前半だけならなかなか楽しい映画だったといえると思う。
 特に前半は、ロビー・ミューラーの撮影がとっても素晴らしいわけで、そんな画面の美しさを眺めているだけでも満足できる。

 いちおう、1991年製作の映画だけれども、映画の時制は「1999年」と、ちょっとばかり「近未来SF」的にもなっているわけで、探偵が使っている「GPS」みたいな「人物探索装置」みたいなのとか、楽しいといえば楽しい。
 しかし、ヴェンダース監督はここでは(整合性は取れていないにしても)ストーリーをこそ重視して演出しているようで、だからこそ「ストーリーがつながらないぜ!」という感想を生むことになっているのではないのか。これが前作の『ベルリン・天使の詩』では、ストーリーよりも映像展開の醸し出すポエジーのようなものこそを大事にしていたようで、だからこそ『ベルリン・天使の詩』は傑作ではないか、という感想をも生み出したように思う。
 それがこの『夢の涯てまでも』では、特にまさにSF的な展開になる後半の「映像伝達」で、ストーリーを大事にするSF映画的になってしまっていて、そこにこれまでのヴェンダース映画との「差異」があるのではなかっただろうか。
 まあストーリーを離れても、「映像伝達」で、(NHKが協力したらしい)脳内映像を描く「コンピュータ・グラフィック」に力を入れたわけなのだろうが、まさに「技術に溺れた」ところがあったのではないのか。例えばここで、キューブリックの『2001年宇宙の旅』での「スターゲイト」の場面のような、「まだ誰も観たことのないようなヴィジョン」を描けていれば、この作品全体の印象もずいぶん変わったのではないかとは思う
 今、ここまで書いていて思いついたのだけれども(すいません、まだ観たばかりなので考えがまとまってなかった)、ヴェンダース監督はこの作品で、『2001年宇宙の旅』が「外宇宙」を描いたのなら、その「内宇宙」版をつくろうとしたのではないだろうか(そこで「インドの人工衛星」の話も活きてきたのかもしれないし、ラストシーンが「宇宙船内」だった意味もある)。だからこそ、脳内映像を描く「コンピュータ・グラフィック」がパワー不足だったのではないかと思ってしまう。パワー不足というか、そこにヴェンダースキューブリックとの「イマジネーション」の差異があったのでは、とは思ってしまう。
 盲目の母のために見せる(体験させる)映像の中に、「窓からの光、青いターバン、黄色の服の人物」という、フェルメールのエッセンスを詰め込んだシーンがあったけれども、そのシーンは美しかった。

 出演者の中に、次作『時の翼にのって』と同じヴィンター(英語読みでウィンター)という探偵を、同じリュディガー・フォーグラーが演じたわけだけれども、彼こそはこの『夢の涯てまでも』と『時の翼にのって』とをリンクさせる、「特別の存在」だったのではないかと思うようになった。

 そう、去年の暮れにヴェンダース監督の『PERFECT DAYS』を観たとき、キンクスの曲で「Sunny Afternoon」がかかったのを聴いて、わたしはキンクスならばここは「Days」をかけるべきだろうと思ったのだったが、そのキンクスの「Days」、この『夢の涯てまでも』でしっかり使われていて、皆のセレブレーションのときに皆で演奏、歌唱していたのだった。やっぱヴェンダースキンクスが好きなんだなあ。