ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『東京画』(1985) ヴィム・ヴェンダース:監督

 1983年の春、ヴェンダースは『ベルリン・天使の詩』を撮る前にカメラマンと2人で来日し、主に東京でこのドキュメンタリーを撮ったらしい。ドキュメンタリーのオープニングとエンディングには小津安二郎監督の『東京物語』(1953)のフッテージを引用し、このドキュメンタリーをヴェンダース監督が敬愛する小津安二郎監督、『東京物語』へのオマージュとしたのだろうか。
 しかし、ヴェンダース監督が訪れた1983年の東京には、もう小津安二郎監督の見た「日本」、『東京物語』を思い起こされる「風景」は失せてしまっているようだった。
 ヴェンダースは東京へ向かう機内で「ただ目を開くだけ ただ見つめるだけ <あかし>など何も求めずに」映画が撮れたなら、と語っているが。

 ちょうど桜の季節だったのだろう。ヴェンダースはまず、桜の花の下で宴会を開く人々の姿を捉える。
 このときヴェンダースが見た東京は、パチンコ屋でありゴルフの練習に興ずる人々、そして原宿の若者たちであり、レストランの料理サンプルを作成する会社の取材であったりする。
 ヴェンダースは、「わたしにはあらかじめ東京のイメージ、東京への欲望があった」と認めている。「小津の映画によって、近さ、親密さを求めていた。だがわたしは、もはや存在しないものを探しに来たのかもしれない」と。
 ヴェンダースはテレビの画面を写しながら、「現実の東京には脅迫的な、時には非人間的な映像があふれているので、かえって小津映画に現れる神話的東京の優しく秩序ある映像がいっそう偉大で崇高に思われてくる。それはもはや存在しない」と語る。

 しかし、小津が『東京物語』を撮った1953年に、小津が覗いたカメラのファインダーの外側にどんな日本があったのか。
 パチンコ屋について見れば、Wikipediaによれば『東京物語』のつくられた1953年はパチンコの「第1期黄金時代」であり、国内には40万件近くのパチンコ屋があったという。ただ小津映画にはそれが写されることがなかっただけだ。
 ヴェンダースの言っていることは、まるであのコーエン兄弟の『ファーゴ』を観て、「スティーヴ・ブシェミが雪の中に埋めた大金は今も残っているはずだ」と思い込んでアメリカへ渡ったという、「都市伝説」の人物を思わせられるところがある。

 このあとヴェンダースは、東京タワーの展望台で同じドイツの映画監督、ヴェルナー・ヘルツォークと出会う。ここでヘルツォークの語るイメージ論が興味深い。
 ヘルツォークは「地上に残っている映像(イメージ)なんてほとんどない」と語り、「我々の文明の現況と我々の内面の最深部と、その両方に照応する映像が必要で、それが必要ならば宇宙にだって行かねばならない」と語る。しかしヴェンダースは、「わたしのイメージはこの地上の街の喧騒の中にあるのだ」と語る。
 ヴェンダースは別のところで、「目に見えるものこそが現実だ」とも語っている。そんな言葉を聞くと、なぜヴェンダースがこの時期、『時の翼にのって』や『夢の涯てまでも』のような作品を撮ってしまったのか、ちょっと解る気がしてしまった。わたしはヴェルナー・ヘルツォークの「イメージ論」に同意するところがあるし、はっきり言ってヴェンダースの考えは「素朴」すぎるのではないかとも思う。
 そして、あの『ベルリン・天使の詩』が成功したのは、脚本に「目に見えないものを信じる」ペーター・ハントケという人が協力していたからではないか、とも思った。
 そうするとそういう意識を持ってヴェンダースの『まわり道』を観たくなったし、今観ることのできるペーター・ハントケが監督した作品『左利きの女』も観てみたくなるのだった。