ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『シェイプ・オブ・ウォーター』(2017) ギレルモ・デル・トロ:原案・監督

 むかし映画館で観て「いい映画だなあ」と思っていたはずの作品だけれども、例によってわたしの記憶障害のため、ラストシーンをわずかに記憶するだけの映画になってしまっていた。だから6~7年ぶりに観た作品だけれども、ストーリー展開などほとんど記憶してはいなかった。

 作品は1960年代のアメリカを舞台として、当時(1954年)製作の『大アマゾンの半魚人』という映画のリメイク的なスタンスである。
 主人公のイライザ(サリー・ホーキング)は幼少期ののどの傷のためしゃべることが出来ないのだが、今は政府の機密研究機関で仲の良いゼルダオクタヴィア・スペンサー)と共に清掃員として働いている。彼女は映画館の上のアパートで独り暮らししているが、隣人の売れないイラストレイター(実はゲイ)のジャイルズ(リチャード・ジェンキンズ)とも親しくしている。
 あるとき、研究室に秘密裏にアマゾン奥地から「半魚人」が運ばれてくる。研究担当はストリックランド(マイケル・シャノン)とホフステトラー博士(マイケル・スタールバーグ)だが、ストリックランドは半魚人の「生体解剖」を目論んでいるし、ホフステトラー博士は実はソヴィエトのスパイである。
 半魚人の存在を知ったイライザは、手話で半魚人とコミュニケーションを取るようになるし、「生体解剖」の計画を知り、何とか半魚人を助けようと思うのだ。
 ここでイライザの同僚のゼルダ、イライザの話を聞いたジャイルズ、とにかく研究機関から半魚人のデータを盗もうとするホフステトラー博士らの助けを得て、イライザは半魚人を研究室から救い出し、アパートの自室のバスタブに彼をかくまうのだ。そしてイライザは彼を愛するようになる。
 盗まれた半魚人を探すストリックランドは、ついにはイライザが半魚人をかくまい、今まさに運河の水門から半魚人を海に逃がそうとしていることを突きとめ、海辺でイライザと半魚人に銃を向けるのではあった。

 まさに「ファンタジー」で、画面の世界とその色合いとが、よく設計されたアニメーションの世界みたいだ。
 全体に色彩が青と緑とに覆われ、それは映画の中で「ティール」という色なのだと説明されるけれども、イライザと半魚人とがまず水中で抱き合うとき、その色彩がその青と緑との美しい混色の世界だった。

 主人公のイライザは「しゃべれない」ということでマイノリティーのひとりなのだが、同僚のゼルダもアフリカ系。この映画の時代が1962年だということで、まさにマイノリティーだし、ジャイルズもまたゲイということでマイノリティーではあるだろう。そんなメンバーらが、いつしか心を合わせて「政府機密機関」に対抗する、という展開が面白い。

 その「時制が1962年」ということで、作品中何度も出てくるテレビの映像が、まさに時代を感じさせるものだし、いっしゅノスタルジーをも感じさせられるものでもあり、映画のストーリーのある意味で「ベタなファンタジー」ということと合わせて、この作品の世界観がしっかりと伝わってくるようではあった。
 

2024-03-19(Tue)

 昨夜はちょっと早く寝てしまおうと、8時前にはベッドに入って本を読み始めた。しばらくして「ピンポ~ン」と誰か来て、「誰やねん」とドアを開けると、宅急便の配達だった。
 旧友のYさんが、また野菜とかいろいろと送ってくれたのだ。段ボール箱を開けてみると、ネギやシイタケ、葉付きのダイコンその他の野菜類と、焼酎のパックとかが入っていた。感謝である。うれしいね。

 予報では、今日は昨日に比べてずっと気温も下がって寒くなると言っていたけれども、そこまで寒いとは感じなかった。前にも書いたが、昨日気温が上がって地面が温められて、今日はその熱が放射されて「気温のわりには暖かく感じた」ということではないか、などと思うのだった。

 これは昨日「ふるさと公園」の近くの桜並木で撮った「桜のつぼみ」だけれども、開花が近ければもうちょっとつぼみも大きくなっていて、先端がピンクになっていたりするものだろうけれど、「まだまだ」という感じだ。このあたりの桜の開花はこの週末ではないかと予測した。

     

 今日は買い物とかに出かけずに一日部屋にこもっていた。昼からのNHKのニュースに、週末だけの出演のはずの池田伸子アナウンサーが出ていた。「どうしたんだろう。珍しいな」と思ったら、この日は日銀が十何年ぶりにマイナス金融政策を解除したわけで、ニュースも時間を延長して45分もやっていた。それで後半は池田アナウンサーが解説委員とちょっとした討論を行っていたのだった。
 実はわたしは、この池田伸子アナウンサーのファンではあるのだが、こういう経済問題の報道のときに、単に原稿を読むだけでなく、解説委員とかと(おそらくは原稿なしで)対話をしてニュースを深められるのが彼女の素晴らしさで、こういう司会のできるアナウンサーはなかなかいない。この日は日銀の緊急決定ということで呼ばれたんだろうなと思ったが、(わたし自体が経済のことはわからないのだが)彼女ならではの司会ぶりだったと思う。
 冒頭、珍しく前髪が乱れていて、手でかき上げるなどというシーンもあったが、この日急にこの日銀のニュースが伝えられ、「彼女に司会をやらせるべきだ」と急きょ呼び出されたのではないか、などと想像してしまった。
 4月になるとNHKは午後の時間に新しく「ニュースショー」的な新番組を開始し、その司会の一人がこの池田アナなのだという。わたしとしては見るしかないだろうか。

 最近、実はX(旧Twitter)を閲覧するようになっていて、もちろんわたしは「反ヘイト」の立場の人たちをフォローしていて、じっさい「X(旧Twitter)」がどんだけ「ヘイト」発言にあふれているかはわかっていないところはあるだろうけど。

 日曜日には川口駅前で「クルド人排斥」を訴える連中の、「ヘイト集会」が行われたらしい。
 産経新聞はいまだに集中的に「川口のクルド人排斥」記事を書きつづけていて、先日は「産経新聞が問題にした川口・蕨でのクルド人の事件22件のうち、産経新聞以外のメディアが問題にしたのは2件ぐらいしかない。これはどういうことだ?」という記事を書いていたが、これはいとも簡単な理由で、「それらの事象には事件性は認められない」からこそ、ほかのメディアは記事にしていないのだ。じっさい、産経新聞の記事には「憶測」によるものも多いし、「X(旧Twitter)」で「クルド人排斥」を訴えてしまっている人も、そんなクルド人が行ったとされる「蛮行」を目撃した人はいなくって、「聞いた話だが」と語るばかりである。
 その昨日の「クルド人排斥集会」の様子も「X(旧Twitter)」にいろいろ書かれていたが、現場ではそんなヘイト集会に反対する声の方が大きかったらしい。というか、「クルド人排斥」を訴える連中はその地域の「混乱」をこそ目指しているようであり、地元の人たちの「反撥」は強いという。
 産経新聞などネット上での「反クルド人」記事を読んで「そうなのか」と思ってしまった年配の女性が、クルド人らしき人たちが集まっているのを見て警察に通報したこともあったらしいが、もちろん「何の問題もない」、単なる仕事上の集まりだったということで「一件落着」したらしい(これはかつて、ネット記事を読んで根拠もなく「嫌韓思想」に染まり、韓国人に暴力をはたらいて逮捕された御仁と同じ構造である)。

 わたしが「X(旧Twitter)」で読んだ限りでは、「クルド人排斥」の動きは逆に排斥されているようには見える。
 しかし、Yahoo!ニュースがわざわざ毎回取り上げる産経新聞夕刊フジなどの「クルド人排斥」記事には、(見ても気分が悪くなるからほとんど見ないが)ほぼ100パーセント、そんな記事の立場を支持する「クルド人排斥」のコメント(ヤフコメ)が連なってしまうのだ。
 どうも、言えるのは「Yahoo!ニュースは反動・保守・レイシストの味方をしていて、日本の反動化を後押ししている」ということだろうか。

 今日は午後から、「Amazon Prime Video」でベニチオ・デル・トロ監督の『シェイプ・オブ・ウォーター』を観た。ラストはほぼ号泣、だった。

 映画を観たあとは大相撲の中継を見たが、この日も新入幕の尊富士は勝ちつづけ、幕内でただ一人全勝なのだ。これから上位陣にぶっつけられ、「新入幕で優勝」な~んてことを阻止する動きに巻き込まれることだろう。最近の大相撲では毎回のことだ。

 夕食には、Yさんに送ってもらったダイコンの葉を使い、お得意の「ダイコンの葉と豚肉のバター醤油炒め」をつくった。とにかくこの献立は「かんたんでおいしい」のだ。
 

『犬ヶ島』(2018) ウェス・アンダーソン:脚本・監督

 「ストップモーション・アニメーション映画」として、今月のはじめにテレビで放映されていた『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』と比べたくなるが、わたしは『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』をしっかりとマジメに観たわけではないので、わたしにはそういうちゃんとした比較はできないだろう。ただ、この『犬ヶ島』と『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』との双方が、「日本」を舞台にしているということは挙げられると思う。

 『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』は中世の日本を舞台として、魔法の三味線をあやつる主人公の少年が冒険の旅をするというものだったと思うが、いわゆる「説話」、「冒険譚」として正統な展開だったようには思う。

 この『犬ヶ島』、「プロローグ」において「少年侍と首無し先祖」という昔の(創作)伝説が語られる。猫を愛でた「小林王朝」は犬たちを攻撃、排除し、「ついに犬らも全滅か」というときに少年の侍があらわれて負け犬らの味方をし、小林王朝の頭(かしら)の首を切り落とし、犬たちを絶滅から救ったというのであった。絶滅を免れた犬たちであったが、結果として小林家に服従し、多くは「ペット」として生きながらえたということなのだ。『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』のように、創作の伝説を基にしているということも共通はしている。
 ここで物語は「今から20年後」の話になる。その「今」がいつの時代なのかわからないが、これはまちがいなく日本だろう。しかし見た感じでは「昭和」の時代のようにも見える(テレビは白黒のブラウン管テレビだし)。
 場所は「メガ崎市」という架空の都市で、そのとき犬が感染する「ドッグ病」が蔓延していた。市長は小林で、市内の犬たちをみんな「ごみ島」に隔離することを画策していて、まずは自分の養子であるアタリの飼い犬であり護衛犬であったスポッツを「ごみ島」に送り出す。以後も市内の犬たちはつぎつぎに島に隔離され、「ごみ島」は「犬ヶ島」となる(昭和30年代、40年代の日本では「狂犬病予防」のために予防注射していない犬はたとえ「飼い犬」であっても保健所に捕らえられ、殺処分されていたのは事実である)。
 アタリは「もういちどスポットに会いたい」と、単身飛行機で「犬ヶ島」へ行くのであった。
 つまり、プロローグの「少年侍と首無し先祖」をなぞるように話は展開して行くのだ。
 アタリ少年は犬ヶ島で出会った5匹の犬の助けを借り、スポットを探そうとするわけだが、小林市長の派遣した部隊やロボット犬の妨害を受ける。一方のメガ崎市にも動きがある。実はこの「ドッグ病」、犬を絶滅するために小林市長がバラまいていたのだ。

 一見「ディストピアSF」風でもあるし、ネガティヴな描写もグロい描写もある。「子どもといっしょに見たら楽しいだろうか」などと考えると、後悔することになるだろう。
 しかし作品全体が「小ネタ」の連続で、画面の細部にわたって「こんなものも出てくる」とかいうのもあるし、ウェス・アンダーソン映画らしい画面のつくり、構図も堪能できる。「ストップモーション・アニメ」として、誰もが好きになるのは「寿司の調理」の場面とかだろうし、わたしは終盤の「腎臓手術」の場面も好きだ。あと、犬たちが土ぼこりを巻き上げながら乱闘するというマンガっぽい場面とかで、巻き上がる土ぼこりがモゾモゾ動く「白い綿」で表現されるのが気に入った。
 ウェス・アンダーソン監督はこの作品を撮るにあたって、黒澤明宮崎駿らの影響を語り、YouTubeで見た来日時のインタビューでは、三船敏郎志村喬香川京子らの名前も語っていた。
 確かに「サムライ映画」の影響はあるだろうし、わたしは『どですかでん』のことも思い浮かべたし、「メガ崎市」など、随所に『千と千尋の神隠し』の湯屋みたいなところもあっただろう。だいたいこの「カタキ役」の小林市長とその執事とかの存在にはどこか「ヤクザ映画」っぽいところも感じられる。小林市長が政敵を毒殺し、インチキ選挙で圧倒的な支持を集めて再選されようとする場面など、まるっきし今げんざいのロシアのプーチンのやってることと同じで笑ってしまったが。

 ネットで読んだ範囲で、この作品への批判はいろいろとあるわけで、特に多い批判は、「日本人キャラクターが日本語をしゃべり、(海外では)英語字幕も付かなかった」ということにあるらしい。
 これは日本でこの作品を観て、「英語」に対しては「日本語字幕」が付くということが「あたりまえ」に思っているとわかりにくいことかもしれない。しかし、「それゆえに」か、ウェス・アンダーソン監督は日本語のセリフを短くし、非日本語圏の人が聴いても「なんとなくわかる」というところにとどめていると思う。これはもう一つの大きな批判、「アメリカから日本への交換留学生」のトレイシー・ウォーカーが「ホワイト・ウォッシング」ではないのかという批判ともつながるのだろう。この批判はわたしもわからないでもないけれども、けっきょく英語圏の観客のため、この「セリフの多い」役が英語をしゃべらなかったとしたら、興行的にも難しかったのだろうか。
 この映画全体が、そういう「非英語」を、どう英語圏に伝えるか、という問題もはらんでいるわけで、先のトレイシー・ウォーカーのことに合わせて、フランシス・マクドーマンドが声をやる「通訳ニュース記者」の存在をどう考えるか、ということでもあるだろう。。
 「犬たちがみ~んな英語をしゃべっているではないか」という「英語至上主義」については、そもそも本来、犬たちは「犬語」をしゃべっているわけで、「それをどうするか?」という問題なわけで、「じゃあどうするか?」ということになるだろう。少なくとも、この作品は「アメリカ映画」なのだ。

 もうひとつ、英語版Wikipediaに面白い記述が載っていて、それは去年亡くなられた日本の著名なミュージシャンの語られたことだというが、「I think it's a well-crafted movie. Its aesthetic is so perfect, I think. People could enjoy that. But as a Japanese, you know, to me, it's kind of the same thing again. Old Hollywood movies, they always used their mixed image of Japanese or Chinese or Korean or Vietnamese. It's a wrong stereotypical image of Asian people. So I cannot take it.(昔のハリウッド映画では、いつも日本人、中国人、韓国人、ベトナム人の混合イメージが使われていました。それはアジア人に対する間違ったステレオタイプのイメージです。だから私は受け入れられません)」と語られたという(英語版Wikipediaによる)。
 それならわたしは言うが、今のハリウッドでは日本人はあたかも「名誉白人」として、中国人や韓国人、ベトナム人とは差異化して、「白人」に近い容姿で描かれればいいとでもいうのか。日本人もアジア人なのだから、中国人、韓国人、ベトナム人らにも似ていると思われることもあるのだろう(わたしはそういうことはまるで思わなかったが)。ロシア人とイギリス人との見分けもつかないであちらの映画を観ているのが日本人ではないのか。わたしはこの作品で描かれる「日本人」は、特に戦中戦後、昭和時代の「日本人」像として納得の行くものだと思ったし、こういうところで普段「リベラル」なような顔をして、「日本人=名誉白人」のようなことを語る、実は反動的で心の底では保守派である(のではないかと思われる)人物こそ、排除されなければならないとは思ったりするのだ(もうこの方はこの世にいないからいいのだが、わたしの大っ嫌いな御仁ではあった)。

 あと、ラストのクレジットを見ていて、(どこで使われていたのかわからないけれども)1960年代のカルトバンド、「West Coast Pop Art Experimental Band」の曲が使われていたらしいのには驚いてしまった。ウェス・アンダーソン、やはりタダモノではないのだ。
 

2024-03-18(Mon)

 また新しい週が始まる。天気予報の言っていた通りに、昨日よりはずっと寒い朝だった。
 昨夜はわたしが寝るときからニェネントくんはわたしのそばでわたしと並んで寝てくれて、朝目覚めたときもわたしの上にいるのだった。わたしが寝てしまっているときに何をしているのか知らないけれども、「これから寝るよ」というとき、そして「目が覚めたよ」というときにわたしのそばにいてくれるのはうれしい。

 今日は天気はいいのだけれども、風が強い日になるということだった。いつもの月曜日のように「ふるさと公園」へと歩いたけれども、たしかに風はいくらか強いとはいえ、そこまでの「強風」というのでもなかった気がする(夕方にテレビで見た報道では各地で相当な強風が吹き、ブロック塀が風で倒れたり、トラックがひっくり返ったりしていたようだ)。
 この日の「ふるさと公園」は、先週1羽残っていたユリカモメの姿も見えなくなったし、コブハクチョウも来ていなくって、わたしが目にした鳥の種類は少なかったか。ムクドリオオバン、ドバトの姿が目立ったが、1羽のコサギが来ていたし、先週は数も少なかったカモたち、コガモカルガモらのカップルの姿が多く見られた。

     

     

     

 今日は芝生でドバトたちにエサをあげている人もいなかったので、わたしが芝生に足を踏み入れると、いっせいにドバトたちがわたしのうしろに集まってくるのだった。わたしへの「食べるものをちょうだいよ!」というプレッシャーが強いのだ。

     

 「ふるさと公園」からの帰り道、近くの道沿いにあるどうぶつ病院に立ち寄り、先週電話で注文してあった、ニェネントくん用のキャットフード(カリカリ)を買って帰った。
 以前、そのどうぶつ病院のお勧めで買ったキャットフードだけれども、あきらかにニェネントくんには「めっちゃおいしい」キャットフードらしく、毎朝、朝食に出してあげるときのニェネントくんの反応が、それまでとまるで違うのだ。もうニャンニャンないて「早くちょうだいよ」と催促する。それまで買っていたキャットフードの倍以上の価格なのだけれども、こんだけ反応が違うとやめることはできなくなる。いろいろと栄養値もいいのだろうし。

 この日もまた、駅前の小スーパーに立ち寄って、生麺のラーメンとかを買ってから帰路に着いた。
 帰りはいつもの「野良ネコ通り」を歩かず、ひとつ南側の道を歩いてみたが、歩き始めてすぐに、わたしの目の前50メートルぐらいのところを1匹のネコが道を横断するのが見られた。「今はこっちの道の方がネコも多いのかな。これからはこっちの道を歩こうか」などと思った。
 そのあと渡る跨線橋の風がこわかったが、被っているキャップを手で押さえ、何とか渡り切って帰宅した。

 午後からもういちど、ウェス・アンダーソンの『犬ヶ島』を観て、そのあとは今日から始まった「センバツ高校野球」をチラチラ見たりした。この日の試合はどれも、「手に汗握る」接戦、好ゲームだったみたい。
 高校野球も面白そうだけれども、ぜんぶしっかりと見ているとすっごい時間がかかってしまうのが難。
 その点、秒単位で勝負の決まる「大相撲」は、頭のわるい持続反応力のないわたし向きの競技だ(こういうこと書くのは、「大相撲」への差別になってしまうのかな?)。今場所は平幕の尊富士とか大の里の活躍が目立っているけれども、ここは優勝は貴景勝だろう、とか大胆な予想をしてみたい(別に貴景勝のファンではない)。この日、大関の豊昇龍にあっという間に勝ってしまった翠富士、そのインタビューはかわいかった。

 寝る前はパトリシア・ハイスミスの『アメリカの友人』を読み進めたが、今のところ、これはハイスミス作品でも「傑作」という展開だ。まさにじっさいに「あり得る」展開だし、ヴェンダースがこの作品を映画化しようとした気もちもわかる気がする(まあ、このあとどんな展開になるのかわかっていないで書いてるが)。
 

2024-03-17(Sun)

 今朝もまた、目覚めるとニェネントくんがわたしの胸の上で寝ていた。夜にわたしがベッドに行くときには、ベッドの外側、わたしの足元の段ボール箱の中で丸くなっているのだけれども、夜中のうちに、寝ているわたしの上に移動して来るのだ。

     

 成長をつづけている「猫草」、もう15センチを超える背丈にもなってきたし、そろそろニェネントくんにも「食べごろ」にもなったかと、ニェネントくんの食事トレイのそばに置いてあげた。
 ところがニェネントくん、猫草には見向きもせずに、まさに「ネコまたぎ」状態なのである。せっかく育てたのに、これはショックだ。やはり葉の先端がいちど枯れかけて茶色くなってしまっていることが、食欲をそそらないのだろうか。
 そのうち気が向いて食べることもあるかもしれないので、しばらく食事トレイのそばに置いておこうと思う。

 今日も気温の高い日になった。部屋にいてもセーターなしで過ごした。でも予報では明日からはまた気温が下がり、最高気温も今日よりも7~8度も低くなってしまうという。しばらくはそんな気温がつづくらしいので、桜の花の開花も少し遅れるのだろうか(たいていの開花予想では、21日だと予想しているようだが)。

 日曜日の朝はいつもとテレビの番組も異なるので調子が狂うのだが、毎日曜日、7時45分からは「さわやか自然百景」だ。この日は奄美群島沖永良部島周辺の冬の海。北の海から子連れのザトウクジラがやって来て、まだ産まれて間もない子どものザトウクジラが、お母さんクジラの周りで泳いだりする珍しい映像。産まれて間もないといっても、もう体長は3メートルを超えるのだ。
 もっとゆっくりと観たかったが、わずか15分の番組なので、そんな貴重な映像もあっという間に終わってしまう。取材ではもっともっと長時間撮影していることだろうに。

 日曜日で先週のまとめのニュース番組がつづくのだけれども、国会は参議院予算委員会で、自民党の「裏金事件」への追及がつづいている(もう「裏金問題」ではなく、「裏金事件」と、その呼称の重要度がランクアップしている)。共産党の小池議員が森元首相らの追加聴取を要求し、岸田首相も「森元首相も含めて検討する」との答弁だった。ここまで言っておいて、「やっぱりやらない」とはならないのではないかと思うが。

 ガザ地区の人道状況はさらに悪化していて、ユニセフは現段階で2歳未満の子どもの3人に1人が栄養失調の状態にあるとしているし、ガザ地区の支援物資配給所をイスラエル軍空爆したという。こんな酷い話は聞いたことがない。ネタニヤフ首相は、子どもたちや一般市民も殺戮すればまぎれてハマスも多少は倒すことが出来るとでも考えているのだろうか。

 あとのニュースは、アメリカのアカデミー賞で日本映画が受賞した話だとか、大リーグの日本人選手が結婚したとかのニュースばっかりで、もう見る気も起きないのだ。「買い物にでも行こう」とテレビを消して出かけるのだった。
 それでもって今日もまた、「豚なんこつ」を買ってしまったのだった。いったいどんだけ買えば気が済むのか、これでトータル9袋も買ってしまったのだ。コラーゲンをたくさん摂取して若返ろう!

       

 昼からは、ウェス・アンダーソン監督のストップモーション・アニメーション映画、『犬ヶ島』を観るのだった。
 先日、別のストップモーション・アニメ映画のことを「ストップモーション・アニメの良さを理解していない」、「CGと変わらないじゃないか」と批判したのだったけれども、この『犬ヶ島』はまさに「ストップモーション・アニメーション映画」の良さを生かした、楽しい作品だった。ウェス・アンダーソンらしい「小ネタ」も盛り込まれ、何度も観たくなるような作品だった。
 面白かったこともあり、明日もう一度観てみようと思う。感想もそのあとに。

 夕方からはテレビの大相撲中継を見て、6時からは「世界遺産」、そして7時半からは「ダーウィンが来た!」を見るというのが、だいたいの日曜日の過ごし方だ。
 寝る前に本を読もうとしたのだが、睡魔に襲われてしまい、ほとんど読めないままに眠ってしまったのだった。
 

『ローマ帝国の滅亡』(1964) アンソニー・マン:監督

 この作品、前作『エル・シド』を撮っていたアンソニー・マンは、本屋の店頭でギボンの『ローマ帝国衰亡史』を見つけて買って読み、スペインに行ったときに製作のサミュエル・ブロンストンにこの本の映画化を売り込んだことから始まったらしい。
 って、原書でも全6巻ある大書をどう映画化するつもりだったのかと思うが、映画はその第1巻のさいしょのところ、マルクス・アウレリウスのローマ治世の時代から彼が暗殺され、息子のコンモドゥスが皇帝となり、そのコンドモゥスも死ぬまでの話。

 アンソニー・マンもプロデューサーのサミュエル・ブロンストンも、またチャールトン・ヘストンソフィア・ローレンの共演を考えていたらしいが、チャールトン・ヘストンフィリップ・ヨーダンの脚本が気に入らなかったらしく、同じサミュエル・ブロンストン製作の『北京の55日』の方に出演することになる。
 それでヘストンの代わりは『ベン・ハー』で彼と共演したスティーヴン・ボイドになり、映画のための架空の人物、ガイアス・リヴィウスを演じた。コンモドゥスは『サウンド・オブ・ミュージック』のクリストファー・プラマーマルクス・アウレリウスは『アラビアのロレンス』のアレック・ギネスが演じ、その『アラビアのロレンス』からはオマー・シャリフアンソニー・クエイルとかも出ている。あとは『ロリータ』のジェームズ・メイスンとかも出演。さすが「ハリウッド大作映画」の時代、出演者はたいていそ~んな「大作」に出演している。
 あ、ソフィア・ローレンはコンドモゥスの姉で、リヴィウスを愛するルシラを演じている。このルシラ、史実でもコンドモゥスを暗殺しようとして失敗するが、そのあとカプリ島に流されて亡くなったそうである。

 というわけで、あれこれと史実と異なってるところも多い。ラストにはいきなり、コンモドゥスが実はマルクス・アウレリウスの子ではなかったな~んて話が出てくるし、「歴史のお勉強のつもりで見てはいけません」という映画。ま、コンモドゥスが暴君だったことは事実だが。

 映画の前半、マルクス・アウレリウスが暗殺されてその葬儀になるまでの展開はけっこう地味で、「どうせウソなんだから、マルクス・アウレリウスの暗殺シーンなんかもっと派手にやっちゃえばいいのに」とか思ってしまう。

 しかしそのあと、コンモドゥスの即位の式典とかは絢爛豪華、「どんだけ力と金をこめてこのセット作ったんだ?」とか「エキストラいったいどれだけ集めたんだ?」とか「エキストラは隅から隅まで全員ローマ兵の服装してるのか?」とか、呆れかえって画面を見つめることになる。あとはローマ軍と反乱軍とのかなりごっつい戦闘シーンもあり、このあたりがこの映画の見せ場だろうか。
 室内の元老院の会議のシーンとかはなかなかに見せてくれて、会議場の真ん中で演説をぶつ長老を、カメラがゆっくりとその周囲を回りながら撮るのなんかはイイ感じだった。
 それから音楽はディミトリ・ティオムキンで、実に壮大な音楽を聴かせてくれる。

 ラストはコンモドゥスとガイアス・リヴィウスとが衆目の下、一対一の決闘となるのだけれども、近距離で撮影して隠しているとはいえ、2人の役者さんはそこまで剣術に巧みではないようだった(どんな役者さんでも剣術に巧みな人などそうはいないだろうが)。
 けっきょく、このラストでローマ帝国がすぐに崩壊するわけではないけれども、内部の腐敗が最終的には崩壊につながるということだった。

 それで観終わってみてこの映画、まさにいかにも当時の「ハリウッド大作映画」というところなのだけれども、精神的な「奥深さ」というものが描かれているとも思えず、つまりは「精神」に対する「物質」の勝利を示したモノなのだろうか。「名匠」と呼んでもいいアンソニー・マン監督も、この作品ではどこかで計算が狂ったのだろうか。残念なことだ。
 この作品、製作費に1600万ドルかけたらしいのだが(当時ではすっごい額だ)、興行収入は480万ドルにとどまり、結果として、製作のサミュエル・ブロンストンは破産してしまったらしい(前作『エル・シド』は製作費700万ドルから900万ドルだったのに対し、興行収入は2660万ドルもあったという~英語版Wikipediaによる~)。
 

2024-03-16(Sat)

 今朝も夜中に夢をみていた。今朝の夢も映画の夢で、詳しく書くと長くなるから要点を書くと、それはある家族の話なのだけれども、要するにその母親が息子と性的関係を持つようになってしまうのだ。夢はその関係をじっくりと捉えた映画についての夢で、わたしは夢の中で「それはミヒャエル・ハネケの『愛』という映画だろう」と思っている。現実にハネケには『愛、アムール』という映画はあるけれども、決してそういう内容の映画ではない。目覚めてからも「なんでそんな夢をみたのかなあ」と、いぶかしく思ってしまう夢だった。

 「観ようかな」と思っていた、ヨルゴス・ランティモス監督の『哀れなるものたち』が今、となり駅の映画館で上映されているのだけれども、今はあんまり観に行きたいという気分でもなくなってしまった。それより、今日から上映の始まるフランス映画の『12日の殺人』という作品が観たい気分だ。先日観たフランス映画の『落下の解剖学』が面白かったし、同じフランス映画の「殺人事件」を扱った作品、観てみたいのだ。
 そのとなり駅の映画館では、再来週末からはヴィクトル・エリセ監督の『瞳をとじて』も上映されるのだが、いっしょに『ミツバチのささやき』も『エル・スール』も上映される。『エル・スール』は観たい。
 そして来月には、トーキング・ヘッズのライヴの傑作『STOP MAKING SENSE』もやってくれるのだ。まあそこまでに大きなスクリーンの映画館ではないけれども、やはり映画館のスクリーンでいちど観てみたい。

 遅くなったけれども、2月の支出の決算をやった。去年の12月、そして1月2月と、度を越さない安定した支出で「無問題」だと思う。

 この日は「春真っ盛り」みたいな天候で、気温も上がった。東京は20℃を軽く超えていたようで、このあたりも同じだったろう。午前中に北のスーパーへ買い物に出かけたが、少し薄着で家を出たつもりだったけど、帰りには汗ばんでしまった。
 しかし道の途中で出会ったスズメは、まだ冬仕様の「もっこり」体形ではあった。

     

 スーパーでは店の片隅に「ぷるるんトロうまなんこつ」というレトルト食品が置かれていて、「正価600円のところ160円」とかで売られていた。おいしそうなので一つ買って帰って、昼過ぎに食べてみたのだけれども、これがめっちゃ美味しくって、「わたし好みの味」だった。「正価600円ってほんとうだろうか?」とネットで調べていたらほんとうで、ネット通販のいちばん安いのでも400円近くした。別に賞味期限が迫っているわけでもなく、「これはぜったい、もっと買っておこう!」と、夕方からそれを買うためだけにまたスーパーへと行ったのだった。あまりに安いので「売り切れているかもな」とも思ったけれども、まだまだいっぱい残っていて、3つ買って帰った。もっと買ってしまっても良かったな。

 昨日半分だけ観ていたアンソニー・マン監督の『ローマ帝国の滅亡』、「もう観なくってもいいかな」とも思ったのだけれども、いちおう最後まで観てしまった。後半はハリウッドらしい豪華さも増していたが。
 これでアンソニー・マンの映画もサブスクで観られるものはおしまい。さあ、明日からは何を観ようか?

 大相撲は、テレビ放映されない十両の取組みで、ひいきの碧山も玉正鳳も今日で2勝5敗。幕下に陥落の危機もある。碧山は引退してしまう可能性もあるなあ。玉正鳳も若くはないし。
 幕内では、横綱照ノ富士もやはり今日から休場。今日まで幕内の全勝は、新入幕の尊富士という力士だけになってしまい、このところ新入幕の力士がいきなり活躍する、という流れがつづいている気がする。

 読んでいるパトリシア・ハイスミスの『アメリカの友人』は、ついにトム・リプリーも事件に絡みはじめて、とっても面白くなってきた。今のところ、「変装」などというこざかしい技を使っていないのもいい。まだようやく半分読んだところだけれども、これからははかどりそうだ。