ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2021-07-14(Wed)

 東京のCOVID-19新規感染者数が、千人を超えた。「千人を超えるのは時間の問題だろう」とは思っていたし、「今のスカ内閣の対策では新規感染者はどんどん増加するだろう」ということは、もう一ヶ月も前から予想されていたことだ。しかし、やはり現実にそうなってみると、それは危機感がないわけもない。

 わたしは先週とかに「わたしだってもっと生活を楽しみたい」とか考え、映画を観たり美術館や博物館へ行ったりする機会を増やしたいと思ったりしたのだった。実は今週も「映画を観に行こうか~」とか毎日のように思っていたのだが(今観たいのは、まずはダニエル・デフォーが出演している『ライトハウス』という映画だが、まだやっている『シン・エヴァンゲリオン』だって観たい気もちはあるし、『コングvsゴジラ』とかも観たいのだ)、じっさいに仕事のあとにでも映画館へ行こうかと考えると、ニェネントくんに長く留守番させることになるし、翌日に疲れを残す気もして、やっぱり二の足を踏むのだったけれども、こうやってCOVID-19新規感染者数が増加してもくると、「むむ、やはり映画館とかはしばらく行くのはやめておこうか」とは思うのだった。
 ただ、今上野の国立博物館の東洋館でやっている「イスラーム王朝とムスリムの世界」展はやはり観たいし、美術館・博物館はしっかり感染対策をとっているとも思うし、上野公園を散策するのもいいし、いずれ行ってみたいと思っている(ついでに今「植物」展をやっている科学博物館、それから動物園にも行ってみたいな)。

 そろそろ今年の梅雨も終わりそうだ。今日も「一天にわかにかき曇り」という空模様にはなったが、雨になることはなかったようだ(関西の方でははげしい雷雨になったらしいが)。そして、昼は気温が上がって暑くなった。
 今日は「野良ネコ通り」から帰路に着いたが、今日もハナクロの姿は見られなかった。近くのアスファルトの道に、そばの畑から土が雨で流れ出したあとが墨流し模様のように残っていて、「このあたりでも先日の雨(日曜日の夜の雨だろう)はかなり激しかったのだな」と想像がついた。

 帰宅すると、Amazonに注文してあった品の「不在連絡票」が投函されていた。おかしいな。注文したときに「置き配指定」したと思っていたのだが、そう了解されてなかったみたいだ。Amazonのページを開き、「再配達」とかのページにあった「置き配指定」をチェックしてみたが、そのまま元のページに戻ってしまい、「こりゃあおかしいんじゃないだろうか」と、もう一度、別の指定項目から「置き配指定」する。今度は「承りました」みたいなメッセージが出たからOKだろう。どうも指定の仕方がアンフェアというか、「ちゃんと指定できたのかどうか」わかりにくい(最初に「置き配指定」をチェックしたことで、「自分はちゃんと指定したぜ!」と思い込んでもおかしくはない)。

 リヴィングでテレビを見ながらパソコンに向かっていて、時間も3時を過ぎてくると、ニェネントくんが和室から出てきて、リヴィングとキッチンの境界あたりで丸くなる。ニェネントとしては「わたしの体内時計ではそろそろ夕ごはんの頃なんだけれども?」というところだろう。
 自分ではニェネントくんの夕食の時間は「4時」というつもりなのだけれど(朝食が午前4時だからね)、まあ3時半を過ぎたら「もういいかな?」となる(ずっと、キッチンからのニェネントの「夕食、まだかなあ~」とのプレッシャーが強すぎるのだ)。「ニェネントくん、ごはんにしようか?」と話しかけると、「ごはん」という言葉がわかるのかどうか知らないけれども、わたしの顔を見上げて「お!」みたいな反応で「ニャッ!」と短かく啼く。そして前足をグ~ンと前に伸ばし、思いっきり「伸び」をする。
 わたしがキッチンへ立ってニェネントくんのお皿にネコ缶を分けてあげてると、ニェネントはわたしの足もとに寄ってきて、わたしのすねを「ペロリ」となめてくれるのである。うれしいね。
 このところは、ニェネントくんお気に入りのネコ缶にトッピングとして「ネコ用カニカマ」か「ネコ用かつおぶし」とをまぶしてあげている。ニェネントくんがっつく。

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 わたしの夕食はというと、久しぶりにポテトサラダをつくり、買った「うなぎの肝の串焼き」と。う~ん、「肝」もいいけれども、やっぱり「蒲焼き」を食べたいかな。あの『ツィゴイネルワイゼン』で、原田芳雄がやってみせたような「お下品」な食べ方をやってみたいものだ。
 夕方に、「置き配指定」とは別に注文してあった、靉光の展覧会図録が届いた。さっそく封を切って、ページをくくってみる。やはりすばらしい。今のわたしの中では「靉光熱」がマキシマムに上昇している。

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『南極探検とペンギン 忘れられた英雄とペンギンたちの知られざる生態』ロイド・スペンサー・デイヴィス:著 夏目大:訳

 今から109年前、1912年にあの南極探検で遭難したスコット隊と共に南極へ行き、極点行きには同行せずにひと冬をキャンプ(小屋)で過ごしたマレー・レビックは、その間キャンプ小屋周囲に無数にいるアデリーペンギンを観察し、ノートを残した。これは世界初のアデリーペンギン観察記になった。
 著者のロイド・スペンサー・デイヴィスは現在、やはり南極へ出かけてアデリーペンギンを目にし、なぜか公(おおやけ)にされずに封印されていた、マレー・レビックの観察したアデリーペンギンのノートを読む。
 いわゆる「伝記モノ」というのではなく、現在の著者の視点、そして当時のイギリスのスコット隊、及びノルウェーアムンゼン隊の「世界初の南極極点到達」を目指す冒険、そしてマレー・レビックの残したノートとアデリーペンギンの話とがこの一冊に詰め込まれている。タイトル通り、「南極探検」と「ペンギンの生態研究」と、一冊で二度おいしい本だろうか(まずは読み始めて、しょっちゅうはさみ込まれる現在の著者の視点が邪魔くさいこともあるが)。

 さて、まずはこういう「探検旅行譚」であれば、「南極大陸」の地図が欲しい本だ。というか、地図は「マストアイテム」ではあろう。いったいスコット隊とライヴァルのアムンゼン隊はどんなコースを取ったのか、マレー・レビックはどのあたりで冬を越したのか(つまり、アデリーペンギンはどこにいたのか)などということを地図で知りたいというのは、この本の読者が誰もが思うことだろう。ぜったいに、1ページでも地図を挿入してほしかった。

 それで、「地図がないならしょうがないや」と、自分でそういうことを調べることにした。まずはこの本でいちばんのスポット、何度も何度も出て来るところの、この探検のポイントとされている「アダレ岬」(この本に書かれている地名)というのを検索してみた。
 ところが、これがまるでヒットしない。「なぜなんだろう」と考えてもわからない。南極の地図も検索してみたのだが、その英語の地図で「Cape Adare」という場所を見つけた。コレか? コレなのか?
 「Adare」は「アダレ」などとは発音しないことは、ちょっと英語に親しんだ人ならばわかることだろう。まさか「ローマ字読み」などではない。「アデア」である。ちなみに「アデア岬」で検索すれば、いくらでもヒットしてくる。なんということだ。わたしはあきれてしまった。

 こんなこと、ちょっと地図を見るとか他の本を読めばわかることではないのか。この翻訳者は、そういう「参考書を読む」とかの労苦をすっ飛ばして「楽」をしたのだろうか。いや、そもそもの英語のリーディングが出来ていないのだ。一般に流通する「アデア岬」という読み方を無視して、「アダレ岬」などと、まったく流通しない地名を押し通した罪は小さくはない。まずは「非常識」である。この本を読まれた読者が「南極探検」のことを知ったつもりになって、そういうことに詳しい人に「まずはアダレ岬でね、」などと話をして、相手に「え? あなた、アダレ岬って何?」と言われてしまうシーンが思い浮かんでしまう。

 まずわたしが考えたのは、「この翻訳者は信頼に足りる翻訳者だろうか?」ということである(だって、「アデア岬」を勝手に「アダレ岬」にしてしまう翻訳者なのだから)。

 ちょっとそのことで、コレは些細なことかもしれないけれども、やはり気になったことを一、二書いておく。

 まずここで、著者のロイド・スペンサー・デイヴィスが読んでこの本を書くきっかけになったのは、スコット探検隊に同行したマレー・レビックのノートブックによるのだけれども、このマレー・レビックという人、英語表記では「Murray Levick」なのだった。
 これって、日本語表記にすれば「マレー・レヴィック」とする方がいいのではないのか? 特に、この本の著者が「ロイド・スペンサー・デイヴィス」と表記されているというのに、なぜ「Murray Levick」は「マレー・レビック」になるのか。著者が「デイヴィス」ならば、この「Levick」の表記は当然「レヴィック」にするべきではないのか? これはいわゆる「ダブル・スタンダード」ということだろう。

 もうひとつ。「アデリー・ペンギン」という表記にも疑問がある。今の日本語表記で、動物の「種」をあらわすとき、「・(ナカグロ)」というものは使わないのが通例である。つまり、「ジャイアントパンダ」は「ジャイアント・パンダ」とは表記しないのだ。「コツメカワウソ」は「コツメ・カワウソ」などとは決して表記しない。わたしなども今まで、「アデリーペンギン」という表記に慣れてきたので、「アデリー・ペンギン」などといちいち書かれると気色悪いところがある。
 こういうことは「大したことではない」と思われるかもしれないけれども、こと「動物学」に関わる書物でこういうことをやられると、じっさいのところ、「ああ、翻訳者は<動物学>に明るい人ではないのだな」と思うしかない。

 もちろん、ここまで書いてきたことは、この『南極探検とペンギン』という書物の、その内容に深く関わるわけでもなく、こんなことは無視してもちゃんと読めるのだ。
 しかし、(もう面倒なのであまり詳しくは書かないが)この著者のロイド・スペンサー・デイヴィスは、「動物学」にも、さらに「人間学」にも明るい方ではないのだろう。とりあえず「南極探検」のスコット隊とアムンゼン隊との「争い」のことは置いておいて(その部分は充分に面白く読めたけれども、それはおそらく類書でもすでに書かれていたことではないかと思う)、肝心の「アデリーペンギン」の生態についての解釈は、おそらく間違っている。
 ここで著者は「性欲」という問題を過大に読み取ろうとし、アデリーペンギンの繁殖活動に「性欲」を読み取ろうとし、そのことのアナロジーで「人間たち」の「性欲」をも対比して書こうとするのだけれども、はっきり言ってそれは「卑俗」な読み取り方であり(著者はヴィクトリア朝時代の「性観念」をマレー・レヴィックのノートにも読み取ろうとするのだが)、そもそもがこの本の書き方からも、「文献」の」裏付けなくして勝手な想像から(卑俗な方向に)逸脱しているし、つまり、アデリーペンギンにせよ、この「人類」にせよ、そ~んなつまらないことで解釈したってしょうがないのだ。今さら「フロイト」ではないのである。「学問」というものは、こういう地平には存在しないな。そういうことはわたしだって言っておきたくなるし、わたし自身アデリーペンギンは大好きなので、誰かがアデリーペンギンのことを知りたいのであれば、もっと別の本を読んでほしい気もちはある。
 

2021-07-13(Tue)

 先週、テレビの報道でコブハクチョウのことが取材・放映されていた。手賀沼から利根川下流の方に行った印西市のあたりに大きな群れが棲息している。これが数十羽もいるのだが、これだけの数が群れているとさすがに「愛らしい」とかいうレベルではない。やはり水田を荒らすことが問題にされていたのだ。
 この地域の群れは「鳥の博物館」のHPだったかに、「餌付けする人がいるらしく、手賀沼から移動して利根川下流へ行くコブハクチョウが多いらしい」との記述があった記憶があるが、それがこの地域なのだろう。その「餌付け」のことも報道されていて、なんと、野原に大きな餌箱を3台ぐらいボコッと置いて放置してあり、中に餌が満杯。そこにコブハクチョウが頭を突っ込んで食べる食べる。
 これはさすがに「ヤバい」と思った。「動物園」ではないのだから。
 わたしなどが目にするコブハクチョウはもちろん「野鳥」なわけで、殺したり傷つけたり捕えたりすることは「犯罪」になるが、むやみやたらと餌付けすることも控えるべきである。特にこの日のテレビで写されていた「餌やり」は常識の域を越えていて、野生動物の生態系を壊すことにつながる。
 ただでさえこの地域のコブハクチョウは数が増えつづけていて、「鳥の博物館」などではコブハクチョウが抱卵する卵を間引いて、数の増加を抑えようともしているわけだし、わたしが「ふるさと公園」で見るコブハクチョウの親子にしても、「雛が三羽」というのはコブハクチョウとしては少ない数なので、当然卵を「間引き」された結果ではあるだろう。
 ひとつ問題なのは、コブハクチョウは体もデカいし、繁殖期には気が荒くなって他の水鳥に攻撃的になるということ。そのため、手賀沼周辺ではオオバンの数が減少して来ているということだし。
 また、本来コブハクチョウは水辺に生える「マコモ」などという植物を食用にしているのが「餌やり」で食生活が変化し、水田を荒らすようにもなるのではないだろうか(このあたり確証はないが)。

 わたしは「ふるさと公園」で目にするコブハクチョウの美しい姿に心も癒される思いもするわけだが、そうではない、このあたりの農家の方々からすれば愛らしいわけでもなく、数が増えることに苦々しい思いをされてもいるわけだろう。
 たとえばわたしだって、近所の野良ネコたちに食べるものをあげたいな、などという気もちもあるのだけれども、やはり「それをやってはいけない」とブレーキをかける。野鳥だって同じことだと思う。ただ、「自分の力でしっかり生きてほしい」と思うしかない。それが「生態系を守る」ということでもあるだろう。

 今日も天候は不安定で、今にも雨が降り出しそうな雲行きになったりもしたけれども、けっきょく日中は雨にならずにすんだようだ。仕事の帰りは「野良ネコ通り」を通ったが、この日はハナクロの姿は見られなかった。
 帰宅してしばらくして、注文してあったDVD『ランボー 地獄の季節』が到着した。注文したときに、同じ盤のほかの中古DVDは「レンタル落ち」との表記があったけれども、わたしが注文したモノには「レンタル落ち」とは書かれていなかった。価格はほかの「レンタル落ち」と同じようなもので、買ってみればやはり「レンタル落ち」なのかもしれないな、とは思っていたが、封を切ってみると「レンタル落ち」ではなく、まったく「新品同様」の品だった。ちょっとうれしかった。
 よく中古品で「レンタル落ち」というものも売られているけれども、もう「新品」はすでに品切れになっていて、やむを得ず「レンタル落ち」で買うこともあるけれども、やはりできるならそういうものは買いたくはない。まあウチにはそういうDVDが何枚かあるわけだけれども、ジャケットの背にもDVDディスク本体にもレンタル店のシールが貼られていて、あまり気分がいいものではない。

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 今日は読んでいた『南極探検とペンギン』をようやっと読み終えたけれども、前にちょっと書いたように、この翻訳には言いたいことがいろいろとあるわけだ。本自体も、さいごまで読んで「期待したほどの本でもなかったかなあ」という感想になっただろうか。
 先月ピンチョンの『ブリーディング・エッジ』という大物を読み終えて、ちょっとそれ以降読書に乗り切れないところがある。読みつづけている『ジェイムズ・ジョイス伝』も今はちょっと「お休み」だし、もう一冊読んでいるマルセル・モースの『贈与論』もなかなか進まない。

 さて、ツィッターなどをみていると、先般の西村経済再生担当大臣が金融機関に対して「酒の提供をつづける飲食店への働きかけを要請」していたという件、さらに酒類販売業者に対して酒類提供をつづける飲食店との取引を停止するように要請したということへの反撥は強烈で、飲食店では店内に「次回選挙で自民党公明党には投票しない!」と描かれたポスターを掲示したりとかの動きがあるという。
 この西村大臣の「要請」の裏には当然スカ首相がいるわけで、おそらくはスカ首相からの発案でもあったのではないか。今は西村大臣への「辞任要求」の声が大きくなっているが、この件を突きつめればスカ首相の「責任問題」になるのではないだろうか。スカ首相の責任を問う声は大きくしなければならない。
 一方、今はIOCのあのトーマス・バッハ会長も来日しているのだが、今日の会見で「ここまで準備の整った大会はない」などとウソ八百は語るし、しかも「日本国民」というところを「Chinese People」と言い間違えたのだった。どうやらバッハ会長の頭の中では、もう「東京オリンピック」のことなど隅に追いやられていて、すでに来年の「北京オリンピック」に夢中なのではないのか。
 

2021-07-12(Mon)

 なんかこのところ、疲労感が強くなったというか、特に階段などを上がると足がだるくなる。せいぜいワンフロアぐらい階段で上がるだけで、途中で「疲れたなあ(足がきついなあ)」という感じ。まあそれで足がすっかりヘロヘロになって先に進めないとかいうのではないけれども、やっぱり年齢的なものでしょうかね?先生。
 仕事は7階建てのビルの7階から地下2階まで巡回するから、「そりゃあ大変じゃないか!」と思われるだろうけれども、基本はエレヴェーターで上の階に上がって、あとは降りてくるばかりだから疲れはない(たまに2フロア分ぐらい階段を上がることはあるけれども)。とにかく、「階段を上るのはイヤだなあ」という、今日このごろではある。

 きのうおとといと、昼間はけっこういい天気で夕方とか夜にガ~ンと雨が来たのだったけれども、予報では「今日もそんな天気になる」ということ。だから朝、出勤するときには空は晴れている。駅に着いたところで東の空を振り向くと、昇ってくる朝日が見られた。

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 先週はず~っと、一日中曇天の日がつづいたので、こうやって朝日を見るのもずいぶんと久しぶりな気がする。でもそのあいだに、つまりは「夏至」を過ぎたわけだから、日ごとに「日の出の時間」は遅くなってきていたわけで、この朝久しぶりに見た「日の出」も、その位置がずいぶんと低くなってしまった(前はこの時間、太陽はすっかり地平線より上に昇っていたのだけれども)。これからも日ごとに「日の出の時間」は遅くなり、もうこの7月のうちにも、わたしの出勤のときには昇ってくる太陽は見られなくなってしまうことだろう。

 今日は仕事の帰りは月曜日ということもあり、「ふるさと公園」経由の道を選んだ。今日はずっと晴天で、気温も上がって暑い。
 この日のコブハクチョウは、まずは池にいる一羽の親鳥と一羽の雛とだけが見えた。あれ? 他の家族はどうしたんだろう? と思ったら、そのそばの岸辺の上で寝っ転がっているのだった。

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 見ているとそのうちに岸辺の上の三羽も池の方に降りて来て、先に池にいた二羽のあとを追うように泳いでいく。

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 雛だけの写真を撮っても、もう「親」なんだか「雛」なんだか区別もつきにくい感じになってる(まあ、クチバシを見ればわかるのだが)。

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 帰宅して、ネットをみていたらタルコフスキーの『ストーカー』のDVDが新品で2千円以下で売られていて、「そりゃあ安いや!」と、注文してしまった。あと、昨日考えていたように靉光の展覧会の図録も注文。
 先日、テレンス・スタンプランボーを演じたイタリア映画の『ランボー 地獄の季節』のDVDも注文してあるので、明日ぐらいには届くだろう。
 もう来週末からはオリンピックも始まってしまうのだが、わたしはその期間中DVDでもせっせと観賞しようかと思っている(他にやりたいこともあるが、期間中はできるだけテレビも見ず、ネットの閲覧もしないつもりだ)。

 先日、西村経済再生担当大臣が金融機関に対して「酒の提供をつづける飲食店への働きかけを要請」していたという件は余波が拡がり、いっそうの抗議(西村大臣の辞任を求める)がつづいているし、実はこの「要請」はスカ首相も承知していたのだということも暴露された。スカ首相は「そのようなことは知らない」と言っていたのだが、やはり彼は「大ウソつき」だったし、つまりは今回の「要請」はスカのアイディアだったということだろうか。
 スカ首相は酒を一滴も飲めない「下戸」で、「酒飲みの気もちはわからない」などと言ってるらしいが、彼の今の「COVID-19対策」はただ、「アルコール」のみを「COVID-19まん延」の元凶としているようであり、一種「禁酒法」を設置したいかのようだ。
 もうすでに、あれだけ「酒を出す飲食店」への無体な「締め付け」を行った6月の<緊急事態宣言>にもかかわらず、今になって新規感染者数がますます増加しているということは、そこに「酒を出す飲食店」が原因だった、などとはもう言えないはずであり、今日からまた始まる<緊急事態宣言>では、「今回はこんなことに皆で気を遣おうではありませんか?」などという国民(都民)への呼びかけもせず、「まだそんなことを言ってるのか?」という「アルコール販売禁止令」みたいなことを継続しようとするのは、いくらスカ首相が「下戸でバカ」だといえ、「アルコール敵視」もはなはだしく、酒類販売業者、そして飲食店への抑圧は「国家」の政策の範疇を逸脱しているものだろう。
 今日からまた、ウチのあたりの飲食店でも「酒類」は出されなくなる。たとえば蕎麦屋に入って蕎麦を食べ、日本酒を飲むという「楽しみ」は、この夏中ずっと、不可能になるのだろう。悲しいね。
 

2021-07-11(Sun)

 昨夜、「もう寝よう」とベッドに入ったあと(時間的にはまだ7時半ぐらい。わたしは「超」早寝なのだ)、外でかみなりの鳴る音が聞こえてきた。雨の音も聞こえる。そのうちにウチの周りをかみなりの音が取り囲むみたいなことになった。大きな落雷の音こそ聞こえないが、なかなかに騒々しい。
 かみなりの音と打上げ花火の音がこわいニェネントくんは大丈夫かな?と思ったけれどもベッドのあたりには姿がない。どうやら、「いつでも入れるように」とふすまにすき間を開けてある押し入れの中に、避難しているみたいだ。やっぱりかみなりはこわいよね。

 朝起きると、スマホに「となりの市の停電はすべて復旧した」という知らせが届いていて、「そうか、あの雷雨で停電していたのか」と思うのだった。以前にもやはり雷雨でとなりの市で停電したことがあったけれども、まあとなりの市も広いからけっこう辺鄙な地域もあるわけだし、前回もそういうちょっと郊外での停電ではあった。

 もう、このところの天候は「さっきまで晴れていたのに突然の豪雨、雷雨よ」ということが多く、実は今日も夕方からそ~んな豪雨になった。
 ちょうどその前にツイッターを閲覧していて、都心の方とかで大雨になり、雹(ひょう)も降っているというツイートを目にしていたもので、ネットで最近機能アップしている「雨雲レーダー」をみてみると、もうウチのすぐ近くまで強烈な雨雲が迫ってきていて、「あと10分もするとあなたの住まいのあたりに雨が来ますよ~」というところだった。
 「どうなるだろう?」と思っていたら、予想通りに急速に空が暗くなり、すぐに激しい雨が降り始めた。そこで「雨雲レーダー」をまた見てみると、まさにウチの真上あたりが真っ赤っ赤、最大の雨量になっていた。まあ雹(ひょう)は降らなかったし、雷鳴も一、二度聞こえたけれども、大したこともなくてよかった。

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 うむ、この「雨雲レーダー」は信頼するに足るというか、なまじっかな天気予報を見るよりも自分で判断できるし、頼りになりそうだ。これから台風も来るだろうし、そんなときにもアテになりそうだ。
 「雨雲レーダー」を見た感じ、そんなに長くは雨もつづかないだろうとは思ったが、30分もするとすっかり雨もやんでしまい、窓から見える空には青空も見えるようになっていた。

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 けっきょく、今日はそんな雨を恐れたわけでもないけれども、一歩もウチから外に出なかった。先月(6月)の支出を仕分け決算してみたが、6月は米も買わなかったし、食費がすっごい少なくすんだ。去年の3月、4月も(自分の入院とかもあって)食費が少なかったけれども、その時期よりもさらに少ない食費だった。ちょっと歯医者で金がかかったけれども、それがなければほぼ記録的低支出だったみたいだ(本を8千円買ってるので、そんなに買ってなければ低支出の「新記録」だったな)。
 まあ別にそこまで倹約しようと思っているわけでもなく、今は生活を切り詰めて金を貯めようとかいう気もちでもないから、もうちょっと生活を楽しんでもいいだろうとは思う(そりゃあ貯蓄は大事だろうけれども)。ついつい、今の「COVID-19禍」もあって出控えてしまうのだ。
 せっかく明日から東京はまた<緊急事態宣言>発令っつうことではあるが、わたしはもうちょっと家の外で楽しんでもいいだろうと思っている。映画を観たり展覧会を観たりということはもっとやりたい。もっとおいしいものも食べたい(7月はとりあえず、うなぎかな~)。スカ政権のやることには逆らいたいし(もちろん自分の健康は最大限留意して)。
 そう、それから、ニェネントくんにももっとおいしいものを食べてもらいたい。毎月、月の誕生日とかにごちそうを出してあげるのもいい。

 夜、珍しく8時過ぎまで起きて、テレビで「日曜美術館」を見た。今日は「靉光あいみつ)」の特集だった。
 わたしも昔は靉光が大好きだったのだけれども、もう長いことその存在も忘れてしまっているような感じだった。この夜、久々にそんな靉光の作品をたっぷり眼にして、「やはり素晴らしい絵描きさんだったよなあ」と思うのだった。代表作の「眼のある風景」ももちろん素晴らしいが、彼のそんなに長くはない画業のすべての作品が、トータルにわたしに訴えかけてくる思いがした。残された彼の作品もそんなに多くはないから、今夜の番組で紹介された作品はみ~んなわたしの記憶に残っている作品だったが、なんだか「今まで、わたしは彼の作品をボケ~っと観ていたんだなあ」とか思ってしまう。
 いろいろな画材、いろいろな技法を試みた人だったようだが、戦時下でまわりの絵描きらが絵の具を買い漁るなか、彼はそんなことに頓着もしないようなので、夫人が「あなたは皆のように絵の具を買いだめしないのですか?」と問われ、彼は「な~に、ドロでだって絵は描けるさ」と答えたらしい。この話は憶えておこう。そして、やはり彼の画集が欲しくなってしまった。
 

2021-07-10(Sat)

 昨日につづいて、今日は「健康診断」を受ける日なので通院する。まあウチのそばのいつものクリニックでの受診だから、気楽ではある。クリニックへ行き、ちゃっちゃっと検査をすませる。血液検査の結果はわからないが、身長・体重・腹囲と血圧値ともに異常はない(まあ「身長・体重・腹囲」には異常などよほどのことがなければあり得ないし、そんなのは一目見れば「ヤバい」とわかるのだけれども、つまり「バランスが崩れてない」ということ)。ただ、体重はわたしの想定をちょっと越えていたわけだし、腹囲だってなかなかの数字だった(「メタボリックシンドローム」にけっこう近接!)。
 初めて「頸動脈超音波検査」というのも受けたが、ちょびっと「動脈硬化」の兆候が見られますね~、ということではあった。まあだからといって「生活習慣を改善いたしましょう」ということでもなかったが。
 自分としては、「もうちょっとダイエットしてもいいのではないか」という健康診断の結果ではあった。

 クリニックを出ると、今日はほんとうに久々に青空が見られた。帰宅して布団を干し、洗濯をせっせとやるのだった。

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 クリニックのロビーに「ワクチン接種」の予約案内が掲示されていて、それはちょっと古い日付のもので、「今は予約できなくなっているはずだよな」と思いながらも、いちおう家に戻ってから、市の「ワクチン接種」予約のサイトを閲覧してみた。すると意外なことにそのクリニックでの接種予約もちょっと先の期日で受け付けていて、「なんかこのまま見過ごしていると、今の政府の方策では当分まるっきしワクチン接種出来なくなるかもしれないし、昨日国分寺のクリニックの先生にも<受けて下さい>とも言われていたことだし」と思い、この7月の末に接種を受ける予約をした。ついでに3週間後の「2回目」の接種の予約も完了。やはり、かかりつけのクリニックで接種するのがいちばん安心だし、ウチからも近いからいい。
 まあこれから先、「デルタ株にはこのワクチンの効力はありません」ということになるかもしれないし、ワクチン接種したからといって浮かれてマスクを外して出歩こうというつもりもないのだけれども、やはり今のところ世界的にワクチンの効果は認められているところではあるし、副反応もあるとはいってもごく低確率のことではあるだろう。政府がモタモタしているとき、この機会を逃すとホントに「置いてけぼり」されてしまうこともあるだろうし、受けておいていいだろう。

 今はずっと、『南極探検とペンギン』を読んでいるのだけれども、「こ、こ、こ、この翻訳は何よ!?」というのを発見してしまった。ちょっと呆れてしまっているのだけれども、まあそのことは本を読み終えてから書きましょう。

 今日はちょっと、<東京オリパラ>のことから離れた「日本の進路」のことを(生意気に)書いてみようと思う。それはかつては「技術立国」、「テクノロジー大国」と言われたこの国がその路線を捨て、前の安倍晋三首相のときに「観光立国を目指す」と語ったことで、ここで日本は「先進国」の座を捨てたのだと思う。
 当時の安倍首相、そして今のスカ首相は、もう国として「人材育成」という道を放棄した。そのための「投資」をやめたということであり、このことがスカ首相の「日本学術会議」任命拒否につながっている。
 こういった「国民の<知>を伸ばす努力をせず、拒否する」というのは全体主義国家に共通する態度でもあり、「インテリ嫌い」といえる。
 そんな、1980年代から2000年代初期にかけて日本をけん引した「技術」を放棄して、「これからは観光だぜ」とやったのが安倍晋三である。言っちゃ悪いが、「観光」に「ものづくり」の才知は必要ない。ただ「風光明媚」なスポットがあればよく、なければ「カジノ」をつくるだね、というのが今の日本。「人材育成」など必要ない。「大学卒」なんて「観光国」の前ではある意味余計な学歴なのだ。これではもう日本は「世界でトップを競う国」などではなく、まあ(言っちゃ悪いが)ポリネシア諸国と並び立つような国家になるということだ。
 そんな「観光立国」への大きなステップを、インバウンド効果を期待してこの<東京オリパラ>で踏み出そうとしていたのが、安倍を引き継ぐスカ内閣の路線だったわけで、それは今でも見受けられる「おもてなし日本」という標語にも読み取れることだろう。
 こんなことを書くとアスリートの方々には失礼にも思うけれども、こうやって<東京オリンピック>が無観客開催となり、スカ首相らの思い描いた「観光立国・日本」というヴィジョンが破綻したことは、これからの日本にとって「プラス」に転化できるチャンスだろう、とは思う。
 

2021-07-09(Fri)

 今日は三ヶ月に一度の、国分寺のクリニックへの通院日。仕事も休みを取り、朝は少しのんびりとする。クリニックの予約は10時半なので、少し余裕をもって8時半ぐらいに家を出る。今日も梅雨空で、雨はそのとき降ってはいなかったが、今にも降り出しそうな雲行きだ。

 国分寺へ行くのはけっこう簡単で、途中JRの武蔵野線に乗り換えてずっと乗りつづけ、西国分寺という駅でまた乗り換えれば次の駅が国分寺。「簡単」というよりも、この経路で行くとまるで都心を通らなくていい。車内はときどき混み合うけれども、基本はけっこう空いている。車窓風景はいささか殺風景とはいえ、ずっと広い空が見れるのがいい(今日の空は灰色の雲に覆われているが)。ずっと乗り換えの心配なしに同じ電車に乗りつづけるので読書に専念できて、あまり窓の外を眺めたりもしないけれども。

 国分寺到着。

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 今日は診察というよりも処方薬をもらってくるだけの「問診」の日。特にその後変化もなく、話すこともないのだけれども、COVID-19のワクチンについて、わたしのように側頭葉てんかんの持病があり、その抑制薬を服用していることはワクチン接種に問題はないのか聞いてみた。先生は即「まったく問題はありませんよ」と答えられ、「ワクチン、受けて下さい」と言われるのだった。

 それで今日は処方薬局で不愉快な思いをした。わたしを担当した薬局員がわたしに、「その後良くなられてるのでしょうか?」みたいに、わたしの病状を聞いてくるのだ。前にもこの処方薬局では同じ目にあったことがあり、薬局として客とそういう話をすることを推奨しているのかもしれないが、この薬局はわたしの通う「てんかんクリニック」の目の前にあり、てんかんを抱えられた人が多く来られるはずである。
 まず、「てんかん」は治らない(外科手術という方策もあるが)。ただ、抑制薬で発作が起きることを防いでいるだけで、じっさいのところ「治療」ではない。そういうことを、処方薬局では「この人はこの処方薬で発作を抑えているのだな」ということまで理解すべきである。そうすれば「良くなられているでしょうか?」と聞くことがまずはナンセンスであることがわかるはずだ。
 そして、そのような「問診」まがいのことを、なぜゆえに処方薬局員が客に問わなければならないのか。まずはその処方薬局を訪れる前にクリニックで担当医と話しているわけで、そんなことを再び処方薬局で話す必要がなぜあるのか。
 わたしは正直、自分が「側頭葉てんかん」であることを、必要なく人に話したくはない。そこには自分なりにデリケートな感覚を持っているつもりだ(今、こうやって見知らぬ読者に向けて「告白」してるわけだが)。それで、悪いが「医師」でも何でもない人物が、わたしに病状を聞き、それで例えば病状が悪化していたらその薬局員は医師のような的確なアドヴァイスができるというのか。何と答えればいいのか。
 まさか「興味本位」に聞いているわけでもないとは思うが、「てんかんクリニック」の真ん前にある「調合薬局」として、てんかん患者のデリケートな気もちを理解すべきだと思う。
 気もちを抑えることができず、上記のようなことを、その担当薬局員に伝えた。普通だったらもうこの調合薬局には来たくないところだが、いちおう「自立支援医療費」の関係でこの調合薬局を書類上で指定してあるので、「もう行かない」というわけにもいかない。

 さて、いつもこの国分寺のクリニックに来たときには、帰りに三鷹とかに寄り道して駅近くのお気に入りの古本屋に行ったりするのだけれども、ちょっと今はウチにも読みさしの本、まだ読んでない本がたまっているので、「これ以上<積ン読>になることはやめよう」と、まっすぐに帰路に着くのだった。

 自宅駅に着くと少し雨が降っていた。「野良ネコ通り」を歩くと、今日はいつもの<定位置>にハナクロの姿が見られた。
 こうやって何度もハナクロと顔を合わせていると、だんだんに「かわいいな」と思うようになってくる(それでは、今までハナクロのことを「かわいい」と思ってなかったっみたいだけれども)。うん、すべてのネコはかわいいのだ。

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 東京などでは来週から、またまたまたまた<緊急事態宣言>が発令される。いつまでもいつまでもいつまでも<緊急事態>が<日常>なのだとされ、人々は精神的にも疲労困憊しつくしている。
 そんなとき、内閣の西村経済再生担当大臣が、金融機関に対して「酒の提供をつづける飲食店への働きかけを要請」して槍玉にあがっている。
 もうどこまでもどこまでも「アルコール」こそが今の「COVID-19禍」の元凶という姿勢を崩さないわけだけれども、6月からのほぼ「禁酒法」というような政策下でもこうやって新規感染者は増加をつづけているわけで、「酒を提供する飲食店のせいだ」という論法も成り立たないのではないか。しかもこの西村大臣の発言、金融機関に「あそこはヤバいぜ!」と契約を打ち切れよな!とはたらきかけるようなもので、一種「密告制度」でもあり、飲食店のみならず金融機関からの反撥の声が上がっている。
 ここまでやるのなら、今まで酒を出すことで成立していた居酒屋などに、もっとしっかりした補償をほどこすのが国の役割であり、これでは「(自分の店で酒を出すような)非国民をつるし上げろ!」という戦時下の日本の状況の再現であろう。
 まあ、自民党というのは今の情況で放置しておけば、いくらでも「戦時下の翼賛体制」を再現しようとするわけだ。