ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『南極探検とペンギン 忘れられた英雄とペンギンたちの知られざる生態』ロイド・スペンサー・デイヴィス:著 夏目大:訳

 今から109年前、1912年にあの南極探検で遭難したスコット隊と共に南極へ行き、極点行きには同行せずにひと冬をキャンプ(小屋)で過ごしたマレー・レビックは、その間キャンプ小屋周囲に無数にいるアデリーペンギンを観察し、ノートを残した。これは世界初のアデリーペンギン観察記になった。
 著者のロイド・スペンサー・デイヴィスは現在、やはり南極へ出かけてアデリーペンギンを目にし、なぜか公(おおやけ)にされずに封印されていた、マレー・レビックの観察したアデリーペンギンのノートを読む。
 いわゆる「伝記モノ」というのではなく、現在の著者の視点、そして当時のイギリスのスコット隊、及びノルウェーアムンゼン隊の「世界初の南極極点到達」を目指す冒険、そしてマレー・レビックの残したノートとアデリーペンギンの話とがこの一冊に詰め込まれている。タイトル通り、「南極探検」と「ペンギンの生態研究」と、一冊で二度おいしい本だろうか(まずは読み始めて、しょっちゅうはさみ込まれる現在の著者の視点が邪魔くさいこともあるが)。

 さて、まずはこういう「探検旅行譚」であれば、「南極大陸」の地図が欲しい本だ。というか、地図は「マストアイテム」ではあろう。いったいスコット隊とライヴァルのアムンゼン隊はどんなコースを取ったのか、マレー・レビックはどのあたりで冬を越したのか(つまり、アデリーペンギンはどこにいたのか)などということを地図で知りたいというのは、この本の読者が誰もが思うことだろう。ぜったいに、1ページでも地図を挿入してほしかった。

 それで、「地図がないならしょうがないや」と、自分でそういうことを調べることにした。まずはこの本でいちばんのスポット、何度も何度も出て来るところの、この探検のポイントとされている「アダレ岬」(この本に書かれている地名)というのを検索してみた。
 ところが、これがまるでヒットしない。「なぜなんだろう」と考えてもわからない。南極の地図も検索してみたのだが、その英語の地図で「Cape Adare」という場所を見つけた。コレか? コレなのか?
 「Adare」は「アダレ」などとは発音しないことは、ちょっと英語に親しんだ人ならばわかることだろう。まさか「ローマ字読み」などではない。「アデア」である。ちなみに「アデア岬」で検索すれば、いくらでもヒットしてくる。なんということだ。わたしはあきれてしまった。

 こんなこと、ちょっと地図を見るとか他の本を読めばわかることではないのか。この翻訳者は、そういう「参考書を読む」とかの労苦をすっ飛ばして「楽」をしたのだろうか。いや、そもそもの英語のリーディングが出来ていないのだ。一般に流通する「アデア岬」という読み方を無視して、「アダレ岬」などと、まったく流通しない地名を押し通した罪は小さくはない。まずは「非常識」である。この本を読まれた読者が「南極探検」のことを知ったつもりになって、そういうことに詳しい人に「まずはアダレ岬でね、」などと話をして、相手に「え? あなた、アダレ岬って何?」と言われてしまうシーンが思い浮かんでしまう。

 まずわたしが考えたのは、「この翻訳者は信頼に足りる翻訳者だろうか?」ということである(だって、「アデア岬」を勝手に「アダレ岬」にしてしまう翻訳者なのだから)。

 ちょっとそのことで、コレは些細なことかもしれないけれども、やはり気になったことを一、二書いておく。

 まずここで、著者のロイド・スペンサー・デイヴィスが読んでこの本を書くきっかけになったのは、スコット探検隊に同行したマレー・レビックのノートブックによるのだけれども、このマレー・レビックという人、英語表記では「Murray Levick」なのだった。
 これって、日本語表記にすれば「マレー・レヴィック」とする方がいいのではないのか? 特に、この本の著者が「ロイド・スペンサー・デイヴィス」と表記されているというのに、なぜ「Murray Levick」は「マレー・レビック」になるのか。著者が「デイヴィス」ならば、この「Levick」の表記は当然「レヴィック」にするべきではないのか? これはいわゆる「ダブル・スタンダード」ということだろう。

 もうひとつ。「アデリー・ペンギン」という表記にも疑問がある。今の日本語表記で、動物の「種」をあらわすとき、「・(ナカグロ)」というものは使わないのが通例である。つまり、「ジャイアントパンダ」は「ジャイアント・パンダ」とは表記しないのだ。「コツメカワウソ」は「コツメ・カワウソ」などとは決して表記しない。わたしなども今まで、「アデリーペンギン」という表記に慣れてきたので、「アデリー・ペンギン」などといちいち書かれると気色悪いところがある。
 こういうことは「大したことではない」と思われるかもしれないけれども、こと「動物学」に関わる書物でこういうことをやられると、じっさいのところ、「ああ、翻訳者は<動物学>に明るい人ではないのだな」と思うしかない。

 もちろん、ここまで書いてきたことは、この『南極探検とペンギン』という書物の、その内容に深く関わるわけでもなく、こんなことは無視してもちゃんと読めるのだ。
 しかし、(もう面倒なのであまり詳しくは書かないが)この著者のロイド・スペンサー・デイヴィスは、「動物学」にも、さらに「人間学」にも明るい方ではないのだろう。とりあえず「南極探検」のスコット隊とアムンゼン隊との「争い」のことは置いておいて(その部分は充分に面白く読めたけれども、それはおそらく類書でもすでに書かれていたことではないかと思う)、肝心の「アデリーペンギン」の生態についての解釈は、おそらく間違っている。
 ここで著者は「性欲」という問題を過大に読み取ろうとし、アデリーペンギンの繁殖活動に「性欲」を読み取ろうとし、そのことのアナロジーで「人間たち」の「性欲」をも対比して書こうとするのだけれども、はっきり言ってそれは「卑俗」な読み取り方であり(著者はヴィクトリア朝時代の「性観念」をマレー・レヴィックのノートにも読み取ろうとするのだが)、そもそもがこの本の書き方からも、「文献」の」裏付けなくして勝手な想像から(卑俗な方向に)逸脱しているし、つまり、アデリーペンギンにせよ、この「人類」にせよ、そ~んなつまらないことで解釈したってしょうがないのだ。今さら「フロイト」ではないのである。「学問」というものは、こういう地平には存在しないな。そういうことはわたしだって言っておきたくなるし、わたし自身アデリーペンギンは大好きなので、誰かがアデリーペンギンのことを知りたいのであれば、もっと別の本を読んでほしい気もちはある。