ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2021-02-20(Sat)

 朝はまず、土曜日だからピーター・バラカン氏の「ウイークエンド サンシャイン」を聴くのだが、この朝は先日亡くなられたチック・コリアの特集だった。チック・コリアは、わたしがちょうどジャズにのめり込んでいた時期に、マイルスのアルバムに参加したり、売れに売れたアルバム「Return To Forever」をリリースしたりと、めきめき頭角をあらわしてきたミュージシャンだった。「Return To Forever」のアルバムが発売されたのが1971年だったというから、ちょうど今から五十年前のことだ。まあこのあたりからいわゆる「フュージョン」などというものも派生して、このあたりの音楽はつまらなくなってしまったのだった。やはりわたしにとってチック・コリアがいちばん印象に残るのはマイルスの「In a Silent Way」かなあ。
 どうせUSBにエアチェックしているから律儀にその場で聴かなくてもいいのだけれども、いちおう番組をほぼ全部聴いてから、「Go To Park」&「お買い物」にお出かけ。今日も雲ひとつない青空で、昼には四月ぐらいの陽気になるといっている。

 今日は土曜日で仕事も休み。それで20日なので駅の方のドラッグストアでは、某ポイントカードにたまったポイントが1.5倍に換算されて使える。わたしはこういうのにすぐ騙されるわけで、けっこうポイントがたまっていて1.5倍するなら3千円ぐらいになる。まったく現金を使わずにそれだけお買い物が出来るのはやはりうれしいので、午前中にそのドラッグストアに出かける。で、ウチからドラッグストアに行くにはやはり「ふるさと公園」を突っ切って行く。今日はどんな鳥に出会えるだろうか。
 前に「ふるさと公園」に来たときには、ほとんどカモたちの姿は見られなかったのだけれども、この朝はかなりの数のカモたちがいた。

 それでわたしは「カモ」というと「マガモ」か「カルガモ」かぐらいしか知らなかったのだけれども、この日撮ったカモたちの写真をあとで見て調べてみると、今まで「マガモ」とばかり思っていたヤツらも、実は「マガモ」というわけでもないらしいことがわかった。
 例えば、このたくさん群れているカモたちは、頭部がツートンカラーになっていて、ワンカラーのマガモではない。このカモは「ヨシガモ」というらしい。

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 そして、このカモはクチバシの先が黄色くなっていて、これが「カルガモ」なのだ(わたしは「カルガモ」というのは全身が茶色いカモだと思っていた)。仲が良さそうだ。

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 そして今日も、コブハクチョウは華麗な姿を見せてくれていた。

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 このほかに、シラサギ、オオバンなど、いつもの顔ぶれだ。
 池のふちを歩いていると、その池の対面で三脚などを立てて、カメラを同じ方向に構えている人たちの姿が見えた。ひょっとしたら珍しい鳥がいるのかもしれない。ああいう「野鳥撮影家」になると、もう一日仕事だからなあ。わたしはあくまでこのチープなデジカメで撮れる範囲で、偶然出会った野鳥を撮影できればいいのだ。自分の<分>をわきまえることが大切だ。

 公園を出てドラッグストアに着き、またチョコレートとかを買うのだが、ポイントがあるからと、電池シェーバーを買ってしまった。こういうのはオモチャみたいなもので、あんまり性能も剃りごこちも良くないのはわかってるんだけれども、「ま、いいや」と買ってしまった。こういうのが「ポイント換金」の良くないところだ。でも、使えるポイントはちょうどピッタリぐらいにほぼ全部使い終えた。

 帰り道はまた公園を通って帰ったのだが、来るときにいっぱいいたカモたちやシラサギ、そしてハクチョウらはみ~んな姿が見えなくなっていて、ただオオバンたちばかりが池を泳いだり、岸辺でエサをついばんだりしているのだった。
 いつも通る道ではない、公園の駐車場のある方の道を行ってみると、そこにはけっこうおしゃれなオープン・カフェもあった(まだ営業してなかった)。

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 そして、駐車場から出るところでは梅の木が並んでいて、もう満開になっている木も見受けられた。春である。

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 帰宅してのんびりとして、昼食をとり、そのあとはまた「数独」をやったりして無為に時を過ごすが、夕方からはテニスの「全豪オープン」の女子の決勝、大坂なおみvs.ジェニファー・ブレイディをしっかり全部見てしまった。大坂なおみ、貫禄の勝利ではあった。
 夕食のあとは何とか読書に励もうとしたけれども、けっきょくほとんど読めないままニェネントくんと遊び、寝てしまったのだった。
 

2021-02-19(Fri)

 音楽をすっかり聴かなくなった。リヴィングに居て、別にしっかりと見てもいないのにテレビをつけっぱなしにしている。それならば音楽を聴いていた方がよほどいいだろうに。寝るときも、以前はベッドのそばに置いたラジカセをつけて聴いたりしていたのだけれども、まるでそういうことをやらなくなった。音楽が人の精神にどのような影響を与えるかを考えれば、今の生活でもっと音楽を聴くべきだ。
 そのことで考えて、今和室に置いてあるラジカセが、ちょっと使いにくい。MDが聴けることを優先して選んだラジカセだけれども、今はMDというものをほとんど聴かなくなってしまった。そもそも、新しく録音をしたいというときにはもうMDというメディアの手持ちもない。
 今のわたしはMDやCDを聴くよりも、例えばYouTubeからならばほとんどどんな音源でも聴くことが出来るわけだから、古い音源を聴きたければわざわざCDを買ったりせずにYouTubeとかを活用すればいいわけだし、YouTubeならCD化されていないライヴ音源などもいっぱい聴くことが出来る(特にわたしのお気に入りのGrateful Deadなど、YouTubeは未発表ライヴ音源の宝庫である)。
 YouTubeに限らず、ネットにはいろいろな音楽を聴けるサイトがあるわけで、わたしはせっかくリヴィングにUSB録音できるミニコンポがあるというのに、そのUSBは毎週土曜日のFM、「ウイークエンド サンシャイン」と「世界の快適音楽セレクション」を予約録音するだけにしか使っていなくって、録音してもほんとうに稀にしか聴き返さなくなっている。
 これを、もう一台チープなものでいいからUSBの再生出来るラジカセを買い、和室の方に置いて、寝るときとかにUSBに録音した音楽を聴くというのがいいように思える。
 今ではMDのメディアも生産中止で売られなくなっているので、MDの活用ということが難しくなっている(探せばまだMDも売られているけれども)。しかしUSBメモリーはいくらでも売られているし、コイツは録音できる時間もとてつもなく長大だ。やはり、もっとUSBを活用することを考えたい(って、すぐに新しい買い物をしたくなるわけだが)。

 電子レンジだとかオーブントースターも買いたいと思っているわけだし(これはそれほど火急に必要だということでもなくなったが)、ショルダーバッグだって欲しいとは思っている。まあ「買いたいモノリスト」を増やすばかりの生活かな。ただ、飲む酒の量をかなり減らしたわけだし、特に今月は食事もアルファ米ばかりで、食費にかけた費用もすっごく少なくなっていると思う。まあ月末に2月分の支出明細を出せばわかると思うけれども、とにかく今ならちょっと余裕もあるのではないかと思っている。こんな「COVID-19禍」のもとで、わたしのような人間が困窮せずにすんでいるというのも、なんと僥倖なことではあるだろうか。ただ「ラッキーだった」というしかないのだが。

 それはいいのだが、「数独」などに夢中になったりして(いや、それほどに熱中しているわけではないが)、読書のペースが落ちている。ジョイスの『ユリシーズ』はそもそもちゃっちゃっと読み進めることは出来ないし、これが「数独」など問題にならない記憶力を要求される本なのだ。何十人もの登場人物が出てきて、その人物は前に読んだところにも出てきた人間らしいのだが、もうすっかり憶えていないね、などということの連続ではある。当初の予定では3月の初旬には全4巻読了できるだろうと踏んでいたけれども、今はまだ第2巻を読んでいるところ(あと40ページぐらいだが)。おそらく今のペースでは3月中旬いっぱいかかってしまいそうだ。
 『ユリシーズ』を読み終えたら、今はジェイムズ・ジョイスという人の生き方にとても興味があるので、ジョイスの伝記を読んでみたいとは思っている(ナボコフの伝記も上巻を読んだだけで下巻は放置してあるのだけれども、ナボコフ氏にはもうちょっと待って辛抱していただこう)。
 もう一方の『世界動物発見史』の方も、「あと100ページ」というところから、なかなか先に進まない。こちらも、次に「カモノハシ」の本が待っているので、早く読了したいのだが。

 今日はやはり晴天で、それほどには暖かくもないのだけれども、明日明後日は4月並みの暖かさになるようなことも聞いている。
 自宅駅のそばのレンガ張りの道路のすき間から雑草が生えていて、黄色い春らしい花を咲かせていた。

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『ホーリー・モーターズ』(2012) レオス・カラックス:脚本・監督

ホーリー・モーターズ [DVD]

ホーリー・モーターズ [DVD]

  • 発売日: 2020/08/05
  • メディア: DVD

 本編が始まる前に、レオス・カラックス自身が登場する導入部がある。ベッドで犬と共に寝ていたカラックスがベッドから起き、部屋の中をさまよう。カラックスの右手中指の先は金属の棒になっていて、「鍵」になっているようだ。壁の中にある「鍵穴」にその指の鍵を差し込み、壁を押し破るとその先は広い映画館の観客席を背後から見下ろせるフェンス上段になっている。満員の観客は何か上映されている映画を観ているのだろう。カラックスはそれを上から見下ろしている。画面にはマイブリッジの撮った、運動する男性の短い映像が挿入される。

 本編の主人公を演じるのはドニ・ラヴァンで、エディット・スコブの運転する長い長い車体のリムジンに乗り、映画内のその日一日を通して、パリ市内のさまざまな場所でその衣装、容姿を変えながらさまざまな役を演じて行くことになる。それはほとんど、映画に出演する役者がかけもちをしながらあちこちに移動して行くようではある。そして、ドニ・ラヴァンが扮装して演技をする各パートは、それぞれが「映画」という世界のさまざまなジャンルをあらわしているようだ。それはSFXを駆使した映像による作品だったり、「怪獣映画」(ゴジラ!)であったり、墓場を舞台とした怪奇幻想映画風であったり、ギャング映画であったり、父親と娘とのシリアスな対話、男の臨終のシリアスな場面、そしてミュージカル、音楽映画であったりもするだろう。

 わたしはちょうど今、ジョイスの『ユリシーズ』を読んでいるのだけれども、『ユリシーズ』はダブリンの街をさまようレオポルド・ブルームという男を中心に、1904年6月16日の一日間のダブリンを多層的に描き、とりわけさまざまな文学的世界観から世界を眺め、さまざまな文体を使用することで「文学史」そのものを一篇の小説として提示する試みとも解釈できると思うのだが、それでこの『ホーリー・モーターズ』を観て、この作品は一面でそんな『ユリシーズ』的試みの映画版、と考えられるのではないかと思うのだった。

 『ホーリー・モーターズ』では撮影場所はどこまでも「パリ」にこだわり、レオポルド・ブルーム的で狂言回し的主人公をドニ・ラヴァンが演じる。そしてさまざまなシークエンスは、ジョイスが『ユリシーズ』で章ごとにさまざまな文体を使い分けたように、さまざまな「映画史」「映画ジャンル」を横断するものとして、観るものを「映画的世界」の中に迷い込ませるような作品ではないかと。
 そして、そのようなある意味でとりとめもない「断片」の集積とも言えるようなこの作品を、力強くも説得力のあるものとし得たのはやはり、レオス・カラックスの卓越した演出力、脚本のちからだっただろうと思う。
 このような作品を撮るということは、まずは表現としても「映画」というものをいちど解体し、そこから再構築するという作業が要求されることだろう。

 映画の中で真夜中になり、ドニ・ラヴァンは「この日のアポ(それぞれの現場のこと?)は皆終わった」と自宅へ帰って家族と会うのだが、その妻と子供らはチンパンジーであり、映画の冒頭で彼が「行ってきます」とあいさつした妻子ではない。これはつまり、「アポ」はまるで終わってはいなくって、まだまだ継続中なのだ、ということなのだろうか。
 運転手だったエディット・スコブはリムジンを「ホーリー・モーターズ」という建物の車庫に格納し、自分の顔に仮面をはめて帰って行くのだけれども、この「仮面」はエディット・スコブがかつて出演した『顔のない眼』で彼女がかぶった「仮面」なのである(わたしは『顔のない眼』をじっさいに観た記憶はないけれども、この映画の仮面のヴィジュアルは何度も目にする機会があり、よく記憶している)。このこともまた、彼女にとって「運転手」の仕事が終わったあとに退出する世界とはまさに「映画」の世界であることを暗示している。
 それは冒頭のレオス・カラックスが目覚めるシーンからして、実はそこから「夢」としての「映画」が始まっていたのだ、ということでもあったのだろう。

 人間の去ったあと、リムジンが何台も並んだ格納所では、なんとリムジンたちが「くたびれたぜ!」みたいな会話を始める。リムジンたちは人間たちのことを語り、「人間はもはや行為を望まない」ということばでこの映画は終わる。
 このような意味深なセリフは映画中にちりばめられていて、「カメラが大きかった時代がなつかしい」などというセリフからは、この映画がSF的に、最小化されて目に見えなくなったカメラで撮影されていることが暗示されていたようにも思う。「美しさ、それは見るものの瞳の中にあるという」「見るものがいなければ?」というようなセリフにも、この映画を考えるヒントがあるだろう。

 もともと寡作であるレオス・カラックスだけれども、ここまでに一度映画というものを解体・再構築するという作業をやってしまうと、もう新作を撮るというのは困難ではないだろうか、レオス・カラックスにとって、「映画作家」としてのキャリアはこれで終わりなのかもしれない、とは思った。
 それは、デイヴィッド・リンチの『インランド・エンパイア』を観たとき、「ああ、ここまでやっちゃうと、もうデイヴィッド・リンチ長編映画を撮ることはないんじゃないだろうか」と思ったことにも似ている気もちではあった(ちょっと違うことはわかっているけれども)。
 

2021-02-18(Thu)

 夢を見て、けっこう今でもその内容は記憶している。まあけっこう個人的な夢だったので書かないけれども、居酒屋のようなところで大勢で酒を飲むような場面もあったし、皆である一軒家の裏側に行ってみるとそこは海だったりして、皆で泳いだりもしたのだった。

 職場で、見たことのない虫を目にした。体長は2.5センチぐらいで、体つきはカメムシっぽい。カメムシだと触ったりするとすっごい匂いをまき散らされたりするので、触らないようにして掃きとって、植え込みにご退場いただいた。写真を撮ったけれども、ちょっとピンボケ(虫が苦手な方、すみません)。

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 帰宅して画像検索するとやはりカメムシ類がヒットして、「クサギカメムシ」というのが、大きさも胴の周囲の縞模様などいちばん似ているのだけれども、頭のかたちが違うのだな。とにかくはコヤツは「害虫」ということで、駆除してしまった方が良かったのかもしれない。「何でもいのちを粗末にしない」という考えは、万能というわけではない。

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 しかしコヤツ、カメムシの中でも「最も臭気の強い種のひとつ」だという。不用意に触ったりしないでよかった。仮に踏みつぶしたりしちゃったら靴が強烈に臭くなり、電車にも乗れなくなってしまうかもしれない。
 Wikipediaによると、やはり春になるとあちこち飛び回り始めるということで、「春近し」ということをこういうことで知ったりもする(「啓蟄」にはまだちょっと早いが)。

 実は昨日あたりから、スマホで出来る「数独」パズルにハマってしまった。パズルとかゲームのたぐいにハマってしまうと大切な読書の時間が奪われてしまうから、「ぜったいにパズルやゲームはやらないぞ」と誓っていたのだけれども、実はけっこう以前から、自宅ではパソコンでトランプゲームとかをやるようになっている。けっこう一回始めると30分ぐらいやってしまうのだけれども、それがついにスマホでもパズルをやるようになってしまった。
 「数独」はずいぶん昔、30年ぐらい前にけっこうハマったことがあったのだが、先日電車の中でスマホで「数独」をやられている方を見かけ、「そうか、スマホで<数独>が出来るんだよな。いちいち鉛筆とか用意しなくていいからとっつき易そうだな」とは何となく思っていたのだが、ついに自分で始めてしまった。
 「数独」というのは説明する必要もないと思うけれども、「ナンバープレイス」とも言って、9×9のマス目に1から9の数字を入れていき、縦の列、横の列、そして3×3のマスの中に同じ数字がダブらないようにすべてのマス目を埋めてしまえばいいのだ。
 その歴史は数学パズルとして古いのだが、現在のかたちのものは1979年にニューヨークで出されたらしい。あちらではそんなにブームにはならなかったらしいけれども、そのちょっとあとに日本ではけっこうブームになり、小さなノートに問題がぎっしり詰め込まれたものがコンビニとかで売られるようになり、わたしも昔はそういうのを買っていた。
 そんな「数独」の本をニュージーランド人が買って帰り、パソコンでその問題を自動作成させることに成功して、イギリスの日刊紙「Times」に売り込む。これがけっこう大きなブームになり、イギリスの日刊紙はみ~んな「数独」の問題を毎日掲載するようになったらしい。ちなみに、海外でもこのパズルは「Sudoku」と呼ばれているとか。Wikipediaによると、「イギリスでの人気は他国にも飛び火し、パズルとしては1980年頃のルービック・キューブ以来の大流行と言われた」ということ。

 これがいちおうですね、ネットでみると「記憶力を高める可能性」だとか「認知機能が高まる可能性」だとか「論理的な思考パターンが身につく」とか書かれているわけで、まああくまで「可能性」にすぎなかったりするけれども、わたしとしては「記憶力」だとか「認知機能」とか言われると弱いのですね。
 まあそんな理由で始めたわけでもないけれども、昨日今日と、仕事の合い間とかにちょろっと2~3問やってみている(とにかく最近、仕事がヒマですから)。
 久しぶりにやってみた感じで、これはわたしの場合、「記憶力」にはほとんど関係がないと思った。やっていて、どこにどんな数字が置かれているかなんか基本は記憶しちゃいない。その場その場で「待てよ、これはこうじゃないか」と推測することの連続であろう。そういうところで推測能力は使うだろうし、「認知機能」は高まるという可能性はあるかもしれない。でも、まあ結局は「ヒマつぶし」的要素こそが強いだろう。
 わたしは本来はそういう時間があれば「読書」とかをしたいわけだが、おかげで今読んでいる『ユリシーズ』、『世界動物発見史』に割く時間が削られてしまった。あんまり「数独」に熱中しないようにしよう。

 今日は「GYAO!」の無料配信映画で、明日で配信が終わってしまうレオス・カラックス監督の『ホーリー・モーターズ』を観た。
 

2021-02-17(Wed)

 すっごい久しぶりに、野良ネコの「殿」の姿を見た。去年の12月の初め以来のことで、2ヶ月半ぶりぐらいのことになる。いつもその姿を見た「野良ネコ通り」のはずれ、駐車場の奥の「玉座」(「殿」なのだから、「玉座」ということはないか)に鎮座ましましてござった。

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 なんだか「くしゃっ」というお顔をされておられるが、とにかくはその元気なお姿を拝見することが出来てうれしい。感無量である。

 ツィッターをみていると、先日の地震で飼いネコがおどろいて家を飛び出てしまい、戻って来ないというツイートが何件かあった。夜中で誰もが戸締りをして寝ようとしている時間だったのだけれども、どうして外に出てしまったのだろうか。地震のせいで窓枠が外れてしまったとかいうことだったのか。事情はよくわからないけれども、とにかくは飼っているネコが外に逃げてしまって、そのまま戻って来ないということほど心配なことはない。ネコの方も、地震の揺れでおびえてしまって、もう平常心をすっかり失ってしまったのだろう。

 ウチのニェネントも以前よく、わたしが洗濯物を干すために窓を開けたスキをついて、外に飛び出してしまったものだった。ただ、地震とかでパニックになって飛び出したわけではなく、「窓の外はどんな世界?」という好奇心からの「冒険」だったのだろうと思う。幸いにもウチの前はよその家が並んで建っているわけではなく、けっこう広い「空き地」になっているので、ウチからもニェネントがどこへ出て行ったのかはちゃんと確認できる。ニェネントもよその家の庭に入り込むことはあっても、その家の裏側に行ってしまったり、わたしの視野から外れてしまうようなことはなかった。ただ、よっその家の庭に入ってしまうと、追い戻すわけにもいかないし、名まえを呼んでも戻って来ないし、長いときは30分ぐらい家に戻って来なかったときもあった。
 先日も、わたしが窓の施錠をし忘れて仕事に出てしまい、帰ってみると窓がニェネントが通れるぐらい開いていたことがあった。ニェネントはちゃんと室内でおとなしくしていたのだけれども、どうもわたしがいないあいだ、自分で窓を開けて好きなだけ外で遊んでいた気配がある。それで外に飽いて自分で部屋に戻ったのだろう。
 どうやらニェネントはもう、「外の世界はそんなに楽しいものでもない」とでも思っているようで、ついこのあいだも、わたしが洗濯物を干しているときに外に飛び出てしまったことがあるけれども、ほんの2~3分外にいただけで、すぐに部屋に戻ったのだった。

 でも、例えば地震で室内で大きな音を立てて何かが崩落したりだったりすると、ネコなりに「この住まいは危険だ」と判断して外に逃げ、戻って来ないのかもしれない。そうなると大変だ。
 ただ、ネコの行動範囲はそんなに広くなく、特に「飼いネコ」の場合は家の外に飛び出ても、せいぜい家の周囲50メートルぐらいの範囲しか動かないともいう。そうすると探す範囲も狭まって、意外と見つけられる可能性も高いのではないか。あとは、飼い主とそのネコとの「親和力」みたいなことになるだろうか。家の外で自分ちのネコを見つけて、呼んだらそのネコは飼い主のところに来てくれるだろうか。そういうことになる。
 ネコの方でも、家を飛び出てみても「外の世界」はいろいろと恐ろしいし、食べるものもないとなると、飼い主の姿を見つけると寄って来るだろうか。
 ニェネントの場合、外に飛び出たときは「外への好奇心」の方が先に立っていたからか、わたしが呼んでもまったく知らん顔で、「今までのわたしたちの<きずな>はどこに行ってしまったの?」と思ってしまったのだったが、地震とかで飛び出してしまったときというのはどうなるんだろう?
 ただやはり、飼いネコが飛び出してしまったあと、どうしたらいいかわからなくっても、まずはネコが家に戻って来れるようにどこかをいつも開けっ放しにしておくべきだろう。「やっぱりココがいい」と、自分で戻って来る可能性はけっこうある。今の季節、夜は寒いだろうけれども、ネコの帰り道をつくっておいてあげるべきだと思う。そして、その「帰り道」のところに、ネコご飯を皿に入れて出しておいてあげる。あとは近所を探し回るしかないだろうか。

 昨日はポカポカと「春本番」という天候だったけれども、今日はいくぶん気温も低かったようだ。朝も寒かったし、仕事を終えて帰宅しても、寒暖計は12度ぐらいだった。やはりまだ、「電気ストーブ」のお世話になる。
 このところアルファ米ばっかり食べていたのだけれども、今日はほんとうに久しぶりに白米を炊いた。やっぱり、炊き立てのご飯は美味しい。
 

2021-02-16(Tue)

 今日は仕事の帰りに、駅の向こうのドラッグストアに買い物に寄り、また「ふるさと公園」を突っ切ってウチに帰ることにした。
 昨日は大雨だったが、今日は晴れ。気温がどんどん上がり、自宅駅に着いて外を歩くと汗ばむほどだった。ドラッグストアへ着き、最近アルコールの代わりにゴクゴク飲んでいるチョコレートドリンク、そしてボリボリ食べているチョコレート類を買い込んだ。
 今では、ウチのテーブルの上には何種類ものチョコレートの袋が重なっている状態だ。アルコールはまったく飲まなくなったということはないが、量は相当に減少した。少なくとも4分の1ぐらいの量にはなっているだろう。

 「ふるさと公園」では、いつもと同じ顔ぶれの野鳥らに出会った。まだ生まれて間もないような、ふかふかの羽毛に包まれたカモの雛の姿を見たけれども、この子がマガモの子なのかどうかはわからない。そもそも、カモの種類なのかどうかも不明だ。

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 ハクチョウは岸辺に上がって羽根づくろいをしていたけれども、そのハクチョウの向こうに黒い鳥がいた。わたしはこの公園にたくさんいるオオバンかと思っていたけれども、あとで写真を見るとオオバンのようにくちばしが白くないし、逆に胸のところが白いようで、何の鳥なのかはわからない。

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 公園を出て、家に向かって歩きながら空を見ると、白い雲が浮かんでいた。
 このあたりには畑が拡がっていて、雑木林の丘(実は城址)もあり、今だ開発の手の入らない、のどかな風景だと思う。

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 ウチに帰って寒暖計を見ると、20度を指していた。もうすっかり春の陽気だろう。ニェネントもリヴィングに出てきて、出窓の上にあがって「ひなたぼっこ」をする。この写真をみても、おなかの肉(脂肪)がたるんで、はみ出ているように見えるではないか。

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 テレビをつけて、「今日も国会中継はないのか」と番組表を見てみると、テレビ東京で映画『ミスト』を放映していた。もう、『ミスト』はそれこそ「悪夢」のような映画で、前に観たときはそのラストで、どっぷりと絶望的な気分になったものだった。今はもう、実世界そのものが深い霧に覆われて『ミスト』のような絶望的なことになってしまっているのだけれども、逆に今、そんな「虚構」として「絶望的」な『ミスト』という映画を観れば、少しは現世界の<絶望>を忘れられるのではないかと、チャンネルを選択し、そんなにがっちりと観たわけでもないけれども、最後まで観てしまった。これって、舞台はスーパーマーケットで、みんなが外に出られなくなっているということで、一種「ゾンビ映画」の変種っぽいところがあると思った。ゾンビ映画第一作『ゾンビ』のラストも、「もう誰も助からないだろう」という絶望的なところがあったし、構造は同じだろうか。そういう風に、「これは<ゾンビ映画>なのだ」と思って観ていると、結末を知っていることもあってずいぶんと楽しめた。つまりはとっても面白かった。

 さて、ネットをみていると、去年から「あいちトリエンナーレ」をめぐって愛知県の大村知事のリコール住民投票を求める署名運動が行われていたのだけれども、43万を越える署名を受け取った愛知県の選挙管理委員会は、提出署名全体の8割が「無効署名」との調査結果を発表していた。それが今日になって、愛知を遠く離れた佐賀県で、この「名簿の書き写し」のアルバイトが募集されていたことがわかった。じっさいにそのアルバイトに応募して従事した男性があらわれたのだ。
 地方自治法における有権者の政治家らへのリコール請求は、民主主義の基幹のひとつであり、有権者の権利でもあるだろうけれども、そこで「不正」がじっさいに行われたというのなら、それは「<法>を<法>と思わない」、民主主義をないがしろにするやくざ者のすることであろう。しかもこの署名運動に並行して、クラウドファウンディングも行われている。
 そのクラウドファウンディングで集められた資金がどのように使われたのかわからないが、それが仮に「<名簿の書き写し>のアルバイト」の賃金として使われていたとしたならば、これは<重罪>である。
 リコール運動を主導した人物、協力した人物ははっきりしており、ここでは敢えて書かないけれども、某政治家も協力していた疑いがある。もしもこの一件が立件されるならば、その政治家は当然罷免されなければならないだろうし、その人物の所属する政党は、そんじょそこらの<謝罪>では済まされないのではないだろうか。

 この<事件>はある面で「ネトウヨ」的思考回路の<暴走>であり、そんな「ネトウヨ」が<理念>を持ち合わせていないことの結果なのではないだろうか。こう言ってはアレだけれども、ちゃんとした<理念>を持っている、正統な「右翼」は決してこのようなことをやるわけもない。わたしはそのような正統な「右翼」の方々には一目置くところもあるのだけれども、「ネトウヨ」は、単に<憎しみ>を原理に動くだけのように見える。ヘイトスピーチをまき散らし、ただ権力に追従するだけの「ネトウヨ」らが消滅すれば、(スカ政権の無為無策はあるけれども)どれだけ今の日本もスッキリすることだろう。
 

2021-02-15(Mon)

 ニェネントくんは、太った。
 体重計がないから、しかとした体重など不明だけれども、のっそりと歩く後ろ姿をみると、胴が以前より丸々としていると思うし、おなかの肉(脂肪)がたっぷたっぷしている。ニェネントを抱いて膝の上でそのおなかを上にすると肉(脂肪)が左右にひろがって、おなかの面積がめっちゃ広くなったみたいに見える。
 思い当たるふしはある。2ヶ月ぐらい前から、夕食のネコ缶を与える分量を増やすようになったのだ。それまでは毎回、ネコ缶の2分の1量をあげていたのだけれども、いつもあっという間に食べ終えてしまうし、「食べ足りないのだろうか?」と思ったし、何かで「もっとあげてもいい」みたいに書かれているのを読んだ記憶がある。それで、1缶の3分の2の量に増やしたのだった。考えてみれば33パーセントの増量だった。それでもニェネントは食べ残すことなく、ガンガン食べつづけたのだ。それで結果として太った。

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 やはり、太り過ぎは良くない。まだそこまで「肥満」ということでもないが、けっきょくネコ缶は1缶の2分の1がニェネントには「適量」だったということだ。今日から、元の「適量」に戻すことにした。

 今日は早朝に家を出るときも道路に雨が降ったあとがあったけれど、そのときは雨は降っていなかった。それが9時ごろから雨が降り始め、だんだんに雨脚も強くなるのだった。
 仕事が終わって帰路に着くころにはもう本格的な雨で、「こんな強い雨も久しぶりのことだ」と思う。自宅駅に着くとそれなりに風もあり、傘をしっかり風に向けてささないと、傘も役に立たない。それでもズボンとかはけっこう雨で濡れてしまった。
 自宅のそばにはけっこう大きな水たまりが出来ていて、そこにたまった水は土を運んできて黄色い色をしている。これはまさに、「大雨」のときの水たまりの色だ。

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 強い雨は3時ごろまでは降りつづけたようだったけれども、いつしか雨音もしなくなり、そのうちに外には青空ものぞくようになっていた。
 ツィッターをみていると、東京など南関東のいろんなところで雨のやんだあとに美しい虹が見られたといい、そんなきれいな半円を描いて、しかも二重になっている各地の虹の写真が、あれこれといっぱいアップされていた。
 わたしもそんな虹を見たかったものだと思ったけれども、はたしてこのあたりでも虹は見られたのだろうか。