ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2019-09-29(Sun)

 ニェネントはこのあいだわたしが寝るときに遊びに来てくれて、それからまた「そっけないニェネント」に戻ってしまっていたのだが、この夜は寝るときにリヴィングでゴロゴロしていたニェネントを抱いてベッドに連れて行き、「あんたはかわいいね~」とか撫でまわしてやったのだけれども、それが気に入ったのか、いちど解放してあげたあとになってまたベッドに跳び乗ってきて、「もうちょっと遊ぼうよ」みたいな感じ。それで「いい子、いい子」とやってあげ、あともうちょっとかな?という下あごの皮膚炎が早く良くなるといいね、と願いをこめてあげる。
 それでニェネントも降りて行って、わたしは寝る前にちょっと本を読もうとしていたら、またもやニェネントくんはベッドに上がって来るのだった。珍しいことだ。もう一回、たっぷりと遊ぶ。

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 やっぱりニェネントにとってはまだわたしは「親代わり」なところがあって、普段は「フン!わたしだってもう熟年で、しっかり<独り立ち>してるんですわよ!」みたいな、わたしのことを無視した行動を取るのだけれども(それでもわたしのことを気にしているのはわかるのだけれども)、ふいに、わたしが寝ようとするときなどに、「ちょっと甘えちゃおうかな?」みたいな気分になるようだ。うんうん、まだまだいっぱい甘えてくれていいんですよ。

 それで今は夜寝るとき、ずっと読んでいた『グリム童話集』をお休みして、岩波文庫中島敦集、『山月記・李陵』を読み始めた。というのも、もう昨日から神奈川の近代文学館での「中島敦展」が始まっているわけで、わたしが行くのはきっと11月になってからになるだろうとはいえ、それまでに少し読んでおこうと思ったのだ。もちろん過去にいくつか彼の作品は読んでいるのだけれども、「強烈な印象だった」という以上に、それぞれの作品の細部まで記憶しているわけではないのだ。
 今は文庫のしょっぱなの『李陵』を読んでいるのだが、やはり「すこぶる」面白いのである。これはアレか、権力と個人の関係をとらえようとしているのだろうか。
 

『メランコリック』田中征爾:脚本・監督・編集

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 ‥‥冒頭は、「いわゆるクライム・サスペンスが始まるのか?」という雰囲気なのだが、まあ撮影とか照明とかはよろしくはない。「どうなのか?」と観ていると、つまり営業を終えた町の銭湯が、「殺し」を請け負った殺し屋の「作業場」であり、作業が終わればちゃっちゃっと掃除をし(タイル張りだから簡単だろう)、死体は風呂釜で焼却してしまえばいいのだ。‥‥こ、こ、これはすごい! いやじっさいに日本の風呂屋のどこかでこんなことが行われているのではないのかと思わされてしまう。後片付け簡単、死体はすべて灰になってしまう。それで風呂の湯が沸き、エコロジーである。

 っつうか、その風呂屋で、東大を出ていながら就職もせずバイト生活を続ける主人公が働くことになる。当然彼はその風呂屋で営業終了後にやられている「作業」のことは知らないのだけれども、ついに知ってしまう日がくる。そして、彼もまたその「作業」の手伝いをやることになるのだ。

 ‥‥異様な面白さだった。この面白さをどう伝えたらいいのかな? まずは出演者(わたしは誰一人知らなかった)がみんなとってもキュート。そして、銭湯を舞台としてのクリミナル・サスペンスでありながら微笑ましいラブストーリーもあり、それでホーム・コメディーっぽかったりもする。最後は男と男の友情で泣けるというか。
 タランティーノ映画をう~んとハッピーにしたようでもあり、(実はこれを書いているときにちょこっと阿部和重の新作を読んだこともあり)阿部和重テイストもあるというか。
 この田中征爾という監督はこの作品が監督第一作らしく、この作品で去年の東京国際映画祭、日本映画スプラッシュ部門監督賞受賞したらしい。そもそもはこの作品の主演男優の皆川暢二という人物が声を上げ、自らプロデューサーとしてこの作品を立ち上げたらしい。彼の同僚役で印象に残る磯崎義知もまた、単に俳優というにとどまらないキャリアの持ち主で、この監督と主演俳優二人、同世代の三人によってつくられた映画だという。こういうのを「日本映画の新しい波」ともいえるのかもしれない。またもういちど観たくなってしまった。
 

2019-09-28(Sat)

 前にツィッターで『メランコリック』という映画のことを知り、面白そうだと思い、「こういうのはウチのとなり駅の例の映画館でもやってくれるんじゃないのかな?」と思っていたのが実現し、今日から一週間だけ上映される。うれしいことである。実はどんな映画だかまるでわかっていないのだけれども、わたしの希望がかなったわけでもあり、「これは行かなくっては」と、今夜行くことにした。

 昼間はゴロゴロとして本を読んだりして過ごし、あとは昼寝したり。映画が始まるのは8時40分とけっこう遅い時間なので、8時前にのんびりと家を出て、となり駅の駅前の中華の店で夕食をとる。けっこう時間的にいいあんばいに行動したようで、食事を終えて映画館へ行くとすぐに開場した。
 しかし、そんなに混んではいなかったのだけれども、わたしがこの映画館では「この席がいい」と決めていた「お気に入りの席」を、先に来た人に取られてしまった。こういうのはけっこうくやしいものだ。
 例えば朝の通勤電車でも、わたしが乗るのは始発電車の次の電車と圧倒的に早い時間だし、そもそも始発駅はとなり駅なわけだから、基本ガラガラである。それで毎朝だいたい同じ席に座るのだけれども、それが何かのときにはいつもわたしが座る席に、先に誰かが座っていることがある。まあ毎朝わたしが乗る電車にいっしょに乗る人の顔ぶれは決まっているし、先にとなり駅から乗ってくる人もいつも同じで、そんな人たちもいつも同じ席に座っている。それで「わたしはココね」と決まっているのだけれども、時に知らない人が乗っていて、いつものわたしの席に座っていたりするわけだ。そりゃあまさか「そこ、わたしの席なんですけど」などと言えるわけもなく、「しゃあないな、今日はいつもとちがう席だ」となる。
 まあ電車が動き出して、本を読み始めたりすればどこの座席だろうと関係なくなってしまうのだけれどもね。同じように、映画館で「今日はわたしの好みの席に座れなかった」などと思っても、映画が始まってしまえばそんなことはまるで気にならなくなってしまうのだが。

 予想していた映画とまるで違ったテイストの映画だったのだが、終わったときには「フンフン、面白かったね!」と思ったのが、電車に乗って家に帰って思い出してみるとあれこれと面白くも楽しい映画で、「もう一回観たいな」などと思ってしまうのだった。
 

2019-09-27(Fri)

 昨日の「文化庁助成金不交付」事件から考えることもあり、ネット上でも文化庁を批判する意見があふれている。もちろん文化庁の決定に賛同するものもあるが、皆の文化庁への怒りは大きい。昨夜は文化庁前で抗議集会も急遽行われたという。わたしも行きたいところではあったが。

 今日は金曜日。仕事のあとはまず東中野のギャラリーで開催中の清水真理さんの個展を観、そのあとこの日曜日で終了する「みんなのレオ・レオーニ展」をもういちど観ようという計画。
 まずは仕事を終えて駅への道沿いにある某量販古本店に立ち寄ってみて、今村夏子の著作でひとつだけまだ読んでいなかった『星の子』が売られていたので、あまり安くはなかったが買ってしまった。
 駅のそばのバーガーショップで昼食を取り、総武線東中野へ。プリントアウトしたギャラリーへのマップをたよりに、意外とすぐにたどり着いたが、まだシャッターが下りていた。マップをよく見ると「13時オープン」とあり、まだ25分ほど早すぎた。駅のそばに複合商業施設のビルがあったのでそこに引き返し、店内をぐるっとひやかして、あとはベンチでケータイをみて時間をつぶした。

 ギャラリーのオープンした時間になってまたギャラリーへ行く。狭い階段を上がるとそこに小さな庭がひらけていて、マリア像などが置かれている。‥‥わたしには、何と言ったらいいのかわからない。

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 庭の一角にある鉄製のドアを開けるとそこがギャラリーだった。いや、ギャラリーというか「音楽室」というべきか。少なくとも壁面に絵画作品が展示されているわけではなく、美しく整頓された室内にはピアノが置かれ、テーブルの上に清水真理さんの作品が置かれていた。いつもの「球体関節人形」という作風から離れ、オーソドックスな「少女像」などが並ぶ。
 室内には清浄な古楽風のヴォーカルが流れ、ギャラリーにいらっした女性の方が、「これはわたしが演っているんです」とおっしゃる。片隅のテーブルの上にCDが置かれていて、その裏側を見ると、作曲もすべての楽器の演奏も、もちろん歌唱も、その方が全部ひとりでやられているようだった。
 ひとつ素晴らしい世界ではあるのだろうけれども、わたしの他にお客さんはいないし、この日のわたしには何かこそばゆく、居心地の悪い気分で、早々に退散してしまった。

 次は新宿に出て、再びの「みんなのレオ・レオーニ展」。

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 前回はゆっくり時間が取れなかったので、今回は「平行植物」のブロンズ立体などじっくりと鑑賞し、レオ・レオーニの映像も全部観た。帰りにミュージアム・ショップに寄り、カメレオンの小さなぬいぐるみを買ってしまった。ほんとうは前回来たときにはレインボーカラーのカメレオンがあって、そっちが欲しかったのだけれども、もうこの日には売り切れてしまっていた。

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 帰宅途中にとなり駅に寄り、2~3日前に発売されている阿部和重の新作『オーガ(ニ)ズム』を買うつもり。これが探しても見つからず、「もう全部売れてしまったのだろうか」と思ったが、新刊書コーナーの奥に一冊だけ残っていたのをようやく見つけ、ウキウキして帰宅した。
 ニェネントくんはカメレオン(レオ・レオーニのカメレオンだから、名付けるとしたらやはり「レオ様」だろうか)と仲良くしてくれるだろうかと思ったが、「何だコイツは?」ぐらいには気にしてくれたようだ。

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2019-09-26(Thu)

 今日は 突然に、「文化庁」が「あいちトリエンナーレ」への助成金交付を行わないというニュースが飛び込んできた。「文化庁」というよりは、萩生田光一という文科省大臣の決定だろう。この萩生田という人物は「加計問題」に深くかかわる人物として大臣就任時から疑問が呈されていた人物だけれども、こんなことで権力を行使してきた!
 いうまでもなく、現代の民主主義国家というのは「文化への支援」ということがひとつの使命であり、そこで「自由な表現を支援する」ということが国家の「民主主義」指数を示す事象でもある。日本では今も多くの「国際美術展」が開催されていて、そのイヴェントに国家的に支援をするというのは、ある意味当然のことである(個人レベルで海外から作品を日本に持ち込んだり、会場を確保することはあまりに困難である。国家として「アート」をどれだけ支援するかということは、国家の成熟度をアピールすることでもある)。
 今回の件は、いちど助成を決定しておきながらも、「その後に起きた混乱を制御できなかった」みたいな理由だったと解釈したが、つまり「電凸」による脅迫に対応できなかったから「助成金は出さない」みたいなことで、これは「脅迫」の勝利である。まあ民主国家であれば「ありえない」決定であり、この日はまたもや日本という国が「急坂を転げ落ちて行く」という象徴的な日になったのではないかと思う。

 今日はそういうことがあまりにショックで、この日記もこのくらいしか書けない。
 

『ブルーノート・レコード ジャズを越えて』ソフィー・フーバー:監督

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 レーベル「ブルーノート・レコード」は創立80周年になるという。ブルーノートはわたしにとっても思い出深いレーベルだ。わたしの世代はロックの興隆期とジャズの衰退期(?)を同時に体験したわけで、ロックが発展してインプロヴィゼーションとか皆がやるようになったとき、「そんなの昔っからジャズでやってたことじゃん」みたいに、ジャズの方に飛びついたりした。だから「ジャズ喫茶」にもそれなりに入り浸ったりしたし、「ジャズ」という音楽ジャンルへの興味、知識も深まった。そんなとき、「ブルーノート」という老舗レーベルは、わたしなどでも一種独特の「畏怖」の念のようなものを持ったものだった。

 このドキュメンタリーは、いろいろな関係者へのインタビューを交えながら、そんなブルーノート・レコードの歴史をたどるというオーソドックスなドキュメント。
 このレコード会社は、ドイツから亡命してきたユダヤ人のアルフレッド・ライオンとフランシス・ウルフの二人によって、ニューヨークでスタートした。その後順調に経営を継続するけれども、本来「インデペンデント」レーベルだったブルーノートにとって、逆にリー・モーガンの「サイドワインダー」、ホレス・シルヴァーの「ソング・フォー・マイ・ファーザー」の大ヒットが仇となってしまい、リバティーレコードに権利を売り渡し、その後1971年には営業をストップする。
 まあその後も再スタートを切って現在に至るのだけれども、わたしの興味は正直1960年代まで。
 ゲストとしてルー・ドナルドソンハービー・ハンコック、そしてウェイン・ショーターらが登場し、過去の思い出を語ってくれたりもするし、ハービー・ハンコックウェイン・ショーターは現在の若いミュージシャンらと名曲「マスカレロ」のセッションも行う。
 ルー・ドナルドソンの、ニコニコとした好々爺然としたトークも楽しかったのだけれども、わたしはこうやってハービー・ハンコックウェイン・ショーターとが語り合うのであれば、CBS時代のマイルス・ディヴィスとの共演の話をこそ聴きたかったな。

 前半はさすがに映像もあまり残ってなく、モノクロの写真とレコード・ジャケットの連続だったりもするのだけれども、そのブルーノートのレコードジャケットはわたしにも思い出深いものであり、その独特の大きなタイポグラフィーとモノクロ写真を組み合わせたデザインは、ひとつの時代を象徴するものだっただろう。スクリーンに映し出されるそんなジャケットの連続はわたしにはほとんど「早押しクイズ」みたいなもので、「これはあのレコードだ!」とか瞬間的に思いながら観るのだった。
 

2019-09-25(Wed)

 ニェネントはこのところ、わたしが仕事から帰宅したあともずっと、和室の自分のお気に入りの場所にこもりっきりで、夕食を出してあげてようやくお出まし、という感じである。わたしにシャンプーされたのがそんなにいやな体験だったのか、わたしは嫌われてしまったのだろうかと思ってしまう。

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 それがこの夜、わたしがベッドで本を読んで、「そろそろ寝ようか」とあかりを消して目を閉じると、ベッドの横で「ドサッ」と何かがベッドに乗ってくる。目を開けると、わたしのすぐ横にニェネントの姿が見えた。
 ‥‥こういうのはもちろん、「遊んで!」とか「かまって!」というサインで、寒い時期から春にかけては毎夜のようにこうやってわたしのところに来ていたものだけれども、気温が上がって暑くなると、そういうこともまるでやらなくなってしまった。今夜は、ほんとに久しぶりのお出ましである。まだまだそんなに涼しいというわけでもないけれども、逆に「この頃そっけなくしてるから、たまには遊んでやろう」と、ニェネントの方からのサービスなのかもしれない。
 「おお、よく来たね!」とニェネントを抱き上げてわたしの胸の上にのせ、いろんな話をしながらニェネントの背中だとかしっぽの付け根、頭だとかあごの下だとか撫でまくってあげる。ニェネントは逆らわずに「ひゃ~ん!」とか、ネコとしては情けない声を上げてなくのだが、この「ひゃ~ん」というのはうれしいときのなき声なのだろうか。

 今日は夕方から、となりの柏駅の映画館に、『ブルーノート・レコード ジャズを越えて』というドキュメンタリー映画を観に行った。『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』で60年代ポップスまみれになるのもよかったが、シリアスなジャズの世界に浸るのもまた楽し。
 今この映画館では『カーマイン・ストリート・ギター』というドキュメンタリーもやっているし、週末からは『メランコリック』という観たかった映画の公開も始まる。しばらくこの映画館に通いそうだ。