ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『宇宙戦争』(2005) H・G・ウェルズ:原作 スティーヴン・スピルバーグ:監督

 観たことはなくってもストーリーは知っている、原作も映画(1953)もSFの古典という作品を、スピルバーグがリメイクしたのだった。わたしは原作も読んでないし、1953年の映画も観ていないから、ただ大きなストーリー(火星人が「トライポッド」というのに乗って地球を攻撃するけれども、地球上のバクテリアに感染して自滅してしまう)を知っているだけで、このスピルバーグの作品がどれだけH・G・ウェルズの原作を活かし、1953年の映画とどんな差異があるのかなんて、何にもわからない。
 ただ、この作品でのトム・クルーズダコタ・ファニングとの親子関係とかは原作とは異なるものだろうし、けっこう「ゲゲゲ!」という残虐ともいえる展開も、原作とも1953年版とも異なるものだろうとは想像がつく。

 映画の中心ストーリーは、トム・クルーズがボストンに住む離婚した妻から息子(すでにハイティーン?)と娘(10歳)を一時的に預かっていたのが、そのあいだに宇宙人のトライポッドによる攻撃が始まり、3人で母の住むボストンへの脱出を実行する、というものではある。
 宇宙人はほとんど姿を見せることもなく、ただ宇宙人の「兵器」である背の高い三本足の「トライポッド」が、その先端から「蛇」のような探索眼を出して人間を探り、その探索眼からの「破壊光線」で殺戮して行くのである(そのうちに、人間をそのトライポッドの中に捕え込むようにもなるが)。
 トライポッドから逃げ回る一般市民はあまりに無力であり、映画の前半は過酷な「サヴァイヴァル・ホラー」という感覚だし、トライポッドの危機よりも、「他者を押し退けて」自分が助かろうとする人々の方がよほどに恐ろしく、例えそれで「我先に」逃れても、その先にはトライポッドが待ちかまえているという、絶望的な展開である。

 そんな中でトム・クルーズブルーカラーの湾岸労働者であり、そういうところで息子も娘も父への信頼がひとつ足りないような空気である。特に息子は父に反抗的というか、父について行くよりは、途中で出会うトライポッドを攻撃しようとする軍隊といっしょに戦いたがるのであって、そしてついには父と別行動することになる。
 トム・クルーズは、残った娘をどこまでもボストンへ送り届けることを使命と考えているのか、無謀な危険行動を避けるのだが、ある廃屋の地下室に逃げ込んだとき、元救急車の運転手だというティム・ロビンスといっしょになる。ティム・ロビンスは「死んでも生き残る」と語るような人物ではあったが、その地下室にまで這い込んでくるトライポッドの「眼」から逃げるうちに「逃げるよりはやっつけよう」と大騒ぎをはじめてしまう。やむを得ずトムは、娘にわからないように彼を殺してしまう。
 そんな父の行動に、娘は前よりもずっと父を信頼するようになるのだろう。

 人間たちはどんどんトライポッドに追い詰められていくのだが、そんなときトム・クルーズは、トライポッドに鳥たちが平気でとまっていることに気付く。トライポッドのシールドが効かなくなっているのだ。彼が人々を護衛する兵士にそのことを伝え、兵士がミサイルをトライポッドに撃ち込むとトライポッドは横倒しに倒れるのだった。
 それからは攻撃しなくてもトライポッドは倒れ始め、中から這い出てきた宇宙人たちは皆、すぐにこと切れてしまうのだった。トム・クルーズは無事にボストンの母親のところへ娘を連れて行くが、そこには先に来ていた息子の姿もあったのだった。

 とにかく、ただただ何も不明のまま「パニック」へと落ち込まされる展開は暴力的で凄まじい。トム・クルーズは途中で遭難したニュースキャスター2に出会い、トライポッドが世界中に出現していることを知るが、それでも自分のいるところ周辺の情況はわからないままだ。「大阪では人々がトライポッドを何台か倒したらしい」とかの噂を聞いたりもするが。

 撮影は、スピルバーグ作品いつものヤヌス・カミンスキーだったのだけれども、とにかく映画冒頭の「空撮?」という撮影で港湾部上空を進んで行ったカメラが、そのまま高いところのクレーンのオペレーション・スペースで作業するトム・クルーズのすぐそばまで寄って行ったのにはちょっとびっくりさせられた。そのあとの編集も見事で、まさに「一直線」の撮影という感じだった。
 それから、トムら家族3人が車で進んでいたとき、暴徒化した道を歩いて避難する人々に襲われ、車を乗っ取られるまでの混沌としたシーンでの長回しとか編集とかにも、強烈なものがあった。

 あと、ダコタ・ファニングが寝るときにトムに「ブラームスの子守歌」か「ハッシャバイ・マウンテン」かを歌ってとせがまれるのだけれども、トムは「ごめん、どっちも知らない」となり、それでそのあと、ビーチ・ボーイズの「いかしたクーペ」を歌うところが、わたしは好きだなあ。

 映画の冒頭とラストとの説明的な「ナレーション」が余計なんじゃないか、というかものすごっく違和感があって、観終わったあと、「アレを何とか出来なかったものだろうか?」とは思うのだった。