ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『溝口健二の人と芸術』(1964) 依田義賢:著

 黒澤明監督には橋本忍という脚本家がいて、小津安二郎監督は野田高梧との結びつきが強かったけれども、同じように溝口健二監督には依田義賢という脚本家がいた。依田義賢は脚本家になってまもなく溝口監督の『浪華悲歌』(1936)の脚本を担当し、以後溝口監督が亡くなる前に企画していた『大阪物語』(吉村公三郎監督によって映画化)まで、溝口健二監督作品のほとんどの脚本を書かれていたのだった。

 この本は、1956年に溝口氏が亡くなられたあと、雑誌「映画芸術」に長期連載されたもの。長年溝口監督と共に映画に関わられた著者による思い出話、そして溝口作品の分析を書かれた本で、溝口健二研究には欠かせない一冊なのだろう。
 この本は単に依田氏が脚本を担当された作品のことだけでなく、今ではフィルムも失せてしまった溝口氏初期のサイレント映画についても短かいながらも書かれているわけで、その初期の作品には「唯美的な傾向に走ろうとする情緒をもった、ロマンチックなスタイル」と、「自然主義的なといいたいリアリスチックなスタイル」という二つの大きな流れがあったのが、後年『滝の白糸』(1933)あたりで「自然主義的なリアリズム」が定着した、と依田氏は書かれている。

 このあたりの、日本映画の潮流、受け止められ方の分析もとても興味深いのだけれども、依田氏がついに溝口氏の作品に関わられるようになってからは、仕事の上での溝口氏とのぶっつかりの記述が多くなる。
 溝口健二という人物の「伝説」は、もうさまざまに書きつがれて来ていて有名だけれども、こうやってじっさいに溝口氏に「からまれた」方の証言を読むと、その理不尽さには呆れかえってしまう。しかし依田氏の書いたことを読むと、そこには溝口氏なりの「スタッフ操縦術」というか、そんな中にも演出への姿勢もあるのだとも思わせられる。
 しかしながら溝口氏の、相手の人格をも否定してしまうような「罵倒」に等しい物言いは「あんまり」といえば「あんまり」で、じっさいに現場で衝突も起きていたようで、助監督が「これ以上やってられない」とやめてしまったりもしたようだし、依田氏も「もう溝口氏とはいっしょにやらない!」と何度も思ったらしい。

 当然ぶっつかる相手は撮影監督であったりもするわけで、『夜の女たち』(1948)、『わが恋は燃えぬ』(1949)の撮影監督の杉山公平氏などには「あんたはもう時代に取り残された老いぼれなんだよ」な~んてドイヒーなことを言い、激昂した杉山氏は一時現場を引き上げたりされたらしい。
 それではわたしは、「ではあの宮川一夫氏はどのように溝口監督と接していたのだろう」という興味があったけれども、これがやはりかなりの衝突があったようだ。依田氏が書かれるには、宮川氏は溝口監督が演技をつけるところを見ていて、それを反対の方向から撮るようなことが多かったということで、それは宮川氏が溝口監督にねじ伏せられないで、もう一つ、宮川氏の側からねじり返していたのではないかと書かれていた。
 しかしこの本には末尾に宮川一夫氏の「おやじさんのこと」という小文も掲載されていて、それを読むと宮川氏は『雨月物語』から溝口監督に認められたし、宮川氏もまた「この人となら‥‥」という気がするようになられたと書いておられる。
 そういう、俳優やスタッフに理不尽な当たり方をしていたような溝口監督だけれども、その裏ではしっかり「信頼関係」も結ばれていたということだろう。
 じっさい、溝口監督は「今日は依田氏に現場で強く言い過ぎた」などと思ったときには、あとでスタッフを誘ってタクシーで依田氏宅を訪れたりされたこともあったようだ(依田氏の方ではそんなことは毎度のことなので、けっこうケロリとしていたらしいが)。

 依田氏も美術の水谷宏氏も、そんな中で成長したというところもあったのだろう。俳優では香川京子氏など、のちに繰り返し溝口監督に「芝居の基本を教えていただいた」と語っておられる。香川京子は『山椒大夫』で初めて溝口作品に出演したのだけれども、そのとき溝口監督に「平安時代の経済」「奴隷の歴史」などのことを学習しておくように、と言われていたらしい。

 そういう「現場での溝口健二」を読むという楽しみがある一方、特に『雨月物語』に関しては、溝口監督から依田氏に送られたかなり長い手紙が転載されていて、溝口監督が『雨月物語』をどのように演出しようとしておられたのか、彼自身の言葉で読めるのが貴重なところだろう。
 これを読むと、溝口監督がコンテなど書かず、現場で得られたものから映画を組み立てて行こうとされていたことも汲み取れ、脚本以外のことはまずはニュートラルな位置から成り行きを見られ、そこから具体的に指示を出して行くような方法をとられていたのではないかと思える。そのために現場のスタッフと必要以上に衝突もされるのではないか。そういう感想を持ったし、『雨月物語』という作品が溝口氏の中でも練り上げられている過程が読み取れるようで、とても興味深かった。

 蛇足でひとつ書いておけば、溝口氏や依田氏がヴェニス映画祭列席のためイタリアに行かれたとき、通訳をつとめられたのがそのときイタリアに映画を学びに来ていた増村保造氏だったそうだ。
 それで溝口氏、依田氏が増村氏といっしょに車でローマへ移動するとき、依田氏が車からの風景をあれこれ増村氏に質問していると、溝口氏は「やめろ。恥ずかしいことを聞くのはやめて下さい!」と、本気で怒り出したらしい。どうも「自分はイタリアに来る前にそういうことは勉強して来た」ということらしいのだ。
 こういう「自己中心」「知ったかぶり」「短気」というのは映画撮影中でなくっても彼の常態だったようで、日本でもロケハンで琵琶湖あたりをドライヴした際、鴨鍋の美味だという店に行くのだけれども、溝口氏はまた「鴨鍋というのはね~」と始まって、「わたしは知っている」と店の人を差し置いて自分で鍋をつくりはじめたのだけれども、それがみごとに失敗。鴨肉は焦げてまっ黒になってしまったのに、溝口氏はその黒焦げの鴨を「やっぱり旨いね」と食べられ、店の人に大いに笑われたらしい。

 それでも、溝口氏が亡くなられる前に依田氏がお見舞いに行かれたとき、病床の上できちんと膝をそろえられ、依田氏に「いろいろありがとうございました」と語られたという。
 ヴェニス映画祭で『雨月物語』が銀獅子賞を受賞したときにも、「みんなスタッフのおかげです」と述べられたというが、これも単に儀礼的な謝辞を超え、溝口氏の本心ではなかったかと思える。
 この本からも、いろいろと矛盾を抱え持った複雑な人物という印象を受け、「今の世の中では、こういう人物が映画監督になれたりすることはないだろうな」とは思うのだった。