ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『雨月物語』(1953)溝口健二:監督

 能の謡いをバックにオープニングのクレジットが流れ、本編の舞台になる琵琶湖畔の集落にカメラが移動して行くときも、まだ少し能の謡いの音がかぶっている。この、オープニングから本編へとかぶっていく感じが絶妙で、この「引きずる」感覚がそのまま一気にラストまで引っぱっていってくれる思いがした。

 しかしこの100分弱の作品で、物語にまったく澱みもなく、起伏に富んだ展開を一気にみせてくれるのは「まさに映画とはこういうもの」という思いにもとらわれてしまう。素晴らしいのだ。たしかにここには「映画表現の理想的なかたち」があるのではないか、とも思えてしまう。

 まずは湖のほとりで主人公の源十郎とその妻の宮木、幼い子供と主人公の弟の藤兵衛、妻の阿浜とが生活している日常があるのだが、そこに外での「戦争」の話から、陶工である源十郎はそれを金儲けのチャンスと捉え、戦地に商売に行こうとする。一方、弟の藤兵衛も戦乱の世を立身出世の機会と考えて兄に同行する。一度商売に成功して帰宅した兄弟はさらに大きな商売をしようとし、今回は妻子も共に、舟で琵琶湖を渡って行こうとするが、途中で海賊に襲われたという落ち武者を乗せた舟に出会い、危険だと思った源十郎は舟を岸に着け、宮木と子を家に帰す。
 源十郎と藤兵衛、そして阿浜が到着した集落は戦場にも近く、源十郎の陶器もよく売れるのだった。まとまった金を手にした藤兵衛は、「その金で武具を買って侍になる」と、阿浜を振り切って戦地の方へと行ってしまう。追って行った阿浜は武士たちに捕まり、レイプされる。武士たちは阿浜に金を投げ捨てて去って行く。
 一方源十郎のところには侍女を引き連れた若狭という高貴そうな女性が訪れ、「注文した品を朽木屋敷に届けてくれ」と言って去る。源十郎がその屋敷に行くと座敷に上げられて歓待を受け、源十郎はその屋敷に居ついてしまう。
 さて一方、帰路に着いていた宮木は落ち武者らに遭遇し、刺し殺されてしまうのだった。
 戦場の藤兵衛は自決した敵方の大将の首を拾い、それを自分の手柄とし、馬と家来を授けられ、共に住まいへと凱旋しようとするが、途中で立ち寄った宿場にて娼婦になっていた阿浜と出会うのだった。「お前のせいでこうなった」と藤兵衛を責める阿浜に、ただ藤兵衛は頭を下げて謝るのだった。
 眠りから醒めた源十郎が外に出て着物屋で若狭のために着物を買おうとし、朽木屋敷に届けてくれと言うと、店主は畏れて代金も受け取らないのだ。帰路の途中神官が源十郎とすれ違い、「あなたには死相があらわれている。家族のもとへ帰りなさい」と言い、霊が触られぬように源十郎の体に梵字を書いてあげるのだった。
 屋敷に帰った源十郎は「家に帰る」と言い、若狭と侍女は彼を引き留めようとするが、梵字のせいで彼に触れることはできない。外に彷徨い出て気を失った源十郎が気づくと、それまでの屋敷は無残な焼け跡になっていた。
 源十郎は村に戻るが、住まいはすっかり荒らされていた。でも宮木の名を呼ぶと、宮木は源十郎の食事の支度をしていて、子どもも寝ているのだった。そこに村名主が来て、いなくなった子どもを探しに来たのだと語り、宮木が死んで子どもは村名主が引き取っていたことを語る。源十郎は心から自分の行為を悔い、宮木の死を嘆くのだった。
 そこへつまらない夢を捨てて阿浜といっしょに藤兵衛が帰ってきて、その後阿浜と藤兵衛は畑を耕し、源十郎は焼き物に励むのだった。

 源十郎ら4人(子どもを入れると5人、亡霊を入れると6人か)のそれぞれの物語が手際よく語られるのだが、上田秋成の古典「雨月物語」から「浅茅が宿」と「蛇性の婬」を合わせて脚色したのは、川口松太郎依田義賢によるもので、溝口監督が撮影中に加える変更にそって脚本を書き直すため、依田義賢はずっと撮影現場に付き添っていたという。また、「雨月物語」に加えて、モーパッサンの「勲章」のストーリーを藤兵衛のストーリーに加えてもいる。
 戦乱の世の、家族をこそ守らなければならないときに、それをうっちゃって金銭欲、出世欲にくらんだ行動をとった兄弟は、しっかりと運命の復讐を受けることにはなる。それでもラストには(宮木こそは「亡き人」になってしまったが)それまでの村での暮らしに回帰するわけで、「悲劇的展開」もあるとはいえ、そのラストには、明るさもまた戻ってきているだろう(ラストにいなくなった宮木には、子どもがその墓前に食事を供えてあげるのだ)。

 撮影はもちろん名手、宮川一夫なのだが、なかなか人を褒めることのない溝口監督も、この作品のときは宮川一夫の撮影を賛美したという。
 この作品ではそんな宮川一夫の撮影技術が、溝口健二の演出技術と一体化しているといえる場面が多かったようで、そんな仕事がうまくいって溝口監督も満足していたのだろうか。
 特に「これから先はあやかしの世界」という、湖の上を舟で進む、ストーリーの上での大きな分岐点で、霧ともやに包まれた湖の水面を進む舟の映像はすばらしいものだったし、「朽木屋敷」で若狭に誘惑される源十郎を上から捉えたカメラが、そのまま庭へと移動、さらにそれが湖の水面へと移っていく場面も忘れられない。
 宮川一夫はこの作品の撮影でクレーンを多用したというが、特に戦(いくさ)の場を上から俯瞰したカメラがそのまま下に降りていくような動きも、その後の映画ではよく見られるカメラワークだろうとはいえ、さいしょにやったのはこの映画だったのかもしれない。
 あと、わたしには強烈だったのが、朽木屋敷で若狭が能を舞う場面でのカメラの動きで、若狭の踊りに連れてカメラも微妙に動き、まるでカメラも若狭と共に舞っているようであり、このシーンは「史上最高」だと思った。

 朽木屋敷のシーンでは、さいごに若狭の侍女の右近が「愛も知らずに死んだ若狭さまに、せめて愛というものを体験させてやりたかった」と語るとき、この若狭もまた、この映画で戦いの犠牲になり、悲劇にみまわれる女性たちの一人だったのだと気づくのだった。
 この映画での女性たちはみな、欲にかられた「男」や戦(いくさ)を起こす「男」らの犠牲になったわけで、だから余計に、ラストでのそ~んな愚考から解放された登場人物らを賛美したくもなるのだ。
 この映画が撮られたのが1953年。戦争終結から8年後のことで、まだ人々には「戦争の痛み」の残っていた時代だったろう。この映画、そんな「戦争の痛み」を描いた映画、といえるだろう。

 とにかく、そんな「物語を描く」映画として、もうこれ以上はないと思えるぐらいに素晴らしい映画だった、とは思う。