ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『西鶴一代女』(1952) 依田義賢:脚本 溝口健二:監督

西鶴一代女 [DVD]

西鶴一代女 [DVD]

  • 発売日: 2006/09/22
  • メディア: DVD

 原作は井原西鶴の『好色一代女』だけれども、映画のためにかなりの脚色がなされているようで、「社会ゆえに堕ちていく一人の女性のあわれさ」を前面に打ち出す作品となっている。
 主人公のお春(田中絹代)が、自分の思いに従ったがゆえに排斥されるのは、いちばん最初の勝之介(これが三船敏郎だとはわからない!)との逢瀬のときだけのことで(それだって、勝之介の強い求愛にほだされてのことだし)、あとはすべて彼女の意志ではない「他者(=社会)」に振り回されての、流転の人生ではある。
 そこであらわになるのは、やはり基本的に女性の人権のない世の中で犠牲になる女性の身であり、家父長制家族、封建制度のあり方、男のさまざまな強欲さ(やさしいいい男もいたんだけれどもね)の非人間性であろう。

 この作品は溝口監督の4年前の『夜の女たち』に連なるものでもあるだろうし、翌年の『祇園囃子』、遺作の『赤線地帯』もまたこの系譜の「身をひさぐ」女性たちを描いた作品ということができるだろうし、そもそもこのような「女性のあわれさ」は、溝口監督が生涯描き続けたテーマではあっただろう。

 映画はお春の生涯をいくつものエピソードで区切って描き、「女性の悲劇」を描くオムニバス的構成ともいえるだろうけれども、脚本、演出の妙で時に喜劇的な空気をもかもしだしている。
 そしてやはり、そこは溝口健二の映画なのだから、ここに「これが<映画>だ!」という溝口監督の意識が強くにじみ出ているだろう。このことは去年この日記で『山椒大夫』にふれて書いたことがあるのだけれども、ここには「撮影カメラの動き、そして俳優の動き、そして背景となる美術との共同作業」のみごとな成果があるだろう。
 この作品、そのエピソードごとに少しずつその空気も変化するのだけれども、それぞれのエピソードごとにその「空気」に合わせた、溝口監督らしい「ワンシーン・ワンカット」のみごとなショットが含まれている。
 まあこの作品が溝口監督の作品が海外に知られることになった最初の作品なのだろうけれど、この作品は知られているように「ヴェネツィア国際映画祭」の国際賞を受賞し、めっちゃ高い評価を受けるのだけれども、それはこの映画に何度も登場するその「ワンシーン・ワンカット」の演出の見事さへの賛辞でもあり、Wikipediaによると、以後ヌーヴェルヴァーグやヨーロッパの映画界に「長回し」のブームを呼ぶことになったという。

 「ワンシーン・ワンカット」というのは、単にカットを入れずにそのまま長くカメラを回しつづければいいものではなく、溝口監督の場合、「移動するカメラ」と「演技をしながら動く俳優たち」とをマッチさせての強烈な「映像美」というものがあった。
 この『西鶴一代女』はそんな見事な「ワンシーン・ワンカット」の宝庫なわけだが、そんな中からわたしがふたつ挙げれば、さいしょのエピソードで勝之介が竹林の中をお春を追いかけるシーンがまず挙げられるだろう。このシーン、だって「平地」ではない起伏のある竹林が舞台であり、どうにかやって移動撮影用のレールを敷いたのかわからないけれども、ステディカムなんか存在しない時代に、どこまでも竹林の中を俳優たちを追うカメラはすばらしいし、今観てもそのインパクトは大きなものがあるだろう。

 もうひとつは、お春がかつて女中をやっていた店の番頭が店の金を持ち出し、お春といっしょに逃亡しようとしたとき、屋外の屋台のような店で番頭が店のものに見つかり、追われた番頭がお春を置いて逃げようとするシーン。番頭と追手の男たちは走り出てすぐにフレームアウトしてしまい、おろおろするお春が屋台の外に出るところをカメラは追うのだが、すぐにお春の先で乱闘している男たちもフレームに入ってくる。そこからまた、逃げる番頭を追って男たちは見えなくなってしまうのだけれども、お春だけを追うカメラがそのフレームを少し上に向けると、道の彼方を走っている男たちの姿がフレームインする。見事だ。あまりに見事。
 普通、そういう追走シーンがフレームアウトしてしまえば、そのフレームの外では照明の反射板を持ったスタッフだとかがいたりして、俳優たちもフレームアウトしたとたんに「では一服」とばかりに休んでしまうのだろうけれども、ここではフレーム外のところでも演技はつづいているのだ。それはもちろん、「音声」が持続していることにもよるのだけれども、これは観客に「画面から外れたところにも<映画>は継続しているんだ!」という、ある種のショックを与えるものではないのか。

 もちろん、「映画」というものが出来て、最初の観客らは「映画とは<現実>を切り取ったもので、画面から外れたところでも映画は継続しているのだ」というナイーヴな感想を持っていたことだろうが、そのうちに観客もすれっからしになり、「カット」が入ると、「ここで俳優らは休憩してるんだ」などと思ってしまうことになるだろう。それが、この溝口監督の「ワンシーン・ワンカット」で、「あらら、画面の外でもつづいてるよ!」という感覚になるのではないのか。
 まあそういうことだけのために「ワンシーン・ワンカット」をやるわけではないだろうが、ひとつ「映画表現」の可能性を拡げたとはいえるのではないかと思う。

 この作品の撮影は名撮影監督の宮川一夫ではなく、平野好美という人なのだが、おそらくは溝口監督の指示に忠実に動いたのではないかと思われる。全篇みごとなカメラワークだったと思う。

 あとこの作品では、溝口監督といつも組んでいる美術監督の水谷浩氏の仕事ぶりに注目する。これは現実のロケーション風景と一体になっていてわかりにくいのだけれども、例えばお春が親に売られる遊郭の内装のすばらしさがあり、そして何より、ラストシーン、家々を托鉢してまわるお春の背景の建築群。このうちのかなりのパートは現実の建築物を使っていると思うのだけれども、そのあいだをうめるように、セットとしての家屋が建てられている。これがすっかり「ひとつの風景」になっていて、見事なものだと思う。
 ここまで書いたら、その音楽のことも書いておかなくてはならない。音楽担当は斎藤一郎という人だが、さまざまな和楽器を使用しての音楽、特にこの映画ではお春がいろいろなシーンで「道」を歩いて行くシーンが印象的なのだけれども、そんなシーンに流れる音楽がいい。そして、時に「無音」のシーンがまたいいのである。わたし的には、ラストの箏を使った「古楽」ではない音楽にとても惹かれた。

 溝口健二監督の下、俳優、スタッフらが一体となってつくり上げた、この作品はやはり「傑作」なのだろうと思う(まあ溝口健二という人は「パワハラおやじ」ではあったのだろうけれども)。