ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『怪談累が淵』(1960) 安田公義:監督

 先日観た『牡丹燈籠』と同じく、三遊亭圓朝の作になる怪談で、圓朝原作の前半部分のみの映画化。この時代、毎年夏になると怪談映画の公開というのが定番になっていて、新東宝映画と大映京都とが競い合っていたみたいだ。戦前の1937年にまず映画化されていて、1957年になって新東宝中川信夫監督でこの『怪談累が淵』を映画化した。この大映作品は新東宝から3年をおいての映画化。1970年には同じ安田公義監督がこれをセルフリメイクしてもいるし、時をおいて2007年になると『怪談』のタイトルで中田秀夫監督が映画化している。つまり、人気の高い怪談モノのひとつである。
 大映は1年前には『四谷怪談』を映画化していて、この『怪談累が淵』も、『四谷怪談』と同じく長谷川一夫と中田康子の主演で撮ろうとしていたらしいけれども、長谷川一夫のファンらから彼の再びの怪談映画出演に反対の声があり、彼の役は北上弥太郎に変更されたのだった。中田康子は『四谷怪談』から続投し、さらに翌年の『怪談蚊喰鳥』にも出演している。まるで「幽霊女優」さんだが、この人は宝塚の出身だし、50年代から60年代に数多くの映画に出演しているので、そんな呼ばれ方をすることはないのだった。この『怪談累が淵』でも『四谷怪談』のお岩さんみたいなメイクをみせてくれて怖いのだけれども、この映画での彼女は「幽霊」というわけではなかった。

 で、この映画のポイントは、出番は少ないながらも幽霊役で出演した中村鴈治郎ではないかと思う。盲目の按摩を演じて座っている彼の姿だけで、もう充分に怖いのである(ただ、この映画で幽霊はちょびっとしか出てこないけれども)。

 中村鴈治郎演じる盲目の按摩の宗悦は高利貸しもやっているのだけれども、旗本の深見新左衛門のところに借金の取り立てに行ったところ、新左衛門に切り殺されてしまう。新左衛門は死体をつづらに入れて下男に累が淵に沈めに行かせる。しかし宗悦がすぐに亡霊となって新左衛門の前に現れ、錯乱した新左衛門は妻を切り殺してしまい、自分も狂い死にしてしまう。宗悦の死体を沈めに行った下男は盗賊に殺されるのだった。ここにちょうど修行していた新左衛門の息子の新五郎が久しぶりに帰宅し、両親の死を知ることになる。
 ここまでの展開で20分ぐらい。まあ全体で80分ぐらいの映画だけれども、「あれ?話はぜ~んぶ完結しちゃったじゃないか?」って感じ。それでここからは宗悦の二人の娘の豊志賀とお園、そして新左衛門の息子の新五郎を中心とした因縁話になる。ときどき宗悦の亡霊が姿を見せ、二人の娘のことを心配しているようではあるが。
 宗悦の死後、姉の豊志賀は小唄の師匠として独立し、弟子の数も多い。妹のお園は芸妓になっている。あるとき豊志賀の弟子のお久が無理矢理旗本の妾にされようとし、豊志賀に救いを求めて逃げてくる。それを連れ戻すために吉松一家のものが押しかけてくるが、偶然近くにいた新五郎がお久を救う。これが縁となって、過去の因縁も知らずに豊志賀は新三郎と同衾するようになる(吉松一家というのも、宗悦の遺体を捨てに行った下男を殺した盗賊らではあった)。
 豊志賀の新五郎への執着は強く、今も豊志賀宅にかくまっているお久が新五郎と通じているのではないかと疑って、新五郎を責める。嫉妬に狂った豊志賀は転倒し、顔に醜い傷をつくってしまう。また、豊志賀の父の命日が新五郎の父の命日と同じなこともわかり、互いにその因縁に思いあたるのだった。
 お久の両親と吉松一家がお久を連れ戻しに来るのだが、新五郎がお久を追うあいだに豊志賀は切り殺されてしまう。
 新五郎に助けられたお久だったが、そこは「累が淵」。お久は宗悦の亡霊の姿を見て川に落ちてしまう。そこにお園とその恋人とがやって来て、新五郎と共に吉松一家を退治し、お久を助けるのであった。豊志賀の死を知った新五郎らは、豊志賀を手厚く葬るのであった。というお話。

 ‥‥先日観た『牡丹燈籠』もっそうだったけれども、長い長い原作の三遊亭圓朝の「真景累ヶ淵」とはずいぶんと異なった話になっているようだ。だいたい原作は20年以上にわたる因縁話で、20人以上の人物が死に、さいごには関係者はみんな死んでしまうという凄惨な物語のようだ。たいていはこの映画で描かれたところまでが有名で、よく演じられもするようだけれども、それでもストーリー展開はまるで違う。
 映画では宗悦の亡霊を縦軸に持って来ているようだけれども、原作で宗悦は亡霊になったりはしないようで、メインは狂い死にした豊志賀の「呪い」。この豊志賀の呪いはあまり知られない後半で全開になるようなので、映画としてあまりメインには持って来られないのだろう。しかし原作ではお園もお久も死んでしまうわけで、お園を手にかけたのは新五郎なのだが、この「新五郎」はこの映画での新五郎とは別人の悪人。原作で新五郎に相当するのは新吉という男である。その新吉がある事件のとき、助け出そうと背負っているお久を振り返ると、その姿が死んだ豊志賀になっていて、たまらず新吉はお久を切り殺してしまうのである。ここに「幽霊」としての豊志賀が登場するわけか。
 つまりこの映画を観て『怪談累が淵』とはこういう話だよと了解してしまうと、それは大きな間違いということになる。これは先日観た『四谷怪談』でも『牡丹燈籠』でも同じことで、おそらく観客は「自分の知ってる話とこの映画はずいぶん違うなあ」と思いながらも、「まあこれはこれ」と了解して観ていたのだろう。

 この作品、場面設定とかもその一年前の『四谷怪談』に似ているところがあり、特にお久が引き込まれようとする累が淵のシーンは、『四谷怪談』でいえば「戸板返し」の川辺と相似形で、「同じセットを使ってるんじゃないの」とか思ってしまう。しかしこの場面、川の中から手がニュッと伸びてきて人をつかみ、川に引きずり込もうとするのは相当に恐怖で、こういうのを幼い頃に観てしまうと相当のトラウマになってしまうんじゃないかと思う。
 やはりこの作品でも「大映京都」の映画づくりの手腕に感嘆するけれども、特にこの映画で多い「明かりもない夜のシーン」での、黒くつぶれてしまいそうだけれどもしっかり写っているという撮影技術はすばらしい。

 『四谷怪談』につづいて出演の中田康子という役者さん、「日本的情念」というのか、ウェットな感情の表出がみごとで、やはり「名優さん」ではないかと思う。