ちょうど今、東京ではこの作品の4Kレストア版が映画館で上映されているらしいが。
台風が接近している地方の中学校、その3年生7人か8人、そして1人の教師を通して、成長期、思春期に足を踏み入れる少年少女らの身体と精神とのアンバランスさ、そこからくる危うさが描かれている。それが台風の接近と共に「非日常」への願望ともなり、それが単に「願望」で終わらずに実行されてしまったら?というストーリーなのか。
台風が最接近した土曜日にある生徒らはそのまま学校から家に帰らず、「混乱」へと至る。生徒の喫煙、同性愛、レイプ一歩手前の暴力、家出願望、自殺などと共に描かれ、コレは今なら到底映画化は不可能だっただろうとは思える内容だ。
この撮影は夏休みの間に長野県のある中学校で行われ、映画が完成したときに記念に学校で生徒らへの上映会が行われる予定だったのが、さすがにこの内容では生徒らに見せられないと、いつの間にか中止になったという(Wikipediaによる)。そりゃあそうだろうとは思うが。
わたし自身、この映画を観ながらその不穏さにおののいたし、かなりのショックも受けた。
特に映画の中盤、クライマックスの土曜日の放課後に教室に残っていた女生徒を、その生徒のことが好きな男子生徒が襲いかかり、教室から階段を上がりながら職員室へと追い詰めていく、ほとんどレイプ未遂だろうという10分に近い長い長いシーンがある。このシーンにはわたしにも異様な恐怖感を抱き、これは『シャイニング』でシェリー・デュヴァルを追うジャック・ニコルソンのあのシーンよりも怖いのではないかとも思った。
特に女子生徒が職員室に逃げ込んだあと、男子生徒が執拗に長いことそのドアを蹴りつづけてドアを壊すシーン。それでその男子生徒には無意味に「ただいま」「おかえりなさい」との言葉を繰り返す癖があり、いよいよもって恐怖感をあおる。
このシーンは、その前に理科の時間にその男子生徒が女子生徒の背中に薬品をかけ、あとが残るほどの傷(やけど)を負わせていたわけで、男子生徒が彼女のシャツを破り、その背中の傷を目にすることで男子生徒は沈静化して終わるのだが、男子生徒はそもそもその傷跡を見るために彼女を襲ったのか、それとも彼女の背中の傷を見て、自分が過去に彼女にしでかしたことに思い当たってストップしたのか、どちらなのかはわからない。
ただわたしとしては、そのレイプ未遂シーンまでに全体の不穏さがどんどん高まっていただけに、このシーンを頂点とするようにして別の展開に移行してしまうことに、かなりの消化不良感のようなものが残った。
このあと、もう暗くなった校内に残っていた生徒たちは、日常とは別の秩序を求めるような行動へと移行していき、ついには台風の最接近のときに皆で外に飛び出し、服を脱ぎ捨てて「もしも明日が‥‥」を歌いながら踊るシーンになる。
この校内のストーリーと並行して、台風が来ることを期待していた女子生徒(工藤夕貴)がいて、その土曜日の朝に学校に遅刻したことをきっかけに東京へと飛び出してしまうというストーリーがからむ。
彼女は原宿のブティックで真っ赤なワンピースを買って着替え、大雨の中を歩いているときに若い男に声をかけられ、男の部屋へついて行ってしまう。
しかしそこで彼女は「やはり帰らなければ」と思い直し、男の部屋を飛び出て駅へと行くが、台風のために電車は不通となっていた。
深夜の、すべての店も閉まった商店街通りを歩く彼女の前に、白い包帯のような布で自分たちをグルグル巻きにしてオカリナを吹いている、まるで異次元から迷い込んできたような男女がいる。
彼女もまた、雨に降られてびしょ濡れになりながら、「もしも明日が‥‥」を歌いながら走るのだ。
他にも、やる気もなく放課後の生徒らの管理も放棄したいいかげんな教師(三浦友和)と、そんな教師に強く反撥する男子生徒の話もあるのだが(この生徒は、「生と死の問題」の解決のため、学校の教室の窓から飛び降りるのだが)。
相米慎二の演出は、かなり徹底したワンシーンワンカットの積み重ね(男子生徒が教師に電話するシーンは例外的)で、たいていは複数の人物を同時に撮ったミドルショットで、ロングショットも多用される。こういう演出スタイルの監督がいたように思うが、今は思い出せない。溝口健二から黒沢清の系譜の中に入れられるのだろうか?
とにかく、あまり内容も知らずに観始めたのだけれども、しっかりと蹴っ飛ばされて打ちのめされてしまった感じで、この夜はこの映画のことをあれこれと考えるのだった。