本来サイレント映画としてクランクインされたものの、途中で「イギリス初のトーキー映画」として撮ることとなったという。しかし実際には「サイレント映画」としてほとんど撮影済みで、そのフィルムも利用しながら撮り直したのだという。けっきょくトーキー版とサイレント版の2種類のフィルムが出来、まだトーキー設備のない映画館でサイレント版が多く上映された。
ヒロインのアリス・ホワイトを演じたアニー・オンドラはチェコ出身の女優で英語がうまくしゃべれなかったため、アフレコではなく撮影時に現場に声優の女性を呼び、声優にしゃべらせて撮影したのだという。
刑事のフランクは、仕事のあとにガールフレンドのアリスとデートするのだが、実はアリスは別の男とも約束していて、フランクとさっさと別れたあとにその男、画家のクルーと会う。
クルーはアリスを自分の部屋に誘うのだが、その部屋でアリスをベッドに引きずり込もうとする。アリスはテーブルの上にあったパン切りナイフでクルーを刺し殺して逃げるのだった。
翌朝クルーの死体は発見され、捜査担当にされたフランクは現場の部屋にアリスの手袋の一方が落ちているのを見つけて、とっさに隠す。
フランクはアリスの一家が経営するたばこ店へ行きアリスと会うのだが、取り乱したアリスはうまく説明できない。フランクは何とかうまくアリスをかばおうする。
そんな2人が話しているところに外からトレーシーという男がやって来て、昨夜クルーの部屋に入るアリスの姿を見ていると言い、さらにアリスの手袋のもう片方を「部屋に落ちていた」とポケットから取り出す。トレーシーはアリスがクルーの部屋から出たあとに、クルーの部屋に行っていたらしい。
遠回しにトレーシーはフランクとアリスを脅迫し、店の奥の応接間でフランク、アリスとの3人で朝食をとりながらじわじわと2人をせめるのである。
そんなとき、現場のクルーの部屋に男が入って行くのを見たという「目撃情報」があり、その目撃者が警察で「前科者」の写真を見せられて、トレーシーの写真で「この男だった」と言う。
フランクのところに警察から電話があり、フランクは警察がトレーシーを「有力容疑者」として探していることを知り、一気にトレーシーに攻勢に出る。「前科者の男と、アリスとで警察はどっちが犯人と思うだろう?」と。
アリスの家に警官が到着し、トレーシーは窓から逃走するのであった。
映画の冒頭からしばらくはけっこう大ボリュームの伴奏音楽だけで、「サイレント映画」ではないかと思わせられてしまう。
それでも全体に、登場人物の表情に多くを語らせようとする演出はやはり「サイレント映画」のものだろう。
アリスはさいしょはフランクとクルーとを二股にかけ、まさに「いい気」になっているというか、クルーの部屋でもはしゃぎまわっている。
しかしクルーに襲われて逆に彼を刺し殺してからは、もう恐怖におびえておどおどした動作と表情になる。
この「殺人」のシーンは、壁に映る影と、カーテンから出されたクルーの手で表現し、表現主義的演出になっていたし、このときのアリスの「壊れた自動人形」のような動きも印象的だった。クルーの部屋を出て、夜の街を「心ここにあらず」というように彷徨い、ネオンの動きも彼女の殺人を示唆するように見え、物乞いの手もクルーの手を思い出させる。
フランクもまた表情での演技で見せてくれ、アリスが殺人犯だと知ったときの心配そうな表情から、トレーシーに脅されているときの苦虫を噛んだような表情、それがトレーシーの弱みを握ってからは急に目をギラギラとトレーシーを見下す表情になるし、ここからトレーシーもすっかり弱気の表情に変わってしまう。このあたりの心理的駆け引きを表情で見せる演出、「サイレント映画」の名残りなのだろうが、かなり面白かった。
トレーシーだが、警察に追われた彼は大英博物館へと逃げ込む。この部分の撮影はもちろん実際に大英博物館で行われているのだろうが、こ~んなアクション・シーンの撮影許可がよく下りるものだ。このシーンは有名なのか、わたしも別の機会にこの一部を見たことがある。
ラストには「良心の呵責」に耐えかねたアリスが警察を訪れ、すべてを話そうとするのだけれども‥‥。
ヒッチコック自身はけっこう早い段階で電車の中でカメオ出演しているのだけれども、この映画撮影時に30歳だったのに後に見慣れた体型でおられて、すぐに彼だとわかった。若い頃から変わらないことにちょっと驚いてしまった。