ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2023-01-03(Tue)

 昨日の午後のことだけれども、いつものように窓際のスポットで「ひなたぼっこ」をしていたニェネントくんが、キッチンの方に移動して水を飲んでいたのだけれども、そのとき、さっきまでニェネントくんがいたそばの窓の外に、茶トラのネコの姿が見えた。すりガラスの窓だけれども部屋の中をのぞき込むようにしていて、明らかに室内にニェネントくんがいるのをわかってそこに来ているようだ。
 わたしが窓の外をみてみようと窓のところへ行くと、おどろいて向かいの家の庭の方に逃げて行ったけれども、かろうじてその後ろ姿を写真に撮ることが出来た。
 このネコはしばらく前に、近くの家の前で見かけたことがあるコだろうと思う。ウチにニェネントというネコがいることがわかっただろうから、またやって来るかもしれない。

     

 この外のネコのことをニェネントは気づいていたのだろうか。いや、今まで窓の外にネコが来ていると出窓に跳び上がったり窓際を行ったり来たりして、なきごえをあげて騒いでいたけれどもこの日は平然としていたし、きっと気がついていないのだろう。

 ニェネントくんもついに、明日は「抜糸」の日だ。もうすっかり食欲も戻り、食べる量も具合が悪くなる前の食事量に戻っているし、3時ぐらいになるとわたしのそばにすわり込み、「そろそろ夕食をちょうだいよ!」というアピールをする。
 朝の「カリカリ」はしっかり出してあげただけの量を食べてくれるけれども、夕食の「ネコ缶」は去年までしばらくは食べ残してしまっていたもので、今も「わがまま猫」だとか「おさかな生活」みたいな、ニェネントくんの食いつきのいいご飯とまぜて出してあげているのだが、今日の夕食なんかあっという間にぜ~んぶ食べてしまって、「おいおい、それはかぶりつき過ぎだよ」などとは思った。もう以前の「ネコ缶」だけにしてしまっても問題ないように思える。まあしばらくは「おやつ」はいっぱいあげようと思うけど。

 昼間、パソコンをつけたままでテレビを見ていて、パソコンの方を見ると、いつの間にかパソコンの電源が落ちてしまっていた。そのときに何かを動かしたとかそういうことはしていないので、原因がわからない。電源コードを差し替えたりしたけれどもダメで、パソコン側の内部で故障が起きたのかとも思い、「今度はパソコンの具合が悪くなったのかよ!」と大ショックだったのだが、あきらめずに電源を伸ばして別のタップに接続すると、無事に復帰した。どうやらタップがダメなのか、タップの元電源が外れているかなのだろうと見当をつける。
 チェックしてみるとやはり、タップ自体に電気が来ていないようで、元がコンセントから抜けてしまったりしているのだろう。
 しかし、そのタップの元は机のうしろにまわり込んでつないであり、コレをチェックするだけでも「大掃除」に匹敵するような大仕事であった。やはりなぜかタップの大元のコンセントが抜けており、苦労して復旧。しかし「これでOK!」と思ったら、パソコンがネットに接続出来ない。よく見ると机の上の通信ルーターに電源が入っていない。もう全部復旧できたと思ったのに、また机の下にもぐり込んでルーターの電源コードを探り(もちろんこれも抜けていた)、机の裏にぶら下がっていたタップに差し直すのだった。

 しかし、何をいじったわけでもないのに、机の裏側でいつの間にか電源コードが「二ヶ所も」抜けてしまっていたなんて、何が原因だったのかさっぱりわからないのだった。

 さて、この日も何か「怪獣映画」を観ようかと、夕方から『パシフィック・リム』を観始めた。しかしどうも、「怪獣」よりも巨人兵器の「イェーガー」を描く方が主で、あんまし怪獣も登場しないのでわたしにはさほど面白くなく(菊地凛子が出演していてすっばらしいのだけれども)、45分ぐらい観たところで「残りは明日にしよう」と、観るのをやめてしまった。

 読んでいる『パリが愛したキリン』も、残り50ページぐらいで、一気に読み終えられるのだけれども、どうせ明日ニェネントくんを動物病院に連れて行き、抜糸してもらえば「待ち時間」も長くなることだろうと、残りは明日動物病院のロビーで読むことにした。
 それで寝るときには「美術手帖」の鴻池朋子特集を読むことにして、冒頭のインタビューを読むのだった。
 ‥‥むむむ、これはむずかしいというか「ラディカル」というか、鴻池さんは「美術」というものの「在り方」から問い直すような考えをお持ちの方だった。わたしはさいしょに彼女の「インタートラベラー 神話と遊ぶ人」展(2009)を観てその作品の魅力のとりこになったのだったが、その2年後の「根源的暴力」展であまりに作風が変わってしまったというか、ちょっと理解できない気もちもあったのだけれども、つまり今の鴻池さんはその「根源的暴力」展の延長から、サイトスペシフィックなインスタレーションを製作し続けておられるわけなのだ。それは「森」と同一化して「風景」ともなった作品でもあり、そんな「森」に棲む動物たちを示すことでもあるのだ。
 彼女の作品にはキツネやシカ、クマなどの毛皮を提示した作品もあるのだが、そこのところでわたしは『パリが愛したキリン』で読んだ、マルセイユからパリへの旅の途中で死んでしまった羚羊や牛などの「毛皮」も、いっしょに大事にパリまで運んだという記述を思い出したりした。