ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『キングコング:髑髏島の巨神』(2017) ジョーダン・ヴォート=ロバーツ:監督

 年末から、『大怪獣ガメラ』『大怪獣のあとしまつ』、そしてこの『キングコング:髑髏島の巨神』と連続して観たわけだけれども、私見ではこういった「怪獣映画」というものは根本的に「荒唐無稽」なわけで、まあ初代『キングコング』だとか初代『ゴジラ』にはそのあたりのリアリティでそういう「荒唐無稽さ」から抜け出していたようなところもあったが、わたしがこうやって連続して観た3本、いずれもまさに「荒唐無稽」だと思った。
 ただそれぞれの作品でその「荒唐無稽さ」の処理に差異があり、わたしの見たところでは『大怪獣ガメラ』では「もう、処理しきれないからこのまんまリリースしちゃえ!」というところがあったと思うし、『大怪獣のあとしまつ』はそもそも映画のコンセプト自体が「荒唐無稽さ」にあったわけだ。
 そしてこの『キングコング:髑髏島の巨神』では、そんな「荒唐無稽さ」を、ハリウッドらしい「力」でねじ伏せてみせたところがあったと思った。

 とにかくこの作品を観始めたときには、「こりゃあ『大怪獣ガメラ』よりも『大怪獣のあとしまつ』よりもスゴいや!(荒唐無稽だ!)」と思ったもので、「こりゃあまいったな」という感じだったのだが、まあいろんな情報をグツグツと「煮込み鍋」にぶち込んで調理するやり方には、「果たしてココまでわけのわからんものを鍋にぶち込んで、どれだけ美味い鍋モノになるんだ?」と闇鍋をのぞき込むような感覚だったが、「場」をその「髑髏島」に移してからは、まあ「壮大なファンタジー」状態というか、「だってココは<地図にない島>なんだから」と、「何でもあり」状態にも拍車がかかる。その過激さには「こりゃあ<夢オチ>で終わる映画なんじゃないか?」とも思わせられる。又は、「島を探索するヤツらはそのうちに身体からキノコが生えて来るにちがいない」とか、「この島の原住民は世界一のハイテクを駆使していた」とかなってもしょうがないのだ(まあ、この「原住民」の描写には、ほのかにハリウッド人の「白人優生思想」が垣間見えると思うが)。

 だいたい、「ガメラ」のときに、「ガメラが足を引っ込めたらジェット噴射して空を飛ぶなんて、地球上の動物の一般概念を越えている」と思ったけれども、この映画でもキングコングの宿敵の奇怪なバッタみたいなトカゲみたいな生物なんか「後ろ足」がないわけで、「前足がない」生物がひょっとしたら存在するかもしれないとして、あまりに「あり得ない」とは思う(まあこういう感想は「ヤボ」の骨頂ではあるだろうが)。
 「木くず」のような巨大生物は出て来るし、そもそも登場人物たちの「行き当たりばったり」っぽい行動をどうするのよ?と、「これだったらまだ『大怪獣ガメラ』の方が面白かったな(マシだったな)」とは思いはじめたのだったが、コレが終盤にキングコングが急に色気づき、その「感情」をあらわにするようになるあたりから、けっこう見ているわたしの心をつかんでしまい(もともと「キングコング」は好きなのだ)、ラストの30分ぐらいは完全にコングに感情移入して観てしまう。まあこのあたりは兵士らの指導者のサミュエル・L・ジャクソンこそが、そのトカゲみたいな妙な生物よりもコングと対峙するようになり、このあたりはわたしが読んでいる『物語 世界動物史』みたいに、「地球上の貴重な生物」を絶滅させるのが「西欧人」だった、ということとシンクロする(まあサミュエル・L・ジャクソンはアフリカ系ではあるが)。

 ラストのなが~いなが~いクレジットがようやく終わったあとに、「モナーク」という組織があって、地球上の「未確認巨大生物」の情報をかなり収集していることが示され、そこにはキングコングゴジラのほかに、「ラドン」「モスラ」、そして「キングギドラ」のことを把握していることが示されるのだった。これはハリウッド怪獣映画の次作、『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』に登場することになるらしい。もうとっくに劇場公開も終わっている作品だが、早く「無料配信」してほしい!