今朝(深夜)は、「双子座流星群」がマキシマムに観測される夜だといい、まさにわたしが出勤で駅に向かう4時半ごろも、まだまだ「流れ星」が見られるピーク時間なのだということ。この日は午後からはまた雨になるという予報だけれども、夜明け前の時刻はけっこう雲もなく、わたしが外に出たときには、いつもの星が夜空にちりばめられていた。
駅までの道、「こんな夜、流れ星が見られないものか」と、夜空を見上げながら歩いたのだったが、けっきょくやっぱり、「流れ星」などは目にすることはないままに駅に着いてしまった。
思い返してみても、近年「流れ星」というものを見たという記憶はまるでないなあ。茨城に住んでいた頃はこの辺りよりも星もたくさん見え、高層建築もなかったから空も広く見えたから、流れ星を見られるチャンスは今よりずっと多かっただろうとは思うけれども、そういうのを見た記憶は残っていないなあ。
ただ、これはもっともっと過去にさかのぼって、かなり強烈な「火球」を目にした記憶というのはある。これはたしか夕暮れ時の空に、地平線に水平に流れて行ったのだけれども、「星」というより明らかにもっと大きな赤い色で、流れて行きながら四方に赤い火花を飛ばしていた記憶がある(いや、アレは「火球」ではなかったという可能性もあるが)。
あ~んな強烈な「火球」を見てしまったもので、もうアレ一回で、それ以降の「流れ星」への遭遇運をぜ~んぶ使い果たしてしまったのかもしれない。
というわけで仕事に出て、わたしが仕事を終える頃には天気予報通りに、「雨」が降り始めていた。
帰路、自宅駅に着いた頃にはそんな雨もほとんどやんでいて助かったが、駅前のコンビニの入り口のところが黄色いテープで囲われていて、人が入れないようになっていた。「何か事件でもあったのだろうか?」と思ったら、どうやら昨日の強風で何かが飛んで来て、そのコンビニのあるビルの上の方の階のガラス窓が割れていて、破片がまだ落下する危険があるので、その真下には人が入れなくしてあるということらしかった。
それでウチの方に近づき、途中の児童公園のところに通りかかったら、公園の中の「すべり台」だかの遊具のまわりに赤いテープが張りめぐらされて「使用禁止」にされていて、「おや、こちらも<強風>の影響か?」と思ってしまったけれども、どうやらこちらは最近よくある、「この遊具は子どもだけで遊ぶには<危険>」ということで<封鎖>されてしまっているようだった。
これは見た感じ、左側の青いロープの格子が問題にされたのだろうなと想像した。子どもが遊んでいて、その身体だけがロープの下に抜けて落ちてしまい、それで首がロープに引っかかって「首吊り状態」になって窒息してしまう、という<危険性>を考慮したのではないかと思う。
せっかくの「遊具」が、そういう<危険性>とかで遊べなくなり、「遊具」ではなくなってしまうというのも悲しいことだ。わたしが普段この児童公園の前を通るときは、小さな子どもが親に付き添われて遊んでいる姿しか見ていないけれども。
帰宅すると、日曜日に注文してあった「ステレオミニプラグ オーディオケーブル」というヤツが配達されていた。わたしの推測が正しければ、このケーブルを使えば、またPCとオーディオコンポとの接続が正常に戻ることだろう。美しいリアルな「ステレオ音響」が聴けるはずだ。
‥‥と思ったら、またまたわたしは、注文で「失敗」をやらかしてしまっていたのだった。
わたしは商品説明の画面で、そのケーブルが「3.5mm」と書かれていたのを、勝手によく見ないで読み違え、「3.5メートル」だと思い込んでいて、「それだけの長さがあれば充分すぎる!」と思ってしまったのだけれども、それは「3.5mm」で、ケーブルのコードの「直径」なのだった。肝心の「長さ」はなんと「0.6メートル」で、あららら、ちょっと長さが足りない! ノートパソコンの位置をググっと動かして、何とかコードをつなげることは出来たけれども、かなり苦しい。こ~んな失敗ばっかりだ。
しかし、この新しいケーブルで音を出してみると、みごとに右チャンネルからも正常なヴォリュームで音が出て、やっぱり前の不具合の原因は、ケーブル内での「断線」のためだったということがはっきりした。これでとにかくは、わたしの「Music Life」が再開されるだろう。よかった。
まあ今はケーブルの長さが足りなくっていろいろと不便だけれども、そのうちにちゃんと、必要な長さのケーブルに買い替えてやろうと思う。
今日はパトリシア・ハイスミスの『ゴルフコースの人魚たち』から、「残酷なひと月」を読んだ。残りあと一篇で読了になる。
ヒロインの女性は三十代、病気の父親の世話で自由に動けず、フランスの片田舎で学校の教師をやっている。好きな小説を読み、その作者に「ファンレター」というか、感想とか、自分のこととかを書いて送るのが趣味というか。主に好きな作家3人へレターを出すけれども、いちばん好きなグレアム・グリーンはまったく返事もくれなくって、そりゃあ「大御所」だからしょうがないよね、とは思っている。でも別のイギリスの作家はさいしょのうちは2回ほど返事をくれた。うれしくって続けてまたまた自分のこととかを書いた手紙を送るけれども、返事は来なくなる。「やっぱりあの人も、そんなにしょっちゅう返事は書けないだろう」とは思っていたけれど、偶然、その作家の住むイギリスに旅行に行くことになり、その作家の住む家を訪ねてみることにする。
不意打ちのようなかたちで作家を訪ねると、作家は明らかにヒロインのことを迷惑に思っていることが、いくらヒロインが無神経だとはいってもひしひしと伝わってくる。言わないが、「もうしつっこい手紙はやめてくれ!」という感じなのだ。
その帰り道、深く深く落ち込んだヒロインは車道に飛び出して車の前に身を投げる。
ヒロインの命に別状はなかったが、その顔に大きな傷が残るのだった。大きな傷心のもととなったイギリスの作家のことは、あとでは「その程度の作家だったのよ」と思い見捨て、別の作家への手紙をせっせと書くことになる。
ラスト近くの、ヒロインの「感慨」がいい。
人生とは何かを求め、求めながらも手に入れずことができずに失望するものでしかない。そのあいだにも人々はうつろっていき、しなければならないことをする。――しかし、何のために? そして誰のために?
ヒロインはこの認識を得て、心の平静を得るわけだが、わたしの考えではこのヒロインはこの「事件」から何ひとつ学んではいない。ただ人の迷惑かえりみず、自分の欲望を見知らぬ他者にぶっつけるばかりである。
この短篇が刊行されたのは1985年のことらしく、これはまだまだ現在のインターネット全盛時代以前の「お話」だと思えるけれども、この短篇で書かれているのはまさに今、インターネットの世界の中で起きているような「お話」ではないかと思う。
ヒロインは、「わたしが大好きな作家の本をわたしが読んで気に入っているのだから、作家の側もそんなわたしに対して<アテンション>を払ってもいいのではないか」という考えがあるみたいだ。ヒロインは肝心の、「何のために? 誰のために?」という答えは出さずにスルーしているわけで、これは今のネット空間にあふれている<自己認識>ではあるだろう。
この短篇で面白いのは、このヒロインが大好きな作家にグレアム・グリーンの名が挙げられていることなのだけれども、そのグレアム・グリーンはずいぶんと早い段階で、「パトリシア・ハイスミスは単なる<ミステリー作家>ではなく、もっと純文学的に重要な作家であるだろう」と、ハイスミスを持ち上げてフォローした人ではあったわけで、彼女の最初の短篇集『11の物語』の序文は、グレアム・グリーンが書いているのであった。
う~ん、ここでハイスミスは、そんなグレアム・グリーンへの「謝辞」を述べているのではないかとも思えてしまう(もうちょっと脱線すれば、グレアム・グリーンは、当初フランスの「オリンピア・プレス」というポルノ専門出版社から刊行され、だ~れも顧みることのなかったナボコフの『ロリータ』を、「これは『傑作』である」と、さいしょに述べた人でもある)。